永禄11年(1568)12月、武田信玄は甲駿国境を越えて駿河に侵攻。
またたく間に今川氏の本拠・駿府に攻め入り、今川氏真を追い詰めました。
ちょうど同じ頃、三河を制圧した徳川家康は遠江への侵攻を開始。
井伊谷三人衆に導かれて陣座峠を越えると、奥山にある方広寺へ入りました。
方広寺総門(通称黒門)
総門から少し歩くと、朱色が美しい山門(通称赤門)もあります。
方広寺は、この地を治めていた豪族奥山氏の菩提寺です。
建徳2年(1371)奥山朝藤が、自らの所領から60町歩の土地・建物を寄進して開基となり、無文元選禅師(後醍醐天皇の皇子)を招いて開山としました。
広大な境内には、本堂・半僧坊真殿・三重塔など60余棟の伽藍が建ち並びます。
境内の参道に並ぶ羅漢像
家康の率いる兵は7千とも8千ともいわれ、この広大な方広寺に投宿しました。
一説には、方広寺の僧が家康に通じていたとされ、僧徒や住民が徳川軍を歓迎したと伝わります。
その夜、重臣たちが集まってきて、遠州の地図を広げて山や川などの情報、さらには井伊谷から曳馬城に至る道筋や城砦など、詳細な情報がもたらされたという資料が残っています。
その中には直虎もいたのではないかという憶測もされています。
表参道 大鳥居
家康は12月15日未明方広寺を出立し、井伊谷三人衆の手引きで小野但馬守が城代をつとめる井伊谷城を攻めました。
さらに18日には曳馬城も攻め落としました。
これを境に井伊家は今川氏の支配から解放され、徳川氏に従って戦国の世を生き残る事ができるようになったのです。
亀背橋 一風変わった橋ですね。
上から見ると、こんな感じ
本堂
間口32m・奥行27mの堂々とした建物です。
中央の大額「深奥山」は、山岡鉄舟の書です。
本堂の中にも、山岡鉄舟書の六曲屛風がありました。
本堂に入ってすぐ「方広寺と直虎」をテーマにした展示がありました。
「井伊直政の母」
井伊直政の母(ドラマの中では「しの」)は、奥山朝利の息女です。
朝利は、方広寺の開基となった奥山朝藤から数えて4代目です。
本堂の内部
須弥壇には、国重要文化財「釈迦三尊像」が安置されていました。
が・・写真NG
長い渡り廊下は、半僧坊真殿へと続いています。
「半僧坊」とは、方広寺の鎮守様
半僧坊真殿を外側から撮った写真
庇の下、左右には、岩五郎作の彫刻「昇龍降龍」があります。
本堂の裏庭には「らかんの庭」
裏庭の階段を登ると「上天台舎利殿」がありました。
本堂を出て高台にある駐車場方面に行くと、三重塔があります。
三重塔は瀬戸方久が寄進したと伝わりますが、当時のものは明治初年に火災で焼失しました。
現在の塔は篤志家によって再建されたものです。
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