室町時代、駿河の守護大名今川氏が、家臣の朝比奈氏に命じて築いた城が掛川城の始まりといわれています。
城と言っても当時の城には天守閣はなく、有事の際の詰め城でしたが、代々、朝比奈氏が城代を務めました。
ところが朝比奈泰朝が城代を務める永禄11年、武田信玄の侵攻により駿府から逃げ延びてきた今川氏真が掛川城に身を寄せて来ました。
このため、城の周囲に砦を築いた徳川家康の大軍によって取り囲まれ、籠城戦となりました。
しかし武勇に秀でた朝比奈泰朝は、積極的に討って出て戦ったため、家康もなかなか城を落とせず、膠着状態が続きました。
半年後の永禄12年5月、力攻めをあきらめた家康と今川との間に和議が成立し、掛川城は開城しました。
そして今川氏真は、妻の実家である北条氏政を頼って小田原に脱出し、ここに事実上、名門今川氏は滅亡しました。
掛川城
その後山内一豊が城主となると、天守閣や大手門を建設するなど、大規模な城郭修築を行われました。
現在の掛川城は、平成6年(1994年)に、当時の天守閣を模して復元されたものです。
太鼓櫓
城下に時刻を知らせるための大太鼓が置かれていた櫓。
外観のみ見学することができます。
四足門
本丸に通じる重要な門です。
調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。
(門の裏側から撮っています)
三日月堀
本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8メートル。
調査で堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかったそうです。
霧吹井戸
掛川城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったという伝説が残っています。
栄華を極めた戦国大名としての今川氏は、この時この地で終焉を迎えましたが、今川氏真はその後もしたたかに戦国の動乱を生き残り、その子孫は文化人として江戸幕府に取り立てられ、明治の時代まで260年も繁栄し続けたそうです。
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