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源義朝ゆかりの野間を歩いて(5)安養院

[ 愛知 ]
安養院(あんよういん)



「知多四国第五十三番」「開運七ヶ寺第六番」

安養院は承暦年間白河天皇の発願で大御堂寺の一院で、1190年(建久元年)源頼朝公先考菩提の為創建。 こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。

本尊阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩(藤原期の作)、地蔵菩薩

1583年、羽柴秀吉に岐阜城を追われた織田信長の三男・織田信孝が自害した「信孝自刃の院」があります。

辞世の歌

「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」を書いた後、腹をかき切って自ら腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたといわれています。

その血の跡が掛け軸に残っていて、掛け軸に描かれた梅の花は、四季折々に色を変えると伝えられているそうです。

何とも恐ろしい(*_*)
 
信孝の墓は、大御堂寺(野間大坊)にあります。
 
怒りを込めた辞世の句、血染めの掛け軸や自刃の短刀、自刃の間は非公開ですが、そのパネルを見せていただいたので、写真を撮らせていただきました。



掛け軸の左下が血の跡、手前に置かれているのが短剣です。

境内の樹齢600年の蘇鉄は、「あいちの巨木」に指定されています。









本堂



地蔵堂



この周りも一面田んぼです。
 





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2012.09.03 Monday 00:00 | comments(4) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(4)密蔵院・はりつけの松・長田邸跡

[ 愛知 ]

密蔵院(みつぞういん)

こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。




 
本堂に安置されている不動明王は鎌倉期の作とされ、その他には「かじとり観音」と呼ばれる如意輪観音などがまつられています。
 
本堂 





 
由緒

白河天皇の勅願所大御堂寺の一山で宝乗坊と号し、大坊の別当職に対して学頭職の寺であった、宝暦年間に密蔵院と改称した。 
本尊不動明王、瀬戸の雲興寺と並んで盗難よけの霊場として有名である。
 
かじとり観音



霊験あらたかな観音様で交通安全はもとより家庭平和のかじ等諸々のかじをおとり下さって、誰にでもご利益をお与え下さいます。昔から願などかける人多く、赤門は夜も閉めない門となっている。
 
大御堂一山の古絵図、尾張光友公絵図、長田屋敷跡に出土の弥生式土器

裏山に「長田の磔松」がある。(案内版より)






不動堂


 
弘法堂



寺の奥には「はりつけの松」があります。

境内からも行けますが、藪の中を通っていくようです。

夏は蚊に注意!と案内のパンフレットに書いてあったので、

境内からではなく、野間駅から野間大坊へ続く道から、田んぼを通って行きました。

この案内板があります。



昨年と違って、舗装されていました(#^.^#)







辿り着きました!

長田忠致は桓武平氏の末流で、『尊卑分脈』による記述では道長四天王の1人とされた平致頼の5世孫(門真致俊の子)にあたります。

忠致は、尾張国野間の豪族で、娘は源義朝の乳兄弟である鎌田正清の妻となっていました。
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せますが、長田忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で殺害、政清をも殺し、二人の首を六波羅の平清盛の元に差し出しました。

これにより忠致は壱岐守に任ぜられますが、この行賞に対して不満を述べたために、清盛らの怒りを買い、慌てて逃げ帰りました。

後に源頼朝が挙兵すると、頼朝の元へ参上し、自らの罪を訴えました。
すると、頼朝から「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われ、平家追討に懸命に働いたといいます。

しかし平家滅亡後は、頼朝に父の仇として追われる身となり、頼朝の命で殺されたといいます。
「保暦間記」では、鎌倉に捕えられていた長田忠致は青墓宿で斬られたとされていますが、その一方、野間の密蔵院の裏山には、長田父子を磔にしたという松があります。

その際、「約束通り、美濃尾張(身の終わり)をやる」と言われたと伝えられています。

はりつけの松













辞世の句

ながらえし命ばかりは壱岐守  美濃尾張をばいまぞたくまはり
(清盛からの壱岐守と、頼朝からの美濃尾張(身の終わり)を掛けています。)

長田父子が処刑されたのは美濃青墓であったのか、それとも尾張野間だったのか。

処刑場所だけでなく、処刑時期、処刑方法についても諸説あります。

この磔の松の近くに、長田屋敷跡があります。



下高田遺蹟では、縄文、弥生時代の遺跡が発見されているそうです。


最後に・・・

忠致は永井荷風や三島由紀夫は長田忠致の子孫なのだそうですね。

「はりつけの松」は、merryさんの7月20日の記事もご覧ください。




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2012.09.02 Sunday 00:57 | comments(6) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(3)湯殿跡・千人塚

[ 愛知 ]
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」 

法山寺の東側に湯殿跡があります。





平治の乱に敗れた源義朝は、野間にある鎌田政清の舅で、家人でもあった長田忠致の屋敷に身を寄せたましたが、そこで恩賞目当ての長田忠致・景致父子の裏切りに遭います。
長田父子は、義朝に入浴を勧め、義朝を油断させたところを、だまし討ちされ、鎌田政清も酒を呑まされ殺害されました。(「平治物語」より)

「愚管抄」では、長田父子の裏切りを察知した義朝が、政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされています。



湯殿跡
平治2年(1160)正月、京都平治の乱に於いて、平清盛軍に敗北した源義朝公が源氏復興の有志をもって、関東地方に逃亡の途中、この地より西に700メートルにあった長田屋敷に逗留中、正月三日、初湯に招かれ、その入浴中に長田父子に謀殺された湯殿跡地。

ここには源義朝の像が建てられています。





法山寺の西にある千人塚(せんにんづか)



仙人塚とも書きます。



長田一族と源義朝の家来が戦った時出た死者を埋めたところとも首の無い義朝の胴体を埋めた塚だともいわれています。



平治2年(1160)長田父子が源義朝公を謀殺した時に、長田一族が義朝公の家臣、渋谷金王丸、鷲栖玄光らと戦って討ち死した多くの者を集めて、この地に埋めたと言われている。
また首のない義朝公の胴体を埋めたという伝えもある。

この案内板の前に、大河の幟があり、そのために正面から撮影できず、このように右からと左から撮影しました 。
せっかくPRするなら、幟の設置場所も考えて欲しいものです。

ここは、湯殿跡よりも、もっと奥まっていて、人気もなく寂しいところでした。
女性一人で訪ねることは控えた方が良いと思います。



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2012.09.01 Saturday 00:55 | comments(7) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(2)法山寺

[ 愛知 ]
 
乱橋から法山寺に向かいます。



法山寺(ほうさんじ) 約1300年前、行基菩薩が諸国巡化の折、薬師如来の像を刻みこの寺に奉安しました。

源義朝が殺された湯殿の所在地です。(美浜町サイトより)


 
ここにも幟が立っています。





長田忠致の湯殿跡に源頼朝が父・義朝の冥福を祈って建立し、薬師像を安置し、長田の遺領を寄進したといいます。














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2012.08.31 Friday 00:00 | comments(4) | - | 

源義朝ゆかりの野間を歩いて(1)乱橋

[ 愛知 ]

昨年に続いて二度目の訪問です。



今年は大河イヤーということで、幟が立っていました。



こののどかな景色は変わらずで

大河イヤーなのに人がいない・・・(;O;)

乱橋(みだればし)跡





源義朝が殺された知らせを聞いて駆けつけた家来と、長田の家来たちが戦った場所に橋が残っています。



伝 源義朝公最期の地

平治二年(1160)正月三日 義朝公謀殺の大事を聞いた家臣渋谷金王丸や鷲栖玄光らが湯殿にかけつけるときに、ここで長田の家臣とこの地にあった橋の辺りで乱戦し後に「乱橋」と呼ばれるようになった。
またその昔、法山寺の本尊薬師如来への参詣者が潮の満ち引きの間にこの橋を競って渡り、常に橋板が乱れがちであったとも言われている。
(案内版より)

ここに着くまで、歩いている人の姿はなく、車しか見かけませんでした(笑)



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2012.08.30 Thursday 00:00 | comments(4) | - | 

鳳来寺

[ 愛知 ]
 
鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市の鳳来寺山標高520mに位置する真言宗の寺院です。



703年(大宝3)文武天皇の勅願により利修仙人が開創したと伝わっています。

源頼朝が平治の乱で落ち延びた際に、この鳳来寺の医王院で匿われたことから、鎌倉時代に源頼朝によって再興されたとも伝わっています。



参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた仁王門は国の重要文化財となっています。
鳳来寺に行ったのは、7年前のことで、画像を探してみたのですが、この仁王門の画像が見当たりません(;O;) 車で駐車場まで一気に登ったため、見逃してしまったかもしれません。

以下、もみじ祭りの写真です。












本堂



境内を歩いていくと、鳳来寺の東照宮に辿り着きます。







徳川三代将軍家光が、日光東照宮を参拝した時、松平広忠が於大方とともに鳳来寺に祈願して生まれたのが家康であったということを知り、ここに東照宮を建立することを決心したといわれています。 >



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2012.08.05 Sunday 00:00 | comments(5) | - | 

柴ヶ森

[ 愛知 ]

名古屋の弥富市柴ヶ森にある史跡「柴ヶ森」を訪ねました。


 
平治元年(1159)12月の「平治の乱」で平家に敗れた源義朝らは、青墓の宿(現大垣市)まで逃れてきたが、平家の追及が厳しいため、舟に積んだ柴の下にかくれて、知多の野間へ落ちていくことにした。
途中、平家の検問を逃れ、松田(現立田村)で粥をごちそうになり、この地、二之江まできて、もう大丈夫だろうと舟荷の柴を川岸に上げた。
このことから「二之江村」が「荷之上村」と改められた。
また、川辺の柴は、芽を出し年々大きな森となった。これが「柴ヶ森」である。
記念碑の題字「柴ヶ森」は、佐屋町出身の元内閣総理大臣加藤高明の書である。
 (弥富市教育委員会)

柴ヶ森には八幡神社があります。







近隣の人々によって大切に守られている歴史を感じるお社でした。



駅を降りると、辺りはのどかな田園風景です。

バスやタクシーなどは見かけませんでした(^_^;)



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2012.07.22 Sunday 00:31 | comments(4) | - | 

源氏塚

[ 愛知 ]
 
源氏塚という史跡を追って、近鉄名古屋線の近鉄蟹江駅から歩くこと15分・・・とガイドブックには書いてあったのですが、道を尋ねても、目的の公園を知らないという方ばかりで、道に迷うこと30分(;;;´Д`)

結局往復1時間以上かかってしまいました( ̄○ ̄;)!

1159年(平治元)年、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、知多の内海に逃れる途中で蟹江に立ち寄り、一時漁民にかくまってもらったといわれています。

ここ源氏塚公園の中に「源氏塚」という石碑が、また公園の隣には、八幡社があります。  

 











当時、小島であったこの地には、今でも源氏島という地名が残っています。


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2012.07.21 Saturday 00:00 | comments(4) | - | 

はりつけの松

[ 愛知 ]
  

野間の大御堂寺の近くには「はりつけの松」と呼ばれる古木が保存されています。

 

 

平治2年(1160)正月3日、野間内海の庄司・長田忠致は義朝を某殺の後、平家に仕えようとしたが果たさなかった。

頼朝は、天下統一の後勲功あらば美濃と尾張の国を与えようと約束をし、それを信じて長田父子は平家討伐においてしばしば手柄をたてた。

後に頼朝は論功行賞を与えると言って忠致・景致父子を捕らえ、この松に磔にして殺したと伝えられている。<案内板より>

 

 

松の古木


長田忠致の辞世の句碑

 

ながらえし命ばかりは壱岐神 美濃尾張をばいまぞたまはり

頼朝が約束した「美濃尾張」とは「身の終わり」の意味であったとか・・()

頼朝様に、座布団10枚あげたいですね。

        by merry


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2012.07.20 Friday 15:15 | comments(7) | - | 

大御堂寺(野間大坊)

[ 愛知 ]
 

 

平治の乱に敗れた源義朝は、京の都を逃れ、近江・美濃を経て知多半島南部にやって来ました。

この地を治める長田忠致(おさだただむね)は鎌田正清の舅であり、匿ってもらえると信じて身を寄せたのでしょう。

 

しかし裏切りにあい、この地で生涯を閉じました。

 

名古屋から名鉄知多新線・野間駅で降りて10分ほど歩くと、長田屋敷跡の看板がありました。

 

定説では、入浴中に謀殺されたとされていますが、前回(715)放映の大河ドラマでは義朝が家臣の正清と刺し違えて自害しましたね。

これはカッコ良かった!パチパチパチ!

 

そして、さらに5分くらい歩くと、義朝が葬られた大御堂寺(おおみどうじ)があります。

 

源義朝公御廟

 

 

入浴中に謀殺されたため「我に木太刀の一本なりともあれば」と悲痛な一言を残して最後を遂げたと伝わります。

墓には慰霊のため、木太刀を型どった護摩木が山のように供えられています。


 

後ろには鎌田正清とその妻のお墓があります。
正清の妻は、嘆き悲しんで川に身を投げたと伝わります。


 

また池禅尼の塚もあります。

 

 

池禅尼(清盛の継母)の嘆願で、頼朝が助命されたのは有名な話ですが、その時禅尼は自らの念仏寺であった延命地蔵菩薩を頼朝に与えたと伝わります。


 

建久元年、上洛途上の頼朝が初めてこの地を訪れたました。
そして父の菩提を弔うため堂塔伽藍を再建し、延命地蔵尊も奉納したそうです。

 

本堂・・知多四国八十八箇所霊場の50番札所「大御堂寺」

頼朝が奉納したとされる大日如来像があるそうです。

 

頼朝公が建立した大門


 

鐘楼

鎌倉幕府5代将軍・頼嗣公より寄進された梵鐘(重要文化財)があります。

 

本四国巡拝路の向こうに本殿があります。


 

本殿・・知多四国八十八箇所霊場の51番札所「野間大坊」として有名です。

ここに、延命地蔵尊が安置されているそうです。

 

 

そして境内には血池

 

ここで、義朝公の首級が洗われたと伝わります。

おぞましい話ですが、これが当時の習いです。

 

東国で再起を図ろうとしながらも、無念の最後を遂げた源義朝。

しかしその思いは、頼朝・義経たちにしっかり引き継がれました。

       by merry

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2012.07.19 Thursday 14:17 | comments(4) | - | 
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