大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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桜田門外の変続編(天寧寺)

5月27日大河「正助の黒い石」では、ラブラブの吉之助とアイカナ、正助(瑛太さん)の活躍、桜田門外の変と三つの話が登場しました。そして、吉之助とアイカナの悲しい別れを想像するような流れ、「今夜は、ここまででよか」。

来週も何が起こるのか、早く来週が見たい。

 

5月28日ブログにアップされた「桜田門外の変」の続編です。

 

1860(安政7)年3月3日、桜田門で、井伊直弼は水戸脱藩浪士17名と薩摩藩脱藩の有村次左衛門が登城中の井伊直弼を襲撃し次左衛門が直弼にとどめの一撃を加えました。

※次左衛門 享年23歳 
 辞世の歌「岩金も砕けざらめや武士(もののふ)の
        国の為にと思ひきる太刀」
 兄;雄助享年26歳 弟と同じ志で行動していた

 

彦根藩では直弼の死を隠すために、直弼の衣装類などをここ天寧寺(てんねいじ)の境内に埋めました。

そして後に直弼の供養塔が建てられました。


 
また、井伊直弼と関係のある長野主膳と村山たか女の墓もあります。

五百羅漢も有名です。

 

 

 

天寧寺地図

 

 

天寧寺

 
井伊直弼供養塔

彦根藩では直弼の死を隠すために、直弼が駕籠の中で敷いていた座布団や流した血が染みこんだ土を彦根に運び、直弼最期の衣装類と共にここ天寧寺(てんねいじ)の境内に埋めました。

そして後に直弼の供養塔が建てられました。

かごの中に敷いていた座布団はこのお寺に保存されています。(座布団は未公開です)
3月4日号週刊西郷どん「井伊さんぽ」の中で井伊直弼役の佐野史郎さんが彦根の井伊直弼の史跡を訪問しておられます。天寧寺も訪問され、住職さんと直弼が座っていた座布団について語っておられます。

 

 

 
天寧寺由来
第11代藩主井伊直中が建立しました。

腰元の不義の相手が自分の息子であったため、自分の過ちであることが分かります。


 
長野主膳の墓(義言よしとき)
直弼の師で国学、和歌を教えた。直弼の死後、直弼を陰で操ったと見られ、斬首の刑に処せられる。(享年48歳)
長野主膳之奥津城と記されています。
※奥津城とは、墓の意味


 
村山たかの墓
直弼とお忍びでこのお寺で会っていたようです。また、長野主膳とも関係をもっていて、安政の大獄の情報を江戸に送った女スパイでした。捕らえられて晒しものの刑に処せられました。尼となって余生をおくりました。


 
五百羅漢像
京都の仏師駒井朝が刻んだ木造五百羅漢は、お釈迦様を囲むように三方に安置されています。探している人の顔がかならずあると言われています。

 

 

 
| 滋賀 | 00:01 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
桜田門外の変

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

桜田門は、江戸城(現在の皇居)の内堀に造られた桜田堀と凱旋堀の間にある門です。



昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定されました。



江戸城には内桜田門と外桜田門の2つがあり、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多いそうです。



安政7年3月3日(1860年3月24日)にこの門の近くで、水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老・井伊直弼を暗殺した事件、世にいう「桜田門外の変」が起きました。

直弼が天皇の許可を得ないで外国と通商条約を締結、「安政の大獄」で吉田松陰ら尊王派を弾圧、水戸の徳川斉昭に謹慎を命じたことなどが事件の背景にあります。

当時の井伊邸は、現在「憲政記念館」の建っている辺りにあり、桜田門から西に500メートルほどの所にありました。

憲政記念館

(憲政記念館の画像 Wikipediaより)



旧江戸城 外桜田門
 現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷(さくらだごう)と呼んでいたことに由来します。
 外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造からなり、外桝形(そとますがた)という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624〜44)とされ、現存する門は寛文3年(1663)に再建された門がもとになっています。大正12年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。
 万延元年(1860)3月3日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。

桜田門は、外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造になっています。

高麗門の外側


高麗門の内側


渡櫓門


城内から見た渡櫓門




昭和7年(1932年)には昭和天皇の暗殺未遂事件(桜田門事件)が起き、数々の歴史の舞台となっています。



by shizuka



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| 東京 | 00:56 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直弼(彦根藩)の上屋敷跡・憲政記念館

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

国会議事堂に隣接する国会前庭内に建つ憲政記念館は、1960年に建てられた尾崎行雄(衆議院名誉議員)を記念する「尾崎記念会館」を母体に、1970年(昭和45)日本における議会政治80周年を記念して設立され、1972年(昭和47)に開館しました。

国会議事堂

 



憲政記念館


江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後大老職を務めた井伊直弼(彦根藩)の上屋敷になり、明治時代になってからは参謀本部・陸軍省がおかれました。

 





その頃の石灯籠が残されています。



時計塔


尾崎記念会館(現・憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔前面の噴水池・花壇とともに設計され、1960年7月に完成。三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したもの。

ここから桜田門が見えます。

 

by shizuka



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| 東京 | 08:37 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
天文館跡の碑

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島津家第25代当主・島津重豪が、天文観測や研究のため、安永8(1779)年に明時館を建て、4メートル四方の観測台を築きました。

 






明時館は天文館ともいわれ、現在の天文館通りの名もここからきています。

 



藩内の暦はすべてこの明時館から配布され、薩摩暦とか鹿児島暦と言われ、このあたりは、当時、石垣をめぐらした武家屋敷があり、迎賓館にあたる御舂屋、花岡屋敷、日置屋敷などがあったそうです。

 





今では天文館通りは、鹿児島一の繁華街となっています。

 



天文館のアーケードは、アーチ型、片屋根型を合わせて約2kmにも及んでいます。

これは、桜島の降灰対策や、夏の強い日差しを避けるためなのだとか。

by しずか

 

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| 鹿児島 | 00:00 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
造士館・演武館・医学院跡(鹿児島)

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鹿児島の中央公園の一画に、造士館・演武館・医学院跡の碑があります。

 





薩摩藩は、日本の最南端にあったため、武士の教育が十分でないという心配から、島津家第25代当主・島津重豪は、儒学によって士気を奮い起こそうと考え、安永2(1773)年に藩の学校造士館と武道場の演武館をつくりました。

 



造士館は、江戸にあった幕府の昌平黌をもとにつくられ、山本正誼が初代館長となり、数百名の生徒に、儒学のうち朱子学だけを教えました。演武館では、剣、弓、槍、馬、銃などの稽古が行われました。

 

 



また、重豪は、医学について非常に関心が強く、造士館の南となりに、医学を研究する医学院をつくり、薬園を吉野、佐多、山川に開きました。

 





「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック」より

 

by しずか

 

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| 鹿児島 | 00:00 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷どん大河ドラマ館(鹿児島)

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維新ふるさと館から西郷どん大河ドラマ館へ。

 



ここも、カゴシマシティビューの停留所になっています。

 





大河ドラマ館では、西郷家・大久保家をイメージした撮影セットの一部再現や、鹿児島ロケのメイキング映像の上映、プロジェクションマッピングを活用したクイズコーナー、ドラマで実際に使用された小道具や衣装の展示など、大河ドラマの世界観を体験できます。

館内は、撮影OKのところとNGのところがあります。

プロローグ



ドラマを象徴するようなイメージカットやタイトルロゴがエントランスでお出迎え。



ゲートをくぐると、制作、出演者、ストーリー、人物相関図が紹介されています。

西郷どんシアターでは、鹿児島で行われたロケのメイキング映像が見られます。

スタジオセットの再現


西郷、大久保が幼い頃に育った下加治屋町の屋敷のセットが再現されています。

 





子役時代の西郷小吉と岩山糸の衣装

 

 





御前相撲の撮影で使用された於一(篤姫)の衣装


島津斉彬の衣装


斉彬が藩主の座をかけ、父・斉興とロシアンルーレットをしたメリケン銃

 



その他、美術セットの技法や、西郷どんゆかりの地の情報も展示されています。

 

by しずか

 

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| 鹿児島 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
NHKスタジオパーク「西郷どんの世界展」

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

NHKスタジオパーク内のイベントホールにて、大河ドラマ「西郷どん」の世界展が開催されています。

 







ドラマの中に出てくる「西郷家と大久保家の間にある木」をフォトスポットとして再現。

 



ドラマの世界で記念写真が撮影できます。

 



小道具や衣装の展示

 























本寿院が家定に選ばせた御台所候補の姫君達の絵

 

 

 

 

スタジオパーク展示のためにつくられた西郷どんの巨大砂像は迫力満点!

 

 

薩摩言葉のクイズコーナーや、親子で楽しめる「西郷どんどーもくん」ぬりえや折り紙コーナーもあります。

 

 

by しずか

 

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| イベント | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
料理旅館「幾松」に残る西郷どんの書

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

幕末の志士と京都の芸妓とのロマンスといえば、桂小五郎と幾松が有名ですね。

京都木屋町の料理旅館「幾松」はその2人の寓居跡。

築200年余りという老舗旅館は、登録有形文化財として今も残されています。

 

2年前にここを訪れ、いろんな仕掛けがある「幾松の部屋」を見せて頂きました。

その記事は→幕末ゆかりの料理旅館「幾松」

 

「幾松の部屋」の見学の後、通された部屋でお食事を頂きました。

 

その時、床の間の掛け軸が気になったのですが、よく分からないまま、とりあえず写真に・・・

 

先日、撮りだめしたテレビの録画を見ていたら、西郷どんゆかりの地として料理旅館「幾松」が映っていました。

なんと、この部屋(桂の間)が紹介され、掛け軸の説明があったのです。

 

掛け軸の右から
昨日之非不可留(昨日の非 留むべからず)
今日之是不可執(今日の是 執るべからず)

 

書いた人は

「南洲書」

そう、西郷どんの書だったのです。

エ〜〜ッ!(◎_◎;)

 

意味は

「昨日失敗したからと言って、そこにいつまでも留まらず、また今日が成功したからと言って、それにいつまでも甘んじてはいけない」

なるほど!

 

貴重な掛け軸であるのに、知らずにいました。

でも、テレビの番組を見たお陰で、その価値を知りました。

「西郷どん」のお陰です(^^♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
仙巌園 反射炉跡〜松風軒(鹿児島)

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鹿児島滞在二日目にカゴシマシティービューで向かったのが、仙巌園

 

 

ここはお天気の良い日に行きたかったので、雨の降った初日は避けました。

名勝だけあって外国人観光客で、バスは大混雑。
鹿児島中央駅からバスで約50分で到着しました。

1658年(万治元年)に第19代当主であった島津光久が構えた別邸で、その後も歴代当主による改築が重ねられてきました。
借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた1万5000坪の素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、1958年(昭和33年)に国の名勝に指定されました。

幕末には、第28代当主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こしました。

1888年(明治21年)からは焼失した鹿児島城に代わり島津忠義の住まいとなっていたが、忠義の跡を継いだ島津忠重は、薩摩藩出身の新政府高官らによって東京市に移住させられ、仙巌園は住人不在に。

1949年(昭和24年)、華族制度廃止に伴い、鹿児島市の管理下に置かれていましたが、1957年(昭和32年)には島津家に返還され、現在は島津興業が管理しているそうです。(Wikipedia参照)

反射炉跡

 



 



反射炉跡の碑


山階宮大妃えい歯髪碑


島津忠義の娘・常子は仙巌園で生まれ育ち、皇族・山階宮家に嫁ぎました。
彼女の死後、この地に髪と歯が埋められました。

集成館の水路


ここに着いたのがお昼近かったので、先にランチを取ることにしました。

向かったのは、仙巌園の入口からすぐの高台に位置する松風軒

お店の外からも中からも桜島と錦江湾が一望できます。




オーダーしたのは、季節膳

 


お椀は島津家の家紋入り。

 

桜島を眺めながら、キビナゴのお造りやタケノコやそら豆などの春を感じる鹿児島の食材を使った郷土料理を味わいました。

 

 

| 鹿児島 | 13:49 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷どんの恋人?「お虎さん」

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幕末、政局の中心が京都に移ると、多くの志士たちも京都に集まってきました。

そして彼らは夜な夜な花街へと繰り出し、恋に落ち、ロマンスの花が咲きました。

桂小五郎と幾松、近藤勇と深雪太夫、高杉晋作と小りかさん。

そうそう、大久保利通は祇園一力亭の娘(芸妓?)「おゆう」との間に、4人の子どもをもうけました。

 

では西郷どんは・・・

残念ながら花街の恋とは無縁で、もっぱら大好物の鰻に舌鼓をうっていたと言います。

花より団子(^^♪

 

が、しかし・・

恋とは言えなくても、お気に入りの女性はいたそうです。

 

 

そんな西郷どんゆかりの地がNHKの「歴史秘話ヒストリア」で紹介されていたので、それに沿って京都の街を歩いて来ました(^^♪

 

 

祇園八坂神社が正面に見える四条通

「歴史秘話ヒストリア」によると、幕末、この辺りにはたくさんの茶屋や芝居小屋があったそうです。

 

その一角に、幕末当時には「奈良冨」というお茶屋さんがあったそうです。

今はくず切り屋さんになっています。


西郷どんは、この奈良冨で仲居をしていた「お虎さん」がとてもお気に入りだったとか。

彼女はとても気立てが良く、闊達で、かなりの酒豪であったと伝わります。

しかもすごく太っていて「大兵肥満」と書いた書物もあるようです。

また「豚姫」のタイトルで、歌舞伎の演目にもなっているとか。

 

西郷どんが、いよいよ討幕に向かって京都を発つとき、お虎さんは大津まで追いかけて来て30両をもらったという説もあるそうです。

 

 

四条通を、もう少し西に行くと、骨董屋さんがあります。

当時ここには「井筒屋」という老舗のお茶屋さんがあったそうです。 

西郷どんのお気に入りの女性は、この井筒屋で仲居をしていた「お末」さんだったという説もあります。

やはりよく太った女性で、西郷どんが「お末」「お末」と言って追いかけまわすので、逃げ回っていたとか(^^♪

この人もよく気が付くひとで、後に仲居のリーダー格「赤前垂れ」になったそうです。

 

 

「西郷どん」のドラマの中でも「お虎さん」は、旅館「鍵屋」の仲居さんとして登場します。

いろいろ諸説ありますが、いずれにしても京都での難しい政治工作の中で、私生活に彩を添える存在であったことは確かなようです。

 

それにしてもお気に入りの女性?それとも恋人?

気になります(^^♪

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP