大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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浜松八幡宮

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

浜松市中区に、深い緑の木々に囲まれた「浜松八幡宮」があります。

 

 

 

古来から、勝運や立身出世、安産、長寿などの神様として、多くの人の信仰を集めてきました。

徳川家康もまた、武運長久を祈るため、何度も参拝していたといいます。

 

 

 

境内にそびえるクスノキは樹齢1,000年を超えるとされている古木で、樹高は15mもあり、今なお旺盛に大きく枝を広げています。

 

 

 

木の下には大きな空洞があり、そこには徳川家康にまつわる伝説が残されています。

 

東照宮御由緒「雲立楠」(くもたちのくす)

 

 

元亀3年(1572)徳川家康は三方ヶ原の戦いに敗れ、武田軍に追われてこのクスノキの洞穴に身を隠しました。

すると突然クスノキから雲が立ち上がり、神霊が白馬に跨って浜松城へと飛び立ったといいます。

 

これを見て勇躍した家康は八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、旗や弓、神馬などを奉納し、武運を祈願するようになったといいます。

 

以来、徳川家代々にわたり、徳川家祈願所として庇護を受けました。

 

 

 

境内には、徳川家康を御祭神とする「東照宮」もありました。

 

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
祝田坂

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

三方原の戦いの舞台のひとつとなった祝田坂

現在バスの通る祝田坂の新道から一歩奥に入ったところに、旧道への案内板があります。

 







 祝田坂への旧道
三方原の戦いから現在までに420年の歳月が流れている。三方原の戦いでは武田軍3万に対し、徳川軍は援軍を含めても三分の一の兵力で、しかも老練な戦術家の信玄に立ち向かうことは極めて不利な戦いであった。
 徳川軍は武田軍が祝田坂を下るところを一気に攻めようと両軍とも祝田坂に勝利のきっかけを掴もうとしたことは確かだ。
 祝田坂は著名な三方原の戦いの書物に写真入りで紹介されている。しかしながら、現在バスの通行している新道の祝田坂は誤りである。三方原の戦いの時の祝田坂は、旧道であることを知ってもらいたい。三方原歴史文化保存会

 



旧道の入り口まで行ってみましたが、先が暗そうなので、ここでストップしました。

 



三方原古戦場(静岡県浜松市北区根洗町)
当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。
これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。
武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人のほか、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった。
(Wikipediaより)

 

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| 静岡 | 08:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
根洗松

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三方ヶ原の合戦の際、この根洗松の辺りに武田信玄の本陣が置かれたとされています。

 

 

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祝田の坂を下ると見せかけて徳川軍をおびき出すことに成功し、一転陣形を立て直して徳川軍と対峙したといわれています。

根洗松は、三方ヶ原の北はずれにある古い松で、雨が降るたびに根が洗われ、根洗松と呼ばれるようになりました。

現在のこの松は二代目の根洗松だそうです。

 





根洗松は、三方原の北はづれにそびえる古松である。雨が降るたびに根が洗われ根洗松と呼ばれるようになった。
鳳来寺街道に沿っているので むかしから目じるしとなって旅人に親しまれたばかりでなく この地に住みついた人たちにとっては心の支えであった 里人 この古松の常に変わらぬ緑を仰ぎ梢をわたる松風を励ましと聞いて朝に夕になりわいにいそしんできた そしてようやく豊かに人家も増し根洗町と名つけることとなった今 そのいわれを石に彫り いつまでも伝えるわけである
昭和51年11月吉日三方原用水土地改良事業完成に伴い町名を変更して建之
 根洗町自治会

根洗町の発祥地の碑

| 静岡 | 00:59 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
三方ヶ原古戦場

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元亀3年(1572)、武田信玄と徳川家康が浜松市郊外の三方原台地で激突した戦いが「三方ヶ原の戦い」です。

 

戦国最強軍団といわれた武田軍の前に、徳川軍はなすすべもなく総崩れとなり、家康は命からがら浜松城に逃げ帰るという痛恨の惨敗を喫しました。

 

 

 

「三方原古戦場」の碑

 

 

<案内板より>

上洛を目指した武田信玄は、元亀3年(1572)10月3日に2万5000の軍勢を率いて甲府を出発、同年12月22日には浜松城の北側に広がる三方原に進出してきた。

徳川家康は家臣の反対を押し切って1万1000(徳川軍8000と織田信長の援軍3000)の軍勢を率いて浜松城を出発、武田信玄の軍勢に迫った。

徳川軍はいつでも攻撃できるような鶴翼形をとり、家康の陣形を確認した武田信玄は魚鱗の陣形をとった。

 

戦いは日暮れに近いころ、ここ三方原の根洗付近で開始されたが、徳川軍は武田軍の前に惨敗、総崩れとなって浜松城へ退却した。

 

 

 

 

古戦場跡は現在、三方原墓園と駐車場になっていますが、広々とした一帯に往時をしのぶ事が出来ます。

 

 

 

 

徳川家康三方ヶ原戦役画像(浜松城にあります)

 

家康は後年、この敗戦を肝に銘ずるために、その姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられます。

 

威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴し切った家康の表情が巧みに描かれており、別名「しかみ像」ともよばれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鳳来寺(3)源頼朝ゆかりの鳳来寺 本堂〜鐘楼

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寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山、霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したと伝わっています。
 
文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっています。
 
利修の加持祈祷により、天皇は快癒し、この功によって伽藍が建立されたといいます。
 
源頼朝が平治の乱で落ち延びた際、 この鳳来寺の医王院で13歳から3年間匿われたことから、鎌倉時代に頼朝によって再興されたと伝わっています。
 
戦国時代には、近郊の菅沼氏から寺領の寄進を受けますが、豊臣秀吉の時代では300石のみを許されただけで、他は悉く没収されました。
 
江戸時代に入ると幕府の庇護を受け、850石に増領。
 
徳川家光の代では、徳川家康の生母・於大の方が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したため、当山諸僧坊の伽藍が改築されただけでなく、家康を祀る東照宮が新たに造営され、東照宮の運営領を含む1,350石が新たに寺領となりました。

本堂


休憩所


鐘楼


常行堂址
         

番所址


 

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| 静岡 | 01:30 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鳳来寺(2)徳川家光が建立した鳳来山東照宮

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鳳来寺は、上にも駐車場があるので、東照宮や本堂のみを見る場合は、車で上がって行く方が便利です。

 





秋は紅葉の参道を進みながら、東照宮や本堂まで行くことができます。

 



鳳来寺は、徳川家康の生母・於大の方が鳳来寺の薬師に祈願し、家康を授けられたという寺として、徳川家光により
東照宮が建築されました。

 



日光東照宮・久能山東照宮とともに、日本三東照宮と称されています。

 



この階段を上がって行きます。

 



慶安元年(1648年)4月、日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来寺との縁に感銘を受けた江戸幕府3代将軍家光が、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願、それにあわせて新たに東照宮の創祀を計画し、阿部忠秋や太田資宗に命じて造営事業を進めたが、志半ばで薨じたため、跡を継いだ4代将軍家綱が太田資宗や本多利長、小笠原忠知等に命じて慶安4年(1651年)に社殿が竣成、同年9月17日に江戸城内の紅葉山御殿に祭られていた「御宮殿」(厨子)と神体である「御神像」(神像)を遷祀したのが創まりである。遷祀に際しては盛大な遷座祭が斎行され、将軍家綱から、家康が関ヶ原の戦いで帯刀したという太刀が神刀として奉納されたほか、諸大名からも太刀や灯篭などの奉納があったという。以後、鳳来寺を別当寺と定め、明暦2年(1656年)には幕府から社領470石の寄進があり、江戸時代を通して10回に及ぶ修理が幕府により行われている。(Wikipediaより)

 



『東照社縁起』によると、

家康の父母である松平広忠と正室於大の方(伝通院)は、子のできないことを憂い、祈願のために夫妻そろって領内の鳳来寺に参篭したところ、伝通院が東方より現れた老翁に金珠を与えられる夢を見て、間もなく家康を懐妊したといいます。
また、「鳳来寺の伝説」によると、

家康の出生は壬寅年寅月寅の日にあたる天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前5時頃)であったとされていますが、鳳来寺では家康誕生と時を同じくして、薬師堂の本尊である薬師如来を守護する十二神将の中、寅神でもある真達羅大将の神像が忽然と姿を消し、家康が薨ずると神像もひとりでにもとの位置に戻っていたといい、以来、家康は真達羅大将の化身であったと伝えられています。(Wikipediaより)

 

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| 静岡 | 16:46 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鳳来寺(1)虎松が少年時代を過ごした三河の寺

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永禄11年11月9日、徳政令の発布とともに今川氏真は、井伊直虎を井伊谷の領主から罷免しました。

この陰には、小野但馬守が蜂前神社の神職である祝田禰宜と結託し、今川氏の威光を借りて、徳政令によって、直虎を失脚させ、井伊家乗っ取りを企んでいたといいます。

さらに氏真は、虎松を亡き者にするよう但馬に命じます。
虎松は当時8歳。直虎は虎松を龍潭寺の塔頭・松岳院に入れますが、何としても虎松の身を守るために、南谿和尚と相談し、龍潭寺と繋がりのある三河国の鳳来寺に逃がすことにしました。
ここで、虎松は8歳から14歳まで過ごしたといわれています。

昨年の秋、数年ぶりに鳳来寺を訪ねました。

 



ここから1425段の石階段が続きます。

源頼朝が13歳の時に、鳳来寺に3年間匿われ、その後鎌倉幕府を開き、謝恩の意を込めて本堂と三重塔を寄進。その折に石段も造ったと言われているそうです。

仁王門が見えてきました。

 



鳳来寺仁王門は、徳川家光の寄進によって建てられたもので、両側に大きな仁王像が立っています。

 



現存する仁王門は、慶安4年(1651)に再建された三間一戸、入母屋造の楼門、屋根は銅板葺。

 





「鳳来寺」の額は、聖武天皇の御病気の折、光明皇后が鳳来寺の薬師如来に病気平癒のお願をかけ、天皇が御全快になったのでそのお礼に、皇后自ら「鳳来寺」の三字を書かれたといわれているものです。現在かかっている額は、改修の時作成されたレプリカです。

 



ここからさらに階段が続きます。

 

 

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| 静岡 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍尾神社

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1568年、武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ今川氏真徳川家康との戦において、本陣を置いたのが、掛川の龍尾神社の境内です。

半年に渡る激しい攻防戦の結果、氏真が掛川城を家康に明け渡す形になりました。

掛川城の北東(鬼門)に位置するため、その守護神として、山内一豊を初めとする歴代城主から崇敬を受けました。

また、一豊が高知城に移転した際、高知城下にも龍尾神社を勧請し、掛川に因んで掛川神社と命名しました。

その折、二代目・山内忠義より奉納された「蘇鉄」と「土佐の石」は社殿脇に現存しています。

 





拝殿



二代目・山内忠義奉納の蘇鉄



大己貴神社



通称「疱瘡神さま」といい、昔この地に天然痘が流行した際、病気平癒を祈願して勧請されたと伝えられています。


龍尾神社の境内北側に隣接する花庭園は、しだれ梅の開花状況に合わせ、毎年2月上旬から3月中旬頃まで開園します。

 



しだれ梅の間から掛川城を望むことができます。

 


 

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| 静岡 | 10:09 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
戦国大名今川氏の終焉の地となった掛川城

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室町時代、駿河の守護大名今川氏が、家臣の朝比奈氏に命じて築いた城が掛川城の始まりといわれています。

城と言っても当時の城には天守閣はなく、有事の際の詰め城でしたが、代々、朝比奈氏が城代を務めました。

 

ところが朝比奈泰朝が城代を務める永禄11年、武田信玄の侵攻により駿府から逃げ延びてきた今川氏真が掛川城に身を寄せて来ました。

このため、城の周囲に砦を築いた徳川家康の大軍によって取り囲まれ、籠城戦となりました。

 

しかし武勇に秀でた朝比奈泰朝は、積極的に討って出て戦ったため、家康もなかなか城を落とせず、膠着状態が続きました。

 

半年後の永禄12年5月、力攻めをあきらめた家康と今川との間に和議が成立し、掛川城は開城しました。

そして今川氏真は、妻の実家である北条氏政を頼って小田原に脱出し、ここに事実上、名門今川氏は滅亡しました。

 

掛川城

 

 

その後山内一豊が城主となると、天守閣や大手門を建設するなど、大規模な城郭修築を行われました。


現在の掛川城は、平成6年(1994年)に、当時の天守閣を模して復元されたものです。

 

 

太鼓櫓

城下に時刻を知らせるための大太鼓が置かれていた櫓。
外観のみ見学することができます。

 

 

四足門 

本丸に通じる重要な門です。

調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。

(門の裏側から撮っています)

 

 

三日月堀 

本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8メートル。

調査で堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかったそうです。

 

 

霧吹井戸

掛川城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったという伝説が残っています。

 

栄華を極めた戦国大名としての今川氏は、この時この地で終焉を迎えましたが、今川氏真はその後もしたたかに戦国の動乱を生き残り、その子孫は文化人として江戸幕府に取り立てられ、明治の時代まで260年も繁栄し続けたそうです。

 

 

 


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| 静岡 | 22:18 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
山村修理の墓と堀川城戦死の碑

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山村修理の墓は、姫街道の標識から細い山道に入ったところにあります。





山道を上り始めて数分、右手に見えてくるのが「堀川城戦死之碑」です。



この奥に山村修理の墓があります。





徳川家康の遠州侵攻の際、堀川城を築いて抵抗した山村修理はここで切腹して果てたとされています。
村人がその霊を慰めるために松を植え、「修理殿の松」と呼ばれていましたが、枯れてしまったそうです。

戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の勢力の境界地域でした。気賀の領主で今川方の新田友作は、かつて今川義元の家臣であった尾藤主膳、山村修理等とともに、永禄10年から11年(1567〜68)にかけて堀川城を築きました。 しかし遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃により、永禄11年3月には落城してしまいました。 永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようとする武田信玄に対抗し、ふたたび遠州攻略を企てました。 このときの功績により、後に「井伊谷三人衆」と呼ばれたのが菅沼二郎右衛門、鈴木三郎太夫と、後の旗本近藤家を築いた近藤石見守です。 遠州に攻め入った家康に対し、尾藤主膳、山村修理等は一揆を企て、内山党を始め地元民男女1500〜1600人とともに堀川城に立てこもりました。 しかし永禄12年(1569)3月27日、家康軍の攻撃の前に1日で落城、捕虜700人が呉石の塔の下で処刑されたと言い伝えられています。 落城のとき舟で逃れた山村修理は、この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。かつてここには松の古木があり、「修理殿の松」と呼ばれていました。 細江町教育委員会

 

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| 静岡 | 07:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP