岩倉具視は、文政8年(1825) 前権中納言・堀河康親の次男として生まれましたが、14歳の時に岩倉家の養子に入りました。
岩倉家の家領は150石。洛北の岩倉に所領があったことから岩倉を名乗ったと言われています。
安政5年(1858) 幕府がアメリカと日米修交通商条約を結ぶにあたり、公家88人が列参して条約締結反対の建議書を提出、岩倉はその中心人物となりました。
これ以降、岩倉の政治活動は一躍注目されるようになり、公武合体を推進して皇女和宮の将軍家降嫁にも尽力ました。
しかしこれが尊皇攘夷派から激しい憎悪を受け、身の危険を感じた岩倉は文久2年(1862)官職を辞して、岩倉村に隠棲しました。
地下鉄「国際会館駅」から京都バスで「岩倉実相院」下車。
すぐ近くに、岩倉具視が隠棲生活を送った「岩倉具視幽棲旧宅」があります。
表門
白壁の塀に沿って通用門へと向かう途中、茅葺屋根が見えました。
通用門より中に入ると、なんと!ここより先は写真NG(◎_◎;)
屋敷内には、岩倉具視が住まいとした「鄰雲軒(りんうんけん)」、遺品などを収蔵した「対岳(たいがく)文庫」、遺髪を埋葬した「遺髪塚」、そしてお手植えの松が残る「お庭」などがありましたが・・
写真がないのでパンフレットを。
岩倉具視は隠棲したとは言うものの密かに政治活動を行い、多数の志士たちがこの屋敷に頻繁に出入したといいます。
その中には、坂本龍馬・中岡慎太郎・大久保利通・品川弥次郎などもいました。
5年間に及ぶの隠棲生活の後、慶応3年(1867) ようやく洛中帰住が許され復職。
その後は朝議を主導して王政復古に尽力し、新政府の中心人物として大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛らとともに活躍しました。
私は、岩倉具視はこの屋敷で密かに暮らしていたようなイメージを持っていたのですが、意外にも地域の人と交流し、明治維新後に東京に移り住んでも、京都に来た時には岩倉を訪れて旧交を温めたそうです。
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