鳥羽伏見の戦い初日は、薩摩軍の士気の高さと綿密な戦略により、旧幕府軍は惨憺たる敗北を喫しました。
しかし翌4日、旧幕府軍は反撃を開始。
大阪湾では徳川艦隊が薩摩の軍艦を砲撃し、また伏見では陸軍の徳川伝習隊が次々と新政府軍を打倒し、徳川の底力を見せました。
鳥羽街道をずっと南に下がった淀城址近くに「妙教寺」があります。
この日、この辺りは戦場となり、その巻き添えで妙教寺本堂は幕府軍から砲弾を受けました。
当時の住職は、史実を伝えようと砲弾と砲弾跡を残したそうです。
春に特別公開がありました。
本堂(内部は写真NGでした)
砲弾は本堂右側の壁から飛び込み、なんと本堂正面を横切って左側の柱を貫通し、左下に落ちたそうです。
現在、壁の砲弾跡にはガラスがはめられていて、その辺りだけうっすら明るくなっていました。
また柱には、見事な穴がぽっかり開いていました。
スタッフの方が、複製の砲弾を使って、柱を貫通する様子を再現して下さいました。
そのあと、砲弾に触らせてもらいました、重っ!(◎_◎;)
本物の砲弾は、隣の書院に展示されていましたが、これは触れません。
でも、よくまあ爆発せずに、現在まで残ったものですね。
当時の戦いの様子を雄弁に語る証拠品です。
本堂を出て、砲弾の壁穴を外側から撮るため、本堂右横から覗いてみました。
このガラスの場所です。
こちらは南に面していているので、淀城側から砲弾が飛んできた事が分かります。
だから幕府側から撃ったと推定できるわけですね。
また境内には、榎本武揚の揮毫による「戊辰役東軍戦死者之碑」もありました。
ところで後日テレビを見ていたら、この砲弾は「四斤山砲」という非常に強い貫通能力がある大砲から撃たれた弾で、中には火薬と起爆装置が入っていると説明されていました。
しかも、四斤山砲を使っていたのは新政府側で、この日反撃を開始した旧幕府軍も、この強力な兵器の登場で陣地を破壊されて敗退を余儀なくされたといいます。
新政府側の砲弾か、旧幕府の砲弾かはともかく、こんな殺傷能力の強い武器を使い、しかも住民を巻き添えにしながら戦っていたわけです。
そう考えると、戦いを放棄して早々に江戸へ帰った徳川慶喜の判断は、正しかったのではないかと・・
そんな風にも思えます。
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