井伊直政は、天正11年(1584)1月、松平康親の娘「花」を家康の養女として正室に迎えました。
直政と花の間には一女一男が生まれ、長女政子は家康の四男・松平忠吉の正室に、嫡男直継は直政の跡を継いで彦根藩2代藩主となりました。
しかし、直継は病弱のため、異母弟・直孝が彦根藩3代藩主となり、直継は分家して安中藩主となりました。
おそらく「花(東梅院)」も、直継について安中藩は行ったのでしょう。
彦根夢京橋キャッスルロードの真ん中に立つ「宗安寺」は、直政の正室「花(東梅院)」ゆかりの寺です。
宗安寺の赤門は佐和山城門を移築したと伝わりますが、朱塗りであるのは、開基である東梅院が徳川家康の養女であり、家康公の尊牌を祀る寺だからとされています。
宗安寺の歴史は古く、上野国(群馬県)「安国寺」に由来します。
「安国寺」は南北朝から戦国時代の動乱で荒廃しましたが、天正18年(1590)井伊直政が上野国箕輪の城主となった時、直政の正室「東梅院」が両親の菩提を弔うために復興しました。
そして直政が高崎城を築城すると安国寺もその城下に移り、関ケ原の合戦のあと佐和山城へ移封となるとその麓へと移ってきました。
この時、敵方西軍毛利家の将が「安国寺恵瓊」だったので、「安国寺」を改名して、東梅院の父松平康親の戒名「無月宗九居士」の「宗」と、母「心誉理安大姉」の「安」をとって「宗安寺」としました。
慶長8年(1603)彦根城下町の形成に伴い、宗安寺は現在地に移築され、現在に至っています。
本堂は長浜御殿を移築したものです。
その横にある玄関は江戸時代の建物で、彦根藩主もここを通って書院奥に向かったそうです。
板襖に描かれているのは「司馬光甕割図」と「虎図」
これも長浜御殿にあったものと伝わります。
本堂に安置されている「木造阿弥陀如来立像(滋賀県指定文化財)」は、慶長20年(1615)大阪夏の陣で徳川方の軍勢が大阪城に攻め入った際、井伊家家臣 所藤内(ところとうない)が仏間より拝持したもので、淀殿の稔持仏と伝えられています。
その横には、埋木舎時代の井伊直弼と静江の方が使用した座布団がありました。
書院には、石田三成公念持仏とされる「千体仏」と「地蔵尊」が祀られています。
江戸時代、宗安寺は朝鮮通信使の宿館であったことから、「朝鮮高官像」と伝わる絵が伝わっています。
これはパネル展示ですが、実物の「絹本著色朝鮮高官像」は彦根市指定文化財となっています。
東梅院ゆかりの物はないと思っていたのですが、後になって東梅院の遺品「紙本金地著色秋草図屏風」(彦根市指定文化財)が宗安寺にあることを知りました。
見落としました(>_<)
東梅院ゆかりの唯一のものだったのに・・・
いやもしかして、寺宝なので展示されてなかったかも知れません・・(*^^)v
さて、素敵なお庭の向こうには・・
渡り廊下があって・・
徳川家康の位牌堂がありました。(ガラスに映っている影は私です(笑)
境内のお墓には、大坂夏の陣で井伊家の軍勢と戦い、壮烈な戦死を遂げた豊臣方の勇将「木村重成」公の首塚があります。
その首は井伊家の家臣安藤長三郎がもらい受け、安藤家の墓の隣に五輪塔を建てて埋葬されました。
また地蔵堂の前には、木村重成ゆかりの「血染めのすすき」があります。
「赤門」と並んで、道路に沿った西に「黒門」もあります。
宗安寺が朝鮮通信使の宿泊所となっていた時、御馳走搬入など、勝手口として使われていたそうです。
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