大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
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西郷どん 沖永良部島(新選組続き)

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 今回は、屯所の近くにある壬生寺の紹介です。ここお寺の敷地で剣術の稽古などえをしたようです・又、隊員のお墓があります。

江戸幕府最後の抵抗の一つが新選組です。幕末に現れ、幕府を倒そうとした志士たちを捕らえ倒幕の流れを食い止めようと命を張った若者たちの集団です。


 

壬生寺地図
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壬生寺
新選組の武芸の鍛錬の場でした。近藤や他隊士の墓があります。
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幕末の京都の治安を守るため新選組が結成され、主に祇園、三条通りなどの町人街、繁華街の警護をしました。京都守護職は御所、
見回り組は、二条城や官庁街を警護していたようです。




新選組隊員のお墓があります
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(クリック拡大)
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(クリック拡大)
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隊長:近藤勇像
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芹沢鴨  平山五郎の墓
1863年9月内部抗争で粛清される

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河合耆三郎(きさぶろう)
1866年切腹

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隊員7名の墓
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ああ 新選組(クリック拡大)
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新選組の歴史

1863年

2 将軍上洛の警護のため、江戸で集められて近藤勇たちが浪士組として京入りました。

8月 八月十八日の政変の警備に出動して、その行動が評価され会津藩主松平容保から「新選組」の名を賜りました。
※八月十八日の政変 会津と薩摩が長州藩を京都から追放する

 

1864年
6月5 池田屋事件(長州藩士を中心にした尊王攘夷派の志士を惨殺、捕縛する)

 

1865年 
隊員が200名を超す集団になったため屯所を壬生村から西本願寺に移す。

 

1867年
 新選組、幕臣となる(農民だった近藤勇らの若者は武士になりたくて浪士組に入隊し、ついに幕府の正規隊員となりました)

11月  坂本竜馬暗殺される

 

1868年(慶応4 明治元)
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月 鳥羽伏見の戦い

 

3 甲州勝沼の戦い(甲陽鎮撫隊)

 

4 近藤勇捕縛され、板橋刑場で処刑される

 

5 沖田総司 江戸で肺結核のため病死

 

8 政府軍 会津若松城を攻撃 白虎隊自刃

 

9 明治に改元

 

 
1869(明治2)年

5月函館で土方歳三戦死

  新選組降伏

  幕府軍降伏 戊辰戦争終結

 


 

 

| 京都 | 00:01 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷どん、二回目の島流し(新選組)

JUGEMテーマ:大河ドラマ

7月8日の大河は、特別編でこれから出てくる坂本龍馬、勝海舟、岩倉朋美、桂小五郎について語る番組でした。そして、西郷どんが革命家に変わってゆき、江戸城を無血開城します。どんなふうに4人とからみ江戸幕府を倒してゆくのか楽しみです。

 

大河ドラマでは、西郷どんの2回目の島流しを6月24日「地の果てにて」(徳之島から沖永良部部島)、7月1日「生かされた命」(沖永良部島での生活、生麦事件)で放送しています。

 

1862年8月 2回目は、島津久光への命令違反で罪人として徳之島に送られそのあと、沖永良部島に流されました。徳之島についたとき、奄美大島に流されたときに結婚していた愛加奈が子供を連れて会いにきました。再開を喜ぶ間もなく、沖永良部島に連れていかれます。
 

1864年2月西郷どんが鹿児島に戻ります。


 

1859年に一度目の島流しで奄美大島に約3年、鹿児島に帰るも40日で2回目の島流しで徳之島から沖永良部島の流され約2年間の滞在で、西郷どん、33歳〜38歳の間に起きた出来事でした。



 
西郷どんが島流しされている間の1863年2月浪士組が入京して、京都の治安維持のために活動していました。1864年6月に起きた池田屋騒動で尊王攘夷派約20名を襲撃して名をあげ、新選組を名のりました。

 
新選組結成の地

1863(文久3)年、将軍;家茂の上洛警護のために集められた浪士たち約200名は、上京して壬生村の八木邸、旧前川邸を屯所として、「壬生浪士組」が結成されました。

 

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八木邸
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新選組発祥の地(クリック拡大)
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八木家玄関
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芹沢鴨が惨殺された部屋
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(クリック拡大)
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所在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町24
 

新選組旗


 
新選組隊長 近藤勇





京都鶴屋鶴寿庵
八木家は、昔からの由緒ある家で、京都守護職とも関係があって、そんなことから浪士組を受け入れたようです。今は、お菓子屋さんを経営しておられるようです。

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入場料を払うとお茶とお菓子がついてきます。
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旧前川邸(八木邸東隣りに在ります)
こちらにも新選組隊士が住んでいました。
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現在、住んでおられる方がいますので、中へは入れません。
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| 京都 | 02:38 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷一回目の島流し

JUGEMテーマ:大河ドラマ

7月8日の大河は、特別編でこれから出てくる坂本龍馬、勝海舟、岩倉朋美、桂小五郎について語る番組でした。そして、西郷どんが革命家に変わってゆき、江戸城を無血開城します。どんなふうに4人とからみ江戸幕府を倒してゆくのか楽しみです。

 

そこでこのブログも前半のまとめとして西郷どんが人間形成をした島流しについて書きました。

第一回は、身を隠すために奄美大島に行った時、5月13日「流人 菊池源吾」、5月20日「愛加那」、6月3日「別れの唄」放映されました。

第二回目は罪人として沖永良部島に流された時です。

 

1859年、西郷は幕府から身を隠すため、奄美大島に行き、愛加奈と結婚し子供をもうけます。

1860年、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、ますます幕府の権威がなくなってきました、

同年に皇女和宮と将軍家茂との結婚が決まり、

1862(文久2)年2月に結婚しました。

同じころに西郷は、奄美大島から鹿児島に帰りました。

 

皇女:和宮様の像が神戸市須磨区に建てられているので紹介します。

 

 

惜しまじな 国と民との 為ならば
身は武蔵野の露と消えゆとも

 

和宮様の像は、源義経が平家と戦った一の谷にあります。

 

一の谷から見た義経対平家の戦った浜

 

 

『和宮さんは、6歳で有栖川熾仁(たるひと)親王と婚約されていました。

幕府の強い要望で婚約を破棄し、17歳で徳川14代将軍家茂に嫁がれました。

 

その後、有栖川親王が官軍の総指揮官となられて江戸幕府への総攻撃をかけようとした時に、和宮様は、親王に嘆願して江戸の町を戦火から救われました。

 

昭和9年に外遊から帰った中村直吉氏が西欧の女性の姿にふれ、日本女性の美徳保持をいつまでもと願い、県下の三女学校にこの和宮像を寄贈されました。』

(案内板より)

和宮様の像が建てられている場所から西に行った所に有栖川親王の別邸があります。戦火を免れた像が元の婚約者であった有栖川親王様の面影のある別邸近くに像が建てられたのでしょうか。

 

有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)
戊辰戦争(1877年)の発端となった鳥羽伏見の戦いの東征軍大総督に任命される
西南戦争(1877年)では征討総督、その後は陸軍大将
明治28年、別邸(現舞子ビラ)で静養されましたが、ご逝去されました。(享年61歳)

 
有栖川宮は明治22年夏、この場所に来られ、明石海峡の景色に魅せられ別邸を建てることを決められました。

 
建設当時の有栖川別邸

 
有栖川邸より見た明石海峡(遠方に見える淡路島〉

 
現在の明石海峡

 
有栖川別邸跡に建てられた舞子ビラ(ホテル)

 

 

| 兵庫 | 02:08 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
薩英戦争の砲台跡 「祇園之洲砲台」

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さらに石橋記念公園の奥に進んでいくと

 



薩英戦争の砲台跡があります。

 





ここは祇園之洲という稲荷川の河口に川浚いの土砂を集めてできた州で、で、砲台は祇園之洲砲台と呼ばれていました。

文久3(1863)年の薩英戦争の際には6門の砲が配備されていました。



世界の実力を知った薩英砲撃戦の遺跡

祇園之洲という名称は、稲荷川河口のお祇園社(八坂神社)に由来します。
五社のひとつとして歴代藩主の信仰が厚く、京都祇園社にならった祇園祭りは、
今もなお華やかな御神幸行列を伝えています。
 このあたり一帯は昔、遠干潟で祇園浜と呼ばれていましたが、
島津家27代斉興のもとで藩政改革を断行した調所広郷が、兵士の屯集所として埋め立てました。
 その後、斉彬がここに砲台を設置し、薩英戦争で初めて実戦に供されたのです。
正午に始まった砲撃戦は、3時間を経過し双方に相当の被害が出ていました。最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号が、目の前で浅瀬に乗り上げたのはその時です。ところがすでに砲台は、イギリスの誇るアームストロング砲で打ち砕かれ、藩士たちは指をくわえて敵艦が救出されるのを見送ったのです。
 イギリス側の死傷者63名、薩摩側は死傷者13名でしたが、城下の被害はすさまじく西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めました。



石橋記念公園には薩英戦争の記念碑も建っています。

 






 

by しずか

 

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| 鹿児島 | 01:28 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
篤姫も渡った西田橋

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鹿児島市の中心を流れる甲突川には、玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の5つのアーチ石橋が架けられており、「甲突川の五石橋」として県民に親しまれてきました。

江戸末期、肥後(熊本県)から招かれた名石工「岩永三五郎」指導のもと建造され、創建以来 150年余の間、現役の橋として利用されてきました。

その五石橋の中でも「西田橋」は、城下の表玄関として豪華に建造され、篤姫のお輿入れの際、渡ったといわれます。

 



しかし、平成5年(1993年)8月6日の集中豪雨により、2橋が流失してしまい、県が西田橋を、鹿児島市が高麗橋と玉江橋を行い、あわせて平成12年に五石橋の歴史や技術等を伝える石橋記念公園として開園しました。(鹿児島県観光サイト)

 



ここから桜島も見えます。


江戸時代、西田橋は鶴丸城から九州街道へ至る島津家参勤交代の道筋にあり、城下への玄関口の役割を果たしていました。

 





西田橋を渡ります。

 



正面に西田橋御門が見えてきます。

 



御門は西南戦争で焼失してしまい、現在の建物は当時の資料や仙巌園の門などを参考に復元されたものです。

 

 

by しずか

 

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| 鹿児島 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
薩英戦争本陣跡

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鹿児島市常盤町に残る薩英戦争本陣跡

IMG_9656 薩英戦争本陣跡

薩英戦争時、海に近い鹿児島城がイギリス軍の大砲の射程圏内となるため、海から離れた千眼寺(せんげんじ)に本陣に置かれ、島津久光忠義親子がここから藩士たちの指揮を執りました。

千眼寺は黄檗宗の寺で、文化2年(1805)、島津重豪が荒田村から現在地に移築したといわれています。

明治2年(1869)廃仏毀釈によって寺は壊され、現在は民家となっています。
遺構はほぼ残っておらず、庭に井戸や智福和尚の石像が残っているそうですが、敷地内の見学はできません。

家の前には、石碑と案内板が立てられています。

IMG_9657 薩英戦争本陣跡

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(鹿児島県観光サイト参照)

by しずか

 

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| 鹿児島 | 07:08 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
イギリス艦、鹿児島湾に現る!

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鹿児島市西千石町の交差点に、大山巌西郷従道山本権兵衛の走る姿を描いた像がありました。

 





イギリス艦、鹿児島湾に現る



イギリス人に死傷者を出した生麦事件を解決するため、翌、文久3(1863)年、イギリスは薩摩に7隻の艦隊を派遣した。いわゆる薩英戦争である。イギリス艦隊入港の知らせを聞いて、大山巌、西郷従道、山本権兵衛も港へ急いだ。

 

 

by しずか

 

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| 鹿児島 | 07:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
寺田屋殉難九烈士の墓がある大黒寺

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京都市伏見区に、真言宗の寺院「大黒寺」があります。

 

もとは「長福寺」という寺名でしたが、江戸時代の初めこの近くに伏見薩摩藩邸が置かれ、島津家の守り本尊「出生大黒天」が縁で薩摩藩の祈願所となりました。

瓦には島津氏の家紋もあり、別名「薩摩寺」と呼ばれています。

 

 

 

普段は非公開のお寺なのですが、今年(2018年)は「西郷どん」ゆかりの寺として特別公開がありました。

 

本堂に入ると、そこには煌びやかな須弥壇がありました。・・が、写真はNG

中央の厨子には、弘法大師作と伝わる秘仏「大黒天」が安置されていますが、公開されるのは60年に1回。

次回公開されるのは2044年だそうです。

 

隣の書院には、幕末「西郷隆盛」と「大久保利通」が国事を論じたという部屋がありました。

これも写真NG

特別公開の看板に、その部屋の写真があったので拡大します。

こんな感じの部屋です。

部屋には、その当時からあるという一枚板の大きな座敷机と硯などがありました。

この机を挟んで、西郷と大久保はどんな激論を戦わせたのでしょう?

また隣の部屋との間には「龍」を彫刻した欄間があり、それを西郷が気に入り眺めていたとか、そんな話を伺いました。

 

 

境内の表の庭には「金運清水」

 

その横には「薩摩義士碑」と・・・

 

「壬戌伏見義擧殉難士之墓地」の碑があります。

 

文久2年(1862年・壬戌の年)に、伏見寺田屋で、尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士9名が、薩摩藩士の同士討ちに遭うという寺田屋騒動が起こりました。

 

境内の奥には、そのお墓があります。

 

有馬新七ら9名は、寺田屋から近いこの地に埋葬されたのですが、当初は主君の命令に背いたための上意討ちとされ、粗末な土まんじゅうで埋められていたそうです。

 

のち、西郷どんはその死を悼み、仲間のために自ら揮毫してお墓を建立しました。

 

お墓の前には、西郷どんのお手植えと伝わるクスノキが大きく育っていました。

が・・・写真撮り忘れ((+_+))

 

 

 

九烈士のお墓の前には、木曽三川工事の総奉行であった平田靱負のお墓もあります。

木曽川という、遠く離れた他藩の工事でありながらも、幕府の命に抗う事も出来ず、莫大な費用と多大な殉職者を出しながら、平田靱負は工事を完成させました。
しかし工事の完了後すぐに平田靱負は亡くなりました。
切腹したと伝わります。

昭和62年本堂改築の際、南側の地下4mの場所に埋葬されている石棺が発見され、ここに移転して手厚く埋葬されました。

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
寺田屋騒動

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江戸時代、京都の南の玄関口である伏見は、京・大阪を結ぶ水陸交通の要衝であり、人や物の流通・運搬の拠点としておおいに賑わっていました。

 

 

辺りには各藩の屋敷や船宿が軒を連ね、その中に、船宿・寺田屋がありました。

 

寺田屋は薩摩藩の定宿でした。

 

有馬新七ら薩摩の過激志士たちが同士討ちに遭ったのが、この寺田屋です。

 

寺田屋殉難九烈士の碑

<案内板より抜粋>

文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
当時、薩摩藩には藩主の父・島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押さえようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。
これを知った有馬新七ら30余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。
これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。

 

 

 

寺田屋は又、坂本龍馬が伏見奉行所の襲撃に遭った「寺田屋事件」の場所でもあります。

龍馬と三吉慎蔵がいた部屋が復元され、ゆかりの品々が展示されています。

 

お龍さんが入浴中にいち早く気付き、ほとんど裸同然で二階の龍馬に知らせたという有名な話が残ります。

 

川のほとりに立つ龍馬とお龍の像

 

 

 

寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失しましたが、その後再建され、現在も旅館として営業されています。

見学時間が短いので(10:00〜15:40)早めに行かれる事をお勧めします。

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
木屋町通りの幕末史蹟

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徳川政権下において長く政治の中心から遠ざけられていた京都が、幕末、討幕の機運に燃え上がる勤皇志士たちの入洛によって、にわかに歴史の舞台となりました。

鴨川の西を流れる高瀬川、その川に接する木屋町通りには、当時、諸藩の藩邸が建ち並び、また志士たちも集まってきました。

今もその地を歩くと、数多くの石碑が幕末動乱の歴史を雄弁に語ってくれます。

 

 

 

佐久間象山・大村益次郎遭難の地 

松代藩士・佐久間象山は西洋兵学者。

幕命で上京し、諸家に出入し開国を論じていたため、過激な志士に狙われ、1861年7月馬上で斬殺されました。

 

大村益次郎は周防出身。鳥羽伏見の戦いや江戸での彰義隊との戦いなど数々の戦功があり、明治政府では兵部太輔となりました。

しかし徴兵制を提案し武士の帯刀廃止を主張したため、士族の反感をかい、明治2年9月浪士に襲われ負傷し大阪で死去しました。

 

 

桂小五郎・幾松寓居跡

後の木戸孝允「桂小五郎」を命がけで助けた「幾松」の家です。

今も料理旅館を営み、「幾松の部屋」も保存されています。

 

 

佐久間象山寓居跡

「佐久間象山遭難の地」の近くにあり、自宅近くで暗殺の刃に倒れたことが分かります。

 

 

吉村寅太郎寓居の地

吉村寅太郎は土佐勤王党。寺田屋事件で捕らえられ、高知の獄中にあったが、許されて上京。
国事に奔走したという。

 

 

土佐藩邸跡

江戸時代初期から明治4年まで、土佐藩山内氏の京都藩邸でした。

幕末には「天誅」と称する刺客が暗躍しました。

 

 

本間精一郎遭難の地

本間精一郎は越後の郷士。

薩長土の志士を罵倒するなど、目に余る行動をしたため斬殺されました。

死骸は高瀬川に捨てられ、首は四条河原に梟された・・とか。

 

 

木屋町通りには、まだまだ史跡があります。

また一歩他の通りに足を踏み入れると坂本龍馬遭難地の「近江屋跡」や寓居跡の「酢屋」、新選組の「池田屋騒動之址」など数多くの史蹟があります。

この辺りは、幕末歴史を物語る宝庫です。

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 01:14 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP