<< April 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

井伊直親ゆかりの八幡宮

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

掛川の十九首塚から池辺神社へ。

 



この池辺神社の北には二つ池と呼ばれる池があり、現在でも池面に突き出した半島部に八幡宮を祀る社が鎮座しています。

 





八幡宮由来

十九首宇佐八幡宮と称し元は掛川市十九首の地にあった。
井伊谷の領主井伊直親(幼名亀之丞)が今川家に謀反を疑われ、永禄5年(1563年)その釈明に駿府に向かう途中掛川領主朝比奈泰朝に主従19人が謀殺された。よってこの地に祀り八幡宮を建てたと大池のほとりにあった旧家(現掛川大池こども園)ねんや(禰宜家)鈴木家文書に記されている。
井伊家は彦根本家とは別に直親の曾孫直好から4代にわたって掛川領主を務めている。
元禄4年(1692年)直好が城主の時上屋敷の大池に遷座され現在に至っている。
慶応4年東征大総督有栖川宮熾仁親王は官軍を率いて江戸に向かう途中掛川に宿泊大池の八幡宮を参拝された。
目と鼻の先に池辺神社が祀られており池に面して二つの神社があることは歴史的な背景を物語るものと思われる。

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

2017.03.25 Saturday 23:03 | comments(4) | - | 

井伊直親た討たれた十九首塚

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

桶狭間の戦いで、敗北した今川家の勢力が弱体化すると、今まで今川家に臣従してきた松平元康(徳川家康)が独立。織田家と同盟を結び、今川家との対決姿勢を見せ、今川家に反旗を翻す在地領主も出てきました。

1562年(永禄5)井伊家の当主となった井伊直親は、遠江を手中にしょうとしていた三河の元康から、今川を見限り徳川に付くよう誘いを受けたとされています。

直親が家康と通じているという嫌疑を、小野但馬守今川氏真に伝えたことから、氏真は激怒。
直親を駿府館に呼び出し、真意を聞くことになりました。

直親は、申し開きのため、19人の従者を連れて、駿府館に向かいますが、その途中の掛川の十九首で、今川氏真の命を受けた重臣で掛川城主・朝比奈泰朝に殺害されてしまいました。

直親の殺害場所とされる十九首は、その地名の由来でもあり日本の各地に伝わる平将門の首塚伝承がある場所です。

平安時代の中頃、関東を拠点に、京都の朝廷に対し反乱を起こした将門は、天慶3年(940)2月14日、下総国猿島(茨城県坂東市)において、平貞盛・藤原秀郷らの軍勢との合戦で敗死。その首は秀郷らによって京に運ばれ、晒し首にされましたが、その首は、将門の故郷へと向かって飛び立ち、途中で力尽き落下したのが各地に伝わる首塚です。
将門の首塚としては東京の大手町にある首塚が有名ですが、掛川の十九首の首塚は敵将の秀郷によって埋葬されたとされるものです。


天慶3年2月14日、平将門を滅ぼした秀郷は、将門、家臣19人の首級を持って京に上る途中、京からの検視役と掛川で出会いました。
秀郷は、小川で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、 秀郷は、「将門は、逆臣とはいえ、名門の出である。その屍に鞭打つことはしてはならない。」と言い、 十九人の首を別々に埋葬して、丁寧に供養しました。

東光寺の山門



本堂


東光寺の本堂左側から奥に進むと、墓地があり、向かい側の整備された公園に、十九首塚があります。



昔は19基あったものが時代と共に減ってゆき、将門のものと思われる大きな1基だけが残されたといわれています。その後、将門の首塚を取り囲むようにして18基の首塚が新しく作り直されました。地元では首塚を町の守り神として、彼岸と命日にあたる8月15日に供養祭が行われています。(掛川市観光情報サイトより)

旧十九首塚


この十九首塚がある十九首町は、地元の人からは「じゅうくしょ」と呼ばれるそうで、町の名前になっています。現在の東光寺南側の下俣川という小川で首を洗ったといわれ、血洗川と呼ばれました。そして川に架かる橋に首をかけて首実験を行ったことから、「懸川」→「掛川」という地名になったとする説があります。



十九首塚の由来

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の5代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平5(935)年、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興味され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3(940)年2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首待ち)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。 平成14年3月

将門公とともに供養されている武将

相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高

井伊直親についての案内板が新しく設置されているかと思い、久しぶりに訪ねてみたのですが、この幟しかありませんでした。

IMG_5095 十九首塚

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

 

2017.03.25 Saturday 08:00 | comments(4) | - | 

八幡平の城跡

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

八幡平の城もまた新野氏の城であり、舟ヶ谷の城と同じく新野古城と呼ばれています。

この他、天ケ谷の城平、釜原城など6カ城が存在しています。


釜原城入り口





ここも怖そうなので、ここでストップ(..;)

次に八幡平の城跡へ移動。

想慈院の駐車場の隣りに「八幡平の城跡」の案内板があります。

 





八幡平の西南方尾根続きに、この土地の領主新野氏が城主であった舟ヶ谷の城山があるが、その詰城であったものを戦国時代、即ち天正年間初期(1578年頃)武田軍により高天神城への軍道の押さえとして改修されて現在見ることの出来る遺構となった。山尾根を切る多くの堀切、二重の堀切や横堀は武田氏独特の築城手法であり、貴重な歴史的文化遺産である。

想慈院



相慈院には武田軍が駐屯した伝承があるそうです。


 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

2017.03.24 Friday 23:09 | comments(2) | - | 

新野左馬助の居城 舟ヶ谷の城山

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

舟ヶ谷の城山(ふながやのしろやま)は、今川一族で新野領主・新野左馬助の居城と伝わる城です。



昭和45年(1970)、鈴木東洋先生により「城山」の字名から城跡が確認され、47年(1972)静岡古城研究会が調査を行い、縄張り図が作られました。
 
現在の遺構は、新野左馬助の時代の遺構ではなく、山城として利用された最終的な形を残すもので、戦国期、特に天正初期、高天神城を中心とした武田・徳川両軍の攻防の頃、武田軍により改修されたものと考えられています。

大規模農道工事や採土により、城の中心部分が破壊されていますが、堀切が確認できます。



城山入り口


ここからは道が狭く車が入れないので、歩いて行きます。



誰もいません(..;)



後ろを振り返ると・・・こんな景色です。





この先の様子がわからないので、ここでストップしました。

(新野左馬助公顕彰会HP参照)

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

2017.03.23 Thursday 08:00 | comments(2) | - | 

新野左馬助を祀る左馬武神社

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

新野氏は、現在の御前崎市新野を拠点とした鎌倉御家人・新野太郎に始まり、その後、鎌倉末期以降、今川氏の祖国氏の三男俊氏の子俊国が、新野氏の名跡を継いだものと考えられています。  

新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)は今川氏の一族であり、新野舟ヶ谷城の城主で新野村三千石を治めていました。親矩も新野新城(舟ケ谷城)の城主として今川氏に出仕していました。

左馬助は、井伊直虎の母親(祐椿尼)の兄にあたり、妻は奥山因幡守の妹。
親矩は井伊氏の縁戚であったこともあり、妹の娘で井伊家の家督を継いだ直虎や、徳川方へ寝返った嫌疑により今川氏真に討たれた井伊直親の遺児・虎松(後の井伊直政)を保護しました。

桶狭間の戦いの後、今川家は急速に衰え、三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、左馬助は今川家に忠節を尽くしましたが、永禄7年(1564年)、今川家に謀叛を起こした飯尾連龍の引馬城を攻め、天間橋(安間橋)付近で討ち死にしました。

虎松は、後に井伊直政となり、関ケ原合戦後、彦根18万石城主に出世。直政は、命の恩人である新野左馬助に報いるため、左馬助の息女を直政の重臣に婚礼させています。

また、井伊家においては、幕末になり、34代・井伊直中は、その子・井伊中守(大老・井伊直弼の兄)に新野左馬助親矩の名跡を相続させ、新野家を再興します。
                   
名跡相続後、新野村に左馬助の墳墓調査を行い、間蔵に墓石を発見しますが、この地が現在の左馬武神社です。

昨年、御前崎の新野左馬助の里を訪ねました。

こちらが観光案内所です。
あいにくこの日は休館日のようでした。

 

 



が、ここに周辺案内図や、外にも資料があるので、助かりました。

 







ここから車で数分行くと、小高い山に建つ神社が左手にあります。

IMG_0351 左馬武神社

左馬武神社(さまたけじんじゃ)は、地元住民から「情けの武将」として慕われる新野左馬助を祀っています。

急な階段が続きますが、整備されています。

 



周りは茶畑です。

 

 


左馬助の墓とされる五輪塔

 







境内からの眺め

 



「新野左馬助公顕彰会」により管理され、毎年4月に手もみの新茶が献上されています。

(御前崎市商工観光課パンフレット参照)

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

2017.03.21 Tuesday 11:18 | comments(3) | - | 

寺野六所神社

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

渋川つつじ公園の近くにある寺野六所神社

 


井伊直親(亀之丞)が、井伊谷に帰還する道筋で、寺野宝蔵寺観音堂に寄進された後、六所神社に奉納されたと伝わる「青葉の笛」を所蔵しています。

「青葉の笛」の公開日は限られており、井伊谷の地域遺産センターは複製品が展示されています。

 



「建立の時代は詳かではないが、文献棟札等より天慶年間と伝う。後承久年間に至りこの土地は三河国乃信濃国に通ずる要衝あった。其の後建武中興の時代に至り領主井伊遠江守道政、井伊谷城に宗良親王を迎奉り官軍に従いて王事につくす。宗良親王におかれては、王政復古を願い掛けられこれの満願の時、当神社へ宝物として横笛一本を寄進された。此れを青葉の笛と称する。」
(静岡県神社庁ホームページ参照)

 

 

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

2017.03.20 Monday 09:37 | comments(4) | - | 

亀之丞(井伊直親)が青葉の笛を寄進した寺野宝蔵寺観音堂

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

浜松市北区引佐町渋川の寺野宝蔵寺観音堂

 



弘治元年(1555)、亀之丞(井伊直親)が信州の松源寺から井伊谷へ帰国の際、青葉の笛は、最初このお堂に寄進され、のちに六所神社に奉納されたといわれています。




山号にちなんだ正式名称は「直笛山(ちょくてきざん)宝蔵寺」
井伊直親の『直』と『笛』の字が用いられています。

観音堂は、毎年1月3日に、寺野ひよんどりが行なわれることでも知られています。



ひよんどりは、「火踊り」がなまり伝えられたもので、松明を手に、五穀豊穣や無病息災を祈願しながら舞い踊る祭礼で、約400年前から伝承されています。
13番の舞のなかでも、3匹の鬼が松明を叩き消す全国でも珍しい舞があるそうです。

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

2017.03.18 Saturday 11:47 | comments(5) | - | 

大樹寺

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの今川義元討死の報を聞いた松平元康(のちの徳川家康)は、岡崎の松平家の菩提寺・大樹寺に手勢18名ととも逃げ込みました。

しかし寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げると、登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)」の経文[汚れなき世を築くために生きよ」の教えを説いて諭しました。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固め、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させました。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになります。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空となった古巣の岡崎城に辿り着いたとされています。

大樹寺の歴史

応仁元年(1467年)、松平氏宗家第4代当主の松平親忠が井田野合戦の死者を弔うために千人塚を築きました。しかし、塚が振動し、悪病が蔓延するなどの事態となり、増上寺開山聖聡の孫弟子勢誉愚底(せいよぐてい)に念仏をさせて抑えたといいます。
文明7年(1475年)、戦死者供養のため松平親忠の開基、勢誉愚底の開山により大樹寺が創建されました。「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して、勢誉愚底により命名されたと伝わるものです。
親忠により大樹寺は松平氏の菩提寺とされ、松平郷の高月院にあった墓から分骨され、先代3代である松平親氏墓、松平泰親墓及び松平信光墓が大樹寺に作られました。
天文4年(1535年)、松平氏宗家第7代当主松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔が建立され、現在、国の重要文化財となっています。

山門



寛永18年(1641)徳川家光建立(県指定文化財)
楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)が掲げられ、釈迦三尊16羅漢を安置しています。

 



本堂



松平家と徳川幕府の庇護のもと隆盛を誇っていた大樹寺も、安政2年(1855)幕末の騒然たる時代に、出火により本堂、庫裏、書院など主要建物が全焼し、後に約2〜3割減の規模で再建されたそうです。


鐘楼



寛永18年(1641)3代・徳川家光公建立。楼上の大鐘は9代・家重改鋳によるもの。

松平八代墓

 



元和元年(1615)徳川家康は、先祖松平八代廟所を寺内に建立しました。

 



元和3年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされます。

昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立しました。

徳川家康の墓

 

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

2017.03.17 Friday 11:21 | comments(4) | - | 

虎松(井伊直政)ゆかりの子育て地蔵と梛の木

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

龍潭寺の境内にある子育て地蔵


虎松の無事成長祈願仏

永禄5年(1562年)虎松の2歳の時、父の井伊直親は今川氏真の手に掛かり 掛川城下で殺されました。

虎松も今川氏に命を狙われましたが、井伊直虎の母の兄である新野左馬之助(親矩)が、今川氏真や寿桂尼に助命嘆願し、虎松を保護。虎松は、親矩のもとで母と暮らすことになります。

しかし、虎松の行方については諸説あり、永禄7年(1564年)、左馬之助が引馬城攻めで討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、井伊直盛の正室・祐椿尼と実母が養育したともいいます。

永禄11年(1568年)、武田氏が今川氏を攻めようとした際、家老の小野但馬守が今川氏からの命令として、虎松を殺し、小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして、左馬之助の叔父が住職をしていた浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入れました。

 



虎松の人形


また、虎松ゆかりの梛の木もあります。





梛の木

 井伊家24代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃井伊家の安泰を念じて植えられた御神木です。
 1560年(永禄年間)当時の井伊家は、22代直盛の戦死、23代直親が誅殺され、家老小野但馬の謀反など受難の時期でした。
 直政母子は龍潭寺松岳院に身を寄せ、お地蔵様を祀りその傍らに「なぎの木」を植えて我が子の安泰を日々念じたといわれます。
 「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるとも云われています。

直虎と虎松

 

 

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

2017.03.17 Friday 01:52 | comments(5) | - | 

虎松誕生 井伊直政出世の地

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

永禄4年(1561年)2月19日、井伊直親と奥山朝利の娘との間に長男・虎松(後の井伊直政)が誕生。

しかし、父の直親は、直政の生まれた翌年の永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺されてしまいます。
当時、虎松はわずか2歳であったため、井伊直虎が井伊家の当主となります。

天正3(1575)年,浜松城下で徳川家康に見いだされ、虎松を万千代と改めます。
さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられました。

元服後は、2井伊直政と名を変え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。

龍潭寺の境内に、井伊直政出世の地の碑があります。

井伊直政公出世の地の碑




 徳川四天王        
    井伊直政
 
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田で名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。8歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長します。
 15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は、旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付けます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は6万石に出世、井伊家の再興を果たしました。
 慶長5年、関ヶ原合戦で
は東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
 慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じました。

 

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

2017.03.14 Tuesday 11:46 | comments(5) | - | 
<< | 2 / 13 PAGES | >>