<< April 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

源義朝ゆかりの野間を歩いて(7) 内扇に伝わる話

[ 愛知 ]

 野間の内扇という地名は「うとげ」と読むそうです。


 
1159年12月、平治の乱で敗れ、落ち延びた義朝は、大垣の杭瀬川を舟で下り、今の南知多町内海海岸にたどり着き、山伝いに4キロ先の美浜町野間内扇(うとげ)に着きました。

 そこでは、正月の餅つきの準備をしており、腹のすいた義朝一行は村人が止めるのも聞かずに、餅になるセイロのおこわを、手づかみでほうばったと伝えられています。

そのお礼として、村人に「百合草」の苗字を与えて去りました。
 
内扇では、義朝を偲んで今でも正月三が日は、モチを食べないそうです。(あいコンシェルジェより)

乱橋から内扇の集落を望む。 






FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.09.05 Wednesday 00:00 | comments(5) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(6)野間大坊

[ 愛知 ]

密蔵院から野間大坊へ向かう道です。 



 野間大坊は、本堂に着く前に、この血の池が目にと飛び込んできます。 

 

長田親子に殺された源義朝の首を洗ったとされる池で、国に変事が起こると、池の水が赤くなるといわれています。  



池といっても、ほとんど水がありませんした。



地元の人もあまり寄り付かない心霊スポットというのを読みましたが、たしかに名前だけでも不気味なものですよね。(;O;)

ここまで来たら、ようやく人に出会いました(#^.^#)

野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院で、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、源義朝ゆかりの寺として有名です。 

 

白河天皇の勅願によって承暦年間(1077〜1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、源頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。 大門はその時建立されたものです。



大門  



以後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて発展しました。

本堂







 野間大坊(由来) 天武天皇(673〜686)の時、役の行者が草創、聖武天皇(723〜749)の時行基菩薩が再び開基し、弥陀三尊を守置し阿弥陀寺と称した。弘法大師は当寺に留錫、一千座の護摩供養を修し庶民の幸福を祈った。白河天皇の承暦年間(1077〜1081)一山を再建して勅願寺とし大御堂寺と命名された。親筆の金字の妙典八軸を納められた。源義朝公憤死の地で境内に墓地がある。又、縁結びの弁財天が良縁を授ける。建久元年(1190)源頼朝公により、守本尊開運延命地蔵菩薩が奉安された。守本尊は定期佛師作ではじめ平清盛の母の池の禅尼念持仏であった。頼朝十三の時平治の乱に敗れてとらえられたが、池の禅尼の命乞いによって助けられ、後天下を治めることが出来た。その時禅尼地蔵尊を頼朝公に与え、公は父の廟参の時当寺に納めた。尚、頼朝公相伝の延寿の秘法が当寺に伝わっている。(案内板より)  

本堂向かって左側には、鎌倉幕府五代将軍・藤原頼嗣寄進の梵鐘がある鐘楼堂があります。



鐘楼堂



平康頼の墓   





 
伊勢湾の方にある旅館で、源義朝御膳が味わえるそうですよ!

 

平治の乱に敗れた源義朝は、野間内海荘の荘司で、政清の舅である長田忠至の館にたどり着きましたが、恩賞目当ての忠致・景至父子の裏切りに遭い、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、殺されてしまいました。(「平治物語」)
 
しかし、「愚管抄」によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が、政清に自らの首を打つよう命じ、斬首した後に政清は自害したとされています。
 
義朝の墓には、義朝の最期の言葉「木太刀一本でもあらばかかる不覚はとらじ」と悔やんだという故事にちなみ、今でも多くの木太刀が奉納されています。
 
源義朝の墓




 
これは前に来た時になかったような・・・



同じ絵の絵馬を買いました!(^^)!



この墓の周りには、源義朝や頼朝にゆかりのある人物またこの地で自害した織田信孝の墓があります。
 
鎌田正清夫妻の供養塔(政家、政清、正家とも)


 
正清は、政清の母が義朝の乳母だったことから乳兄弟として最も信頼された郎党であったといいます。
 
鎌田政清

父は源為義の家人・鎌田通清。 義朝の東国修行に同行し、帰京後も側近として義朝に尽くしました。 平治元年(1159年)12月の平治の乱では、内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。
待賢門の戦いでは義朝の長男・義平とともに平清盛の長男・重盛と戦い活躍。
六条河原の戦いで源氏が敗れ、義朝が討死しようとするのを引き止めて共に東国を目指して落ちた。
 途中、落ち武者狩りの苦難に遭いながら義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館にたどり着く。だが忠致の裏切りにあい義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子・景致の手にかかって殺された(『平治物語』)。享年38。
『愚管抄』によると、罠を察知した義朝は政清に自らの殺害を命じたという。
文治元年(1185年)9月3日、政清の首は義朝の遺児・頼朝によって義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。
建久5年(1194年)10月25日、政清の娘が勝長寿院で父・政清と義朝の追善供養を行っている。政清に男子が無かった事から、頼朝はこの娘に尾張国篠木庄、丹波国名部庄の地頭職を与えている(『吾妻鏡』)。 (Wikipediaより)

織田信孝の墓


 
織田信長の三男・信孝は、豊臣秀吉に敗れてこの地で自害しました。

自刃の間があるのは安用養院です。

野間大坊(大御堂寺)は、池禅尼ゆかりの寺としても知られ、建久元年(1191年)に頼朝によって池禅尼の念持仏が奉安されたと伝えられています。 

池禅尼の墓



池禅尼は、平家に捉えられた頼朝の助命嘆願をした平清盛の継母に当たります。 藤原宗兼の娘として誕生。 平忠盛との間に家盛、頼盛を産む。
仁平3年(1153年)、忠盛の死後、出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と称され、後に頼盛は池大納言と呼ばれた。
平治元年(1159年)の平治の乱において捕えられた13歳の頼朝が、若くして亡くなった家盛に似ていることにより、池禅尼が清盛に対して頼朝の助命を嘆願したと言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。しかし、実際には頼朝が仕えていた、後白河の姉・上西門院や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものではないかという説もある。
頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も、彼女の息子である頼盛を平家滅亡後も鎌倉で庇護した。





続いて本殿へ







本殿に、大河のポスターが貼ってありました!



merryさんの記事はこちらをごらんください。

http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?eid=1038





FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.09.04 Tuesday 00:00 | comments(8) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(5)安養院

[ 愛知 ]
安養院(あんよういん)



「知多四国第五十三番」「開運七ヶ寺第六番」

安養院は承暦年間白河天皇の発願で大御堂寺の一院で、1190年(建久元年)源頼朝公先考菩提の為創建。 こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。

本尊阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩(藤原期の作)、地蔵菩薩

1583年、羽柴秀吉に岐阜城を追われた織田信長の三男・織田信孝が自害した「信孝自刃の院」があります。

辞世の歌

「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」を書いた後、腹をかき切って自ら腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたといわれています。

その血の跡が掛け軸に残っていて、掛け軸に描かれた梅の花は、四季折々に色を変えると伝えられているそうです。

何とも恐ろしい(*_*)
 
信孝の墓は、大御堂寺(野間大坊)にあります。
 
怒りを込めた辞世の句、血染めの掛け軸や自刃の短刀、自刃の間は非公開ですが、そのパネルを見せていただいたので、写真を撮らせていただきました。



掛け軸の左下が血の跡、手前に置かれているのが短剣です。

境内の樹齢600年の蘇鉄は、「あいちの巨木」に指定されています。









本堂



地蔵堂



この周りも一面田んぼです。
 





FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.09.03 Monday 00:00 | comments(4) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(4)密蔵院・はりつけの松・長田邸跡

[ 愛知 ]

密蔵院(みつぞういん)

こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。




 
本堂に安置されている不動明王は鎌倉期の作とされ、その他には「かじとり観音」と呼ばれる如意輪観音などがまつられています。
 
本堂 





 
由緒

白河天皇の勅願所大御堂寺の一山で宝乗坊と号し、大坊の別当職に対して学頭職の寺であった、宝暦年間に密蔵院と改称した。 
本尊不動明王、瀬戸の雲興寺と並んで盗難よけの霊場として有名である。
 
かじとり観音



霊験あらたかな観音様で交通安全はもとより家庭平和のかじ等諸々のかじをおとり下さって、誰にでもご利益をお与え下さいます。昔から願などかける人多く、赤門は夜も閉めない門となっている。
 
大御堂一山の古絵図、尾張光友公絵図、長田屋敷跡に出土の弥生式土器

裏山に「長田の磔松」がある。(案内版より)






不動堂


 
弘法堂



寺の奥には「はりつけの松」があります。

境内からも行けますが、藪の中を通っていくようです。

夏は蚊に注意!と案内のパンフレットに書いてあったので、

境内からではなく、野間駅から野間大坊へ続く道から、田んぼを通って行きました。

この案内板があります。



昨年と違って、舗装されていました(#^.^#)







辿り着きました!

長田忠致は桓武平氏の末流で、『尊卑分脈』による記述では道長四天王の1人とされた平致頼の5世孫(門真致俊の子)にあたります。

忠致は、尾張国野間の豪族で、娘は源義朝の乳兄弟である鎌田正清の妻となっていました。
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せますが、長田忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で殺害、政清をも殺し、二人の首を六波羅の平清盛の元に差し出しました。

これにより忠致は壱岐守に任ぜられますが、この行賞に対して不満を述べたために、清盛らの怒りを買い、慌てて逃げ帰りました。

後に源頼朝が挙兵すると、頼朝の元へ参上し、自らの罪を訴えました。
すると、頼朝から「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われ、平家追討に懸命に働いたといいます。

しかし平家滅亡後は、頼朝に父の仇として追われる身となり、頼朝の命で殺されたといいます。
「保暦間記」では、鎌倉に捕えられていた長田忠致は青墓宿で斬られたとされていますが、その一方、野間の密蔵院の裏山には、長田父子を磔にしたという松があります。

その際、「約束通り、美濃尾張(身の終わり)をやる」と言われたと伝えられています。

はりつけの松













辞世の句

ながらえし命ばかりは壱岐守  美濃尾張をばいまぞたくまはり
(清盛からの壱岐守と、頼朝からの美濃尾張(身の終わり)を掛けています。)

長田父子が処刑されたのは美濃青墓であったのか、それとも尾張野間だったのか。

処刑場所だけでなく、処刑時期、処刑方法についても諸説あります。

この磔の松の近くに、長田屋敷跡があります。



下高田遺蹟では、縄文、弥生時代の遺跡が発見されているそうです。


最後に・・・

忠致は永井荷風や三島由紀夫は長田忠致の子孫なのだそうですね。

「はりつけの松」は、merryさんの7月20日の記事もご覧ください。




FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.09.02 Sunday 00:57 | comments(6) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(3)湯殿跡・千人塚

[ 愛知 ]
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」 

法山寺の東側に湯殿跡があります。





平治の乱に敗れた源義朝は、野間にある鎌田政清の舅で、家人でもあった長田忠致の屋敷に身を寄せたましたが、そこで恩賞目当ての長田忠致・景致父子の裏切りに遭います。
長田父子は、義朝に入浴を勧め、義朝を油断させたところを、だまし討ちされ、鎌田政清も酒を呑まされ殺害されました。(「平治物語」より)

「愚管抄」では、長田父子の裏切りを察知した義朝が、政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされています。



湯殿跡
平治2年(1160)正月、京都平治の乱に於いて、平清盛軍に敗北した源義朝公が源氏復興の有志をもって、関東地方に逃亡の途中、この地より西に700メートルにあった長田屋敷に逗留中、正月三日、初湯に招かれ、その入浴中に長田父子に謀殺された湯殿跡地。

ここには源義朝の像が建てられています。





法山寺の西にある千人塚(せんにんづか)



仙人塚とも書きます。



長田一族と源義朝の家来が戦った時出た死者を埋めたところとも首の無い義朝の胴体を埋めた塚だともいわれています。



平治2年(1160)長田父子が源義朝公を謀殺した時に、長田一族が義朝公の家臣、渋谷金王丸、鷲栖玄光らと戦って討ち死した多くの者を集めて、この地に埋めたと言われている。
また首のない義朝公の胴体を埋めたという伝えもある。

この案内板の前に、大河の幟があり、そのために正面から撮影できず、このように右からと左から撮影しました 。
せっかくPRするなら、幟の設置場所も考えて欲しいものです。

ここは、湯殿跡よりも、もっと奥まっていて、人気もなく寂しいところでした。
女性一人で訪ねることは控えた方が良いと思います。



FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.09.01 Saturday 00:55 | comments(7) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(2)法山寺

[ 愛知 ]
 
乱橋から法山寺に向かいます。



法山寺(ほうさんじ) 約1300年前、行基菩薩が諸国巡化の折、薬師如来の像を刻みこの寺に奉安しました。

源義朝が殺された湯殿の所在地です。(美浜町サイトより)


 
ここにも幟が立っています。





長田忠致の湯殿跡に源頼朝が父・義朝の冥福を祈って建立し、薬師像を安置し、長田の遺領を寄進したといいます。














FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.08.31 Friday 00:00 | comments(4) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(1)乱橋

[ 愛知 ]

昨年に続いて二度目の訪問です。



今年は大河イヤーということで、幟が立っていました。



こののどかな景色は変わらずで

大河イヤーなのに人がいない・・・(;O;)

乱橋(みだればし)跡





源義朝が殺された知らせを聞いて駆けつけた家来と、長田の家来たちが戦った場所に橋が残っています。



伝 源義朝公最期の地

平治二年(1160)正月三日 義朝公謀殺の大事を聞いた家臣渋谷金王丸や鷲栖玄光らが湯殿にかけつけるときに、ここで長田の家臣とこの地にあった橋の辺りで乱戦し後に「乱橋」と呼ばれるようになった。
またその昔、法山寺の本尊薬師如来への参詣者が潮の満ち引きの間にこの橋を競って渡り、常に橋板が乱れがちであったとも言われている。
(案内版より)

ここに着くまで、歩いている人の姿はなく、車しか見かけませんでした(笑)



FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.08.30 Thursday 00:00 | comments(4) | - | 

鳳来寺

[ 愛知 ]
 
鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市の鳳来寺山標高520mに位置する真言宗の寺院です。



703年(大宝3)文武天皇の勅願により利修仙人が開創したと伝わっています。

源頼朝が平治の乱で落ち延びた際に、この鳳来寺の医王院で匿われたことから、鎌倉時代に源頼朝によって再興されたとも伝わっています。



参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた仁王門は国の重要文化財となっています。
鳳来寺に行ったのは、7年前のことで、画像を探してみたのですが、この仁王門の画像が見当たりません(;O;) 車で駐車場まで一気に登ったため、見逃してしまったかもしれません。

以下、もみじ祭りの写真です。












本堂



境内を歩いていくと、鳳来寺の東照宮に辿り着きます。







徳川三代将軍家光が、日光東照宮を参拝した時、松平広忠が於大方とともに鳳来寺に祈願して生まれたのが家康であったということを知り、ここに東照宮を建立することを決心したといわれています。 >



FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.08.05 Sunday 00:00 | comments(5) | - | 

柴ヶ森

[ 愛知 ]

名古屋の弥富市柴ヶ森にある史跡「柴ヶ森」を訪ねました。


 
平治元年(1159)12月の「平治の乱」で平家に敗れた源義朝らは、青墓の宿(現大垣市)まで逃れてきたが、平家の追及が厳しいため、舟に積んだ柴の下にかくれて、知多の野間へ落ちていくことにした。
途中、平家の検問を逃れ、松田(現立田村)で粥をごちそうになり、この地、二之江まできて、もう大丈夫だろうと舟荷の柴を川岸に上げた。
このことから「二之江村」が「荷之上村」と改められた。
また、川辺の柴は、芽を出し年々大きな森となった。これが「柴ヶ森」である。
記念碑の題字「柴ヶ森」は、佐屋町出身の元内閣総理大臣加藤高明の書である。
 (弥富市教育委員会)

柴ヶ森には八幡神社があります。







近隣の人々によって大切に守られている歴史を感じるお社でした。



駅を降りると、辺りはのどかな田園風景です。

バスやタクシーなどは見かけませんでした(^_^;)



FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.07.22 Sunday 00:31 | comments(4) | - | 

源氏塚

[ 愛知 ]
 
源氏塚という史跡を追って、近鉄名古屋線の近鉄蟹江駅から歩くこと15分・・・とガイドブックには書いてあったのですが、道を尋ねても、目的の公園を知らないという方ばかりで、道に迷うこと30分(;;;´Д`)

結局往復1時間以上かかってしまいました( ̄○ ̄;)!

1159年(平治元)年、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、知多の内海に逃れる途中で蟹江に立ち寄り、一時漁民にかくまってもらったといわれています。

ここ源氏塚公園の中に「源氏塚」という石碑が、また公園の隣には、八幡社があります。  

 











当時、小島であったこの地には、今でも源氏島という地名が残っています。


FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Ranking
クリックお願いします。
2012.07.21 Saturday 00:00 | comments(4) | - | 
<< | 2 / 6 PAGES | >>