大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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淀の戦い

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

鳥羽伏見の戦いが始まってから3日めの1月5日、淀の千両松でも激しい戦闘が繰り広げられました。


戊辰役東軍戦死者埋骨地

当時宇治川の左岸や右岸には池や沼地が広がり、川に沿った狭い堤防道での戦闘は凄惨を極め、新政府軍、旧幕府軍とも多くの犠牲者が出たといいます。

 

 

一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、本陣である淀で敵を迎え討とうとします。
淀城に入って大坂の援軍を待てば、十分に新政府軍を食い止めることが出来ると思ったのですが、なんと頼みとする淀藩は、城門を閉じ銃口を向け旧幕府軍の入城を拒絶したのです。


淀城址

 


幕末当時の藩主は徳川幕府の老中であった稲葉正邦。
淀藩稲葉家といえば、春日局の夫であった稲葉正成を祖とした譜代大名です。

 

稲葉正成を御祭神とした稲葉神社

 

しかしこの時、藩主である正邦は江戸に滞在していて不在でした。
しかも新政府側の三条実美から「徳川に付いてはならない」と圧力をかけられていたのです。
悩みに悩んだ淀藩の家臣たちは、武装中立という道を選びました。

 

 

一方新政府は、仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を授け征夷大将軍に任命。
この日、錦旗を掲げた新政府軍は本陣のあった東寺を出発して、鳥羽街道を淀小橋まで南進して来ました。

 


この時点で、新政府軍は「官軍」となり、旧幕府軍は朝敵の「賊軍」となったのです。
日和見の藩が次々と新政府側に寝返り、夕方、新政府軍は淀の徳川本陣を占領しました。

 


翌6日、大阪城にいた徳川慶喜は「たとえ大阪城が焼け落ちようとも断固守り抜くべし」と家臣の前で演説しました。
しかしその夜、わずかな側近を連れ開陽丸に乗って江戸へ逃亡・・


徳川家の権威が完全に地に落ちた瞬間でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鳥羽伏見の戦いの砲弾跡が残る妙教寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

鳥羽伏見の戦い初日は、薩摩軍の士気の高さと綿密な戦略により、旧幕府軍は惨憺たる敗北を喫しました。

しかし翌4日、旧幕府軍は反撃を開始。
大阪湾では徳川艦隊が薩摩の軍艦を砲撃し、また伏見では陸軍の徳川伝習隊が次々と新政府軍を打倒し、徳川の底力を見せました。

 


鳥羽街道をずっと南に下がった淀城址近くに「妙教寺」があります。


この日、この辺りは戦場となり、その巻き添えで妙教寺本堂は幕府軍から砲弾を受けました。
当時の住職は、史実を伝えようと砲弾と砲弾跡を残したそうです。

 

春に特別公開がありました。

 


本堂(内部は写真NGでした)


砲弾は本堂右側の壁から飛び込み、なんと本堂正面を横切って左側の柱を貫通し、左下に落ちたそうです。
現在、壁の砲弾跡にはガラスがはめられていて、その辺りだけうっすら明るくなっていました。

また柱には、見事な穴がぽっかり開いていました。

 

スタッフの方が、複製の砲弾を使って、柱を貫通する様子を再現して下さいました。
そのあと、砲弾に触らせてもらいました、重っ!(◎_◎;)


本物の砲弾は、隣の書院に展示されていましたが、これは触れません。


でも、よくまあ爆発せずに、現在まで残ったものですね。
当時の戦いの様子を雄弁に語る証拠品です。

 


本堂を出て、砲弾の壁穴を外側から撮るため、本堂右横から覗いてみました。

 

このガラスの場所です。


こちらは南に面していているので、淀城側から砲弾が飛んできた事が分かります。

だから幕府側から撃ったと推定できるわけですね。

 

 

また境内には、榎本武揚の揮毫による「戊辰役東軍戦死者之碑」もありました。

 

 

 

ところで後日テレビを見ていたら、この砲弾は「四斤山砲」という非常に強い貫通能力がある大砲から撃たれた弾で、中には火薬と起爆装置が入っていると説明されていました。

しかも、四斤山砲を使っていたのは新政府側で、この日反撃を開始した旧幕府軍も、この強力な兵器の登場で陣地を破壊されて敗退を余儀なくされたといいます。

 

新政府側の砲弾か、旧幕府の砲弾かはともかく、こんな殺傷能力の強い武器を使い、しかも住民を巻き添えにしながら戦っていたわけです。

そう考えると、戦いを放棄して早々に江戸へ帰った徳川慶喜の判断は、正しかったのではないかと・・

そんな風にも思えます。

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 14:34 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鳥羽伏見の戦い

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

慶応4年(1868)正月2日、旧幕府および会津・桑名両藩の兵からなる1万の大軍が、薩摩討伐の勅許を得るため大阪城から京の御所へ向けて進軍を開始しました。
そして翌3日、鳥羽街道小枝橋付で旧幕府軍と薩摩軍は対峙。

 

小枝橋付近

 

 

旧幕府軍は入京を阻止され、薩摩軍との間で長時間にわたって小競り合いになりましたが、夕闇迫る午後5時ごろ、ついに強行突破を開始。
その途端、薩摩軍の一斉砲撃が始まり「鳥羽の戦い」の火蓋は切って落とされました。

 

薩摩軍が布陣した鳥羽の「城南宮」

 

城南宮拝殿


城南宮西側石の鳥居

 

薩摩軍は、城南宮の石の鳥居から小枝橋に続く参道に大砲を4門設置し、川土手の竹藪や参道に銃を持った多くの兵を布陣させていました。

 

城南宮から200mほど離れた「秋の山」


当時この辺りには竹が一面に茂り、冬の夕暮れの闇に紛れて、ここにも多くの薩摩兵を潜ませていました。

薩摩軍は、言葉巧みに旧幕府軍を下がらせ、自軍に有利なこの場所で戦いを展開したといいます。

 

 

激戦地だったと伝わる赤池交差点

 

 


一方、鳥羽の砲声が伏見に届くと、伏見奉行所を包囲していた薩摩軍も一斉に砲撃を開始。

「伏見の戦い」も同時に始まりました。

 

薩摩軍が布陣した「御香宮神社」

 

御香宮神社にある伏見の戦い跡の碑」

 

 

桃陵団地の中に建つ「伏見奉行所跡」の石標


旧幕府軍の重要な戦略拠点で、会津兵や新選組などが布陣していました。

 


本願寺別院(伏見御堂)


会津兵が駐屯しました。

 

 

伏見奉行所から京へ向けて攻め上がろうとする旧幕府軍と、それを防ごうとする薩摩・長州の攻防で、伏見は両軍入り乱れる市街戦となりました。


両軍が激突した最前線に残る、料亭「魚三楼」の弾丸の跡。

 

 

しかし御香宮神社の高台に据えた薩摩藩の大砲が伏見奉行所を直撃。
伏見奉行所は炎上し、旧幕府軍は退却を余儀なくされました。

 

 

この日の深夜、西郷隆盛が戦場を視察し味方を鼓舞したと伝わります。

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
徳川慶喜と大阪城

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

16日大河「戦の鬼」が放送されました。

慶喜は、大政奉還したあと、二条城から大阪城に移動しました。新政府軍との戦いが始まりましたが、岩倉の仕組んだ軍の先頭に錦の御旗をたてることで、新政府軍が正当な軍であることを印象付け、幕府軍は劣勢にたたされました。

 

今回は、慶喜が逃げ込んだ大阪城と当時の大阪の紹介です。

 

大阪城は、幕府の直轄の城でした。


 
現在は、お城の周りには高層ビルが立ち並んでいます。

 

1868年頃の大坂は、日本の経済の中心地で藩の蔵屋敷が集まっていました。

 

堂島川にあった蔵屋敷地図

薩摩藩と長州藩の蔵屋敷が中央にあります。
大阪城はここより東約3K
北に約1Kで大阪駅です

 
玉江橋南詰めにある石碑「蔵屋敷がこの辺りに多く立ち並んでいたのを表す」
元は高松藩の蔵屋敷でしたが、リーガロイヤルホテルが建っています

 
中津藩の跡には福沢諭吉先生誕生の地の石碑が建っています。川は埋め立てられ朝日放送が建っています。

 
福沢諭吉誕生地

 

 
黒田藩蔵屋敷長屋門
堂島にあった門を茶臼山に移築して保存されています
| 大阪 | 03:35 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
王政復古の大号令

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 


慶応3年(1867年)10月、土佐の建白を受け入れるかたちで、徳川慶喜が大政奉還を一行。新たに自らを首班とする公儀成体を作ろうとしますが、すでに倒幕の姿勢を決めていた薩摩藩は、徳川家を排除し、天皇親政の新政府を樹立すべく、王政復古のクーデターを起こすことになります。
同年、12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止されました。そこへ、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して、京都御所の御学問所において、「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めました。


御学問所(おがくもんじょ)

小御所の北側に位置しています。
入母屋桧皮葺の書院造りの建物で、和歌の会など学芸に関する行事のほか臣下との対面にも用いられました。

 

 

 

同日、18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、新設された三職による最初の会議が、御所の小御所で開かれ、山内容堂ら公議政体派と岩倉具視が激論を交わしましたが、結果、徳川慶喜の内大臣辞職および徳川家領の冊封が決定されました。

小御所は、清涼殿の東、紫宸殿の北東に位置する南北棟の建物。屋根は入母屋造、檜皮葺。会議、対面や皇太子の元服などの儀式に用いられた建物です。

慶応3年(1867年、新暦では1868年1月)に徳川慶喜の処置を決めるための「小御所会議」が開かれた場所として知られています。
 

安政度造営の小御所は1954年8月16日に花火の火が燃え移って焼失し、現存する建物は1958年、旧建物に忠実に再建されたもの。
 
| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大政奉還
JUGEMテーマ:大河ドラマ
9月9日大河「将軍義信」、西郷と大久保が武力で幕府を倒す策を練っていた時、最後に坂本龍馬が登場して、戦わずして幕府が天皇に権力を返上するやり方を土佐の後藤象二郎に伝え、山内容堂から徳川慶喜に建白書が贈られ、

1867年11月9日(慶応3年10月14日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、

翌10日(旧暦15日)に天皇がこれを勅許(ちょっきょ 天皇がきょかすること)しました。

西郷、大久保そして岩倉の武力による幕府討伐は不発に終わりました。

 

 

大政奉還が諸大名に告げられた二条城



二条城唐門






内堀






| 京都 | 15:14 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍馬・おりょうさんの新婚旅行 霧島神宮

JUGEMテーマ:大河ドラマ

9月2日大河「糸の誓い」の紀行で龍馬がおりょうとの新婚旅行で行った霧島神宮が紹介されていました。

霧島神宮の創建は6世紀ころで、現在の社殿は、1715年島津氏によって再建されたものです。

 

霧島神宮本殿


 
霧島神宮内にある龍馬・おりょう新婚旅行記念パネル

 
今から152年前に龍馬が妻:おりょうさんとこの神宮を尋ねたと姉乙女への手紙に書かれています。この88日間の旅が日本最初の新婚旅行と言われています。

 
龍馬もおりょうさんも見た樹齢800年の御神木、南九州の杉の先祖と言われています。

 

 
| 鹿児島 | 00:01 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍馬とお龍さんが遊んだ「犬飼の滝」

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

龍馬は大変筆まめな人で、新婚旅行中にも乙女姉さんに宛てて手紙を送っています。

その中に「蔭見の滝其の布は十間も落ちて、中程には少しでもさわりなし。この世の外かと思われ候ほどのめずらしき所なり」とあります。

 

この「蔭見の滝」とは、「犬飼の滝」の事です。

132_3258.JPG

 

龍馬たちは塩浸温泉に滞在中、何度もここを訪れたようです。

 

瀧見台から見た「犬飼の滝」

 

滝つぼまで遊歩道があるので、近くまで降りて行きました。

 

 

高さ36m 滝幅21.8m 近くで見ると、すごい迫力です。

 

龍馬の手紙は続きます。

「此処に十日計も止まりあそび、谷川の流れにて魚をつり、短筒をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし」

 

 

滝や川の流れを見ていると、龍馬とお龍さんが楽しく遊ぶ姿が目に浮かびます。

幕末の動乱を生きた龍馬の短い生涯の中で、一番楽しいひと時だったのでしょうね。

 




 

 


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| 鹿児島 | 10:33 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍馬とお龍さんが滞在した「塩浸温泉」

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

京都 寺田屋で襲撃された龍馬は、薩摩藩邸に匿われ、九死に一生を得ました。

そして左手に負った傷の治療のため、お龍さんを伴って、西郷隆盛らと共に鹿児島に向かいました。

この二人の旅が、日本で最初の新婚旅行と言われています。

 

 

鹿児島と言えば、温泉天国。

その中でも、龍馬たちが一番長く逗留したのが霧島市にある「塩浸温泉」です。

「塩浸」とは、まさに刀傷に薬効がありそうな名前ですね。

 

坂本龍馬・お龍 新婚湯治碑

 

 

公園前の石坂川の河川敷に、龍馬が入ったと伝わる湯船が残っています。

 

 

ズームアップすると・・・

実はこの写真を撮ったのは8年前、龍馬公園が出来てすぐの事でした。

今はもっと綺麗に整備されているようです(*^。^*)

 

 

132_3281.JPG132_3281.JPG

公園には「龍馬資料館」や「日帰り温泉施設」そして「足湯」などがあります。

足湯は無料。もちろん入りましたよ(^^♪

ぬるめのお湯が疲れた足を癒してくれました。

 

 

龍馬たちは、ここに滞在しながら、犬飼の滝に度々出かけていたようです。

その記事は次回に。

 

 

 

 


 

 

 


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| 鹿児島 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP