弁天島の小さな公園の前に、浜名湖弁天島100mプール跡の案内板が設置されています。
大正10年(1921)、浜名湾游泳協会幹事で、資産家の長谷川鐵雄が、長さ100m、幅30mの海水プールを建設し、ここで浜名湾全国競泳大会が開催されました。
第2回大会で浜名湾勢は日本一を獲得。
巨大な施設だった楽園は、夏のレジャーセンターとして多くの人で賑わったそうです。
大正10年(1921)、田畑政治の中学・高校・大学の大先輩であり、浜名湾游泳協会の幹事で資産家の長谷川鐵雄が、弁天島に長さ100m、幅30mの海水プールを建設。ここで第1回浜名湾全国競泳大会が開催されたが、大阪の茨木中学校が頂点に立った。田畑らは茨木中の連覇を阻むべく、選手を叱咤激励し、翌年の第2回大会では浜名湾勢が茨木中に勝つことができた。長谷川はプールの横に大衆向けの海水浴場と演芸場を兼ねた楽園と呼ばれる巨大施設を建設した。弁天島は多数の海水浴客で賑わいを見せるようになり、立派な100mプールは楽園プールと呼ばれた。
「弁天島楽園 跡
浜松開誠館の創立者である長谷川鉄雄氏は、大正11年(1922)弁天島土地株式会社を設立し、ここに楽園を建設した。楽園は大衆納涼場で海水浴場としての諸設備や百米のプール、三百坪余りの大浴場、二百五十室からの貸席、五千人が利用できる無料の大休憩場からなり、貸船、遊船、売店、余興娯楽の他、和洋食や飲物を安価で提供する大食堂があり、まさに夏のレジャーセンターとして多くの人で賑わった。また弁天島は、浜名湾遊泳協会発祥の地であり、楽園のプールを利用し競泳の全国大会が行なわれ、世界的な選手を輩出するなど水泳関係者の間では弁天島の名は全国に知れわたった。当時、弁天島を訪れた松島十湖(浜松市出身)は、「島狭し汽車の吐き出す避暑の客」の句を残してる。しかし、この楽園も北弁天の埋立てが進むと共に経営も悪化し、昭和11年(1936)に終局をむかえた。
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