大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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富士山本宮浅間大社

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

楽市楽座といえば、真っ先に織田信長が浮かぶと思いますが、今川氏真は信長に先駆けて、早くから商人たちが自由に商いを行える楽市の重要性に注目し、永禄4年、藤枝市の清水寺で年2回市を立て、楽市を行いました。

また、永禄9年、富士宮市でも楽市を行いました。
富士山本宮浅間大社の門前町で始めた楽市によって、古参の商人たちの利権が見直され、新興商人も商いに広く参加できるようになったといいます。

【発給者】今川氏真 永禄九年四月三日【宛】富士信忠【内容】富士大宮毎月六度市之事、押買狼藉非分等有之旨申付条、自今己後之儀者、一円停止 諸役、為楽市可申付之…

富士信忠
富士山本宮浅間大社の富士大宮司。兵部少輔・相模入道を称し、今川氏家臣であった。大宮城(富士城)主として武田勢と交戦を繰り返した。


富士山本宮浅間大社は、全国に約1,300社ある浅間神社の総本社で、富士山を神体山として祀っています。

当大社は、朝廷や武家より篤い崇敬を受けてきました。
延喜の制では名神大社とされ、一宮制では駿河国一宮として勅使の奉幣・神領の寄進を受けました。

源頼朝は、建久4年(1193)富士山麓において巻狩りを行った際、流鏑馬を奉納。
現在、流鏑馬祭としてとして伝えられています。その他、社殿の修復なども行いました。

武田信玄・勝頼親子は、神領の寄進、社殿の修造などを行い、信玄の願状をはじめ武田家奉納の品も多く残っています。
また、境内にあるしだれ桜は信玄の寄進とされ、信玄桜と呼ばれて親しまれています。

徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利した御礼として、本殿・拝殿・楼門をはじめ30余棟を造営し、境内一円を整備しました。
本殿は国指定重要文化財、拝殿・楼門は県指定文化財となっています。
また、富士山8合目以上を境内地として寄進しました。

 

 



楼門前の池で一名眼鏡池ともいわれ、中央の輪橋は大正4年御即位記念として石造りに改められました。

楼門



間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付きます。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に制作されたものです。

 



拝殿


拝殿は本殿と同じく徳川家康の寄造営によるもの。

 



本殿



慶長9年(1604)徳川家康が奉賽のために造営したものでしたが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するのは本殿・幣殿・拝殿・楼門のみです。
浅間造という独特の神社建築様式で、国の重要文化財に指定されています。

 

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| 静岡 | 11:44 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
頭陀寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

 

松下屋敷のすぐ近くに「頭陀寺」があります。

 

頭陀寺は飛鳥時代に建立された古寺で、戦国時代は今川氏の庇護のもとに繁栄していました。

往時には多くの塔頭寺院をかかえ、寺域も広く、門前には市場もたちました。

 

頭陀寺仁王門

 

本堂

本堂の大師像は、徳川家康公の寄進を受けて造立されたものです。

 

 

松下稲荷堂

松下屋敷より移設されたものです。

 

 

 

境内奥には、頭陀寺城ゆかりの「豊臣秀吉」「徳川家康」「井伊直政」三人の少年像があります。

 

 

 

少年時代の秀吉(左)は、松下屋敷に3年間奉公したとの記録があり、また家康(中央)は、今川氏の人質となっていた少年時代に中村代官屋敷より馬で度々頭陀寺を訪れていたといいます。
少年時代の井伊直政(右)もまた、母の再婚相手である松下清景の養子となって、出世の糸口をつかみました。

 

 

永禄 7 年(1564)、頭陀寺は今川氏に反攻した松下氏や飯尾氏らとの攻防で炎上してしまいましたが、後年、縁のあった豊臣秀吉、徳川家康の寄進により復興しました。

 

 

 

 

頭陀寺前の案内板

 

 

案内板の地図の部分をズームアップしてみました。

頭陀寺を中心に、数多くの諸坊と松下屋敷があった事がわかります。

 

松下屋敷は頭陀寺の境内にあったので、この辺り一帯は「頭陀寺城」とも呼ばれました。

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 23:18 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
松下屋敷跡

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

浜松市南区頭陀寺町に「頭陀寺第一公園」があります。

ここは古くから、戦国時代の武将松下氏の館跡と伝わってきました。

 

 

 

2001年と2015年に行われた発掘調査で、礎石建物や庭園の池、屋敷を囲む土塁や堀などが確認され、伝承どおり、戦国時代の居館が、そのまま地中に埋もれていることが明らかになりました。

 

また建物周囲の土が赤く焼けていたことなどから、今川氏に反攻した松下氏の攻防で、建物が炎上したという史実も確認されました。

 

 

公園の一角に記念碑がたっています。

 

 

松下氏の始祖は「高長」で、三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市)に住んで松下を名乗り、その孫「国長」の時に、嫡男「国綱」と二男「連長」の二つの流れに分かれたとされます。

 

 

嫡男「国綱」の子孫が「松下嘉兵衛之綱」です。

松下之綱(ゆきつな)と言えば、少年時代の豊臣秀吉の非凡さを見抜いて拾い上げ、「太閤秀吉生みの親」として名を残しています。

 

 

また二男「連長」の子孫が「松下源太郎清景」です。

井伊直政の母(ドラマの中では「しの」)は、松下清景と再婚し、のち虎松はその養子となりました。

 

松下虎松と名を変えることにより、今川氏の追手から身を守り、また長じては徳川家康への謁見もかないました。

 

 

 

ちなみに、松下源太郎清景の弟が「常慶」です。
この弟が後に家康と虎松(直政)をつなぐ重要な役割をしました。

 

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
竜雲寺(2)寿桂尼の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

寿桂尼の墓所は境内の裏山の麓にあります。

 


寿桂尼が亡くなったのは、武田氏が駿府に侵攻し、今川氏真が掛川に逃れるわずか9か月前の永禄11年(1568)3月24日、80歳近い生涯でした。

この墓所への道・・・以前は草ボーボーで、途中でどっちに進んでいいかわからくなるという噂を聞いたので、行くのを止めていました。

 



大河ドラマがきっかけで、整備されたようで、だいぶ草が刈り取られていました。
ただし、人一人しか歩けない道で、足場は悪いです。

 



右が寿桂尼の墓、左は妹の黒木の方の墓というそうです。

 



寿桂尼の墓



しかし、案内板によると、この五輪塔の右奥にも墓があり、どの墓が寿桂尼の墓なのかはっきりとはわからないそうです。

 

 

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| 静岡 | 07:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
竜雲寺(1)寿桂尼の菩提寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

先日、静岡の竜雲寺に行って来ました。

 

 

竜雲寺は、大河ドラマで浅丘ルリ子さん演じる寿桂尼の菩提寺です。

今川氏真が当主になっていた頃、終の棲家といたのが龍雲寺です。

 

 

JR静岡駅からバス北街道線・瀬名新田行き他15分、沓谷3丁目下車、歩くこと数分です。

 

 

竜雲寺本堂の前には、没後四百年記念に建立された寿桂尼が使用した「歸」(とつぐ)の印判を刻んだ石碑が建っています。
「歸」は、寿桂尼が氏親に嫁いできた時、父親の中御門宣胤が印判に彫って授けたものといわれています。

 

 

印判は、その後、領国支配の発給文書に使われており、寿桂尼の権力を象徴したそうです。

寿桂尼は、今川氏親の正室。藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自。父は権大納言中御門宣胤。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など。夫・氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれた。
家督を継いだ実子・義元が永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで織田信長に破れて戦死し、孫の今川氏真が当主となった後も政治に関わっている。
今川氏没落の最中の永禄11年(1568年)、義元が亡くなった8年後に死去。婚姻の年齢から推測すると70 - 80歳代だったと思われる。「死しても今川の守護たらん」という彼女の希望により、今川館の東北、鬼門の方角にあたる竜雲寺に埋葬された。
寿桂尼の死後、今川氏と武田氏の外交関係は手切となり、同年12月には武田氏による今川領国への侵攻が開始された(駿河侵攻)。氏真は駿河を捨て遠江に落ち延びるも翌年に徳川家康に降伏し、戦国大名としての今川氏は滅びた。(Wikipediaより)

 

 

 

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| 静岡 | 07:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
直虎ロープウェイ&クルーズ

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

浜名湖といえば、地元ではパルパルというくらい遊園地が有名なのですが、浜名湖の楽しみ方はこれだけではありません。

浜名湖パルパル





浜名湖の内湾である「内浦」を横断する形で設置されている「日本初の湖上ロープウェイ」と称するかんざんじロープウェイもあるのですよ。

井伊直虎をイメージしたラッピングゴンドラの運行が今年の2月から開始されました。

 



ゴンドラのデザインラッピングには、浜松市のマスコットキャラクター『出世法師直虎ちゃん』『出世大名家康くん』のイラストが使われています。

直虎ちゃん号



家康くん号



片道約4分の空中散歩で大草山へ。

 



浜名湖を一望できます。

期間限定の平成30年3月31日(土)までの運行です。

また、直虎・歴史探訪クルーズも期間限定で行われています。

 



30分のクルーズで、浜名湖を遊覧しながら井伊家発祥の井戸物語や直虎に関する逸話などが紹介されます。

ソレイユ号



アクアパティオ号



こちらは平成30年1月末日までの運航です。

| 静岡 | 11:40 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
堀川城跡

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

堀川城は、奥浜名湖の北岸に位置し、浜名湖の潮の干満を利用した構造でした。
満潮時には道が塞がる干潟の中にあり、船を使わないと城へ行けなかったようです。

永禄12年(1569年)、今川方の土豪・斉藤為吉が徳川家康に抵抗して落城し、その後城方に協力した700余人もの村人たちが首を討たれたといいます。

 



 



伝堀川城跡

永禄11年(1568)、徳川家康は、遠江侵攻にあたって、井伊家の被官であった
井伊谷三人衆、近藤康用(やすもち)、菅沼忠久(ただひさ)、
鈴木重時(しげとき)らを調略し、彼らの本領を安堵しました。
これにより、家康は井伊谷から刑部城(おさがべじょう)、引間城へと軍を進め、
遠江に前線を得ました。
しかし今川配下に土豪と農民たちは堀川城に立て篭って抵抗しました。
翌、永禄12年(1569)徳川家康の遠江侵攻にも、もっとも強く抵抗した城跡です。
当時の浜名湖の湖岸にあって、水辺の守りを固めた砦だったとおもわれます。
形や場所ははっきりしません。
ここで家康は篭城兵を「撫で斬り」とし、敗残兵を探し出して
気賀の獄門畷にさらし首にしています。
城兵は全滅となりましたが、一部の兵が対岸の堀江城に渡り、落城の情報を伝え、
堀江城は家康との和睦を選択します。
同じ今川家に仕えた遠江の諸将には、それぞれにとって大きな選択の年となりました。
なお、井伊谷三人衆は家康の命で後に井伊直政につきますが、
やがてそれぞれ独立していきました。

平成28年3月 北区まちづくり推進課

 



この辺りが首塚といわれているそうです。

 



永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにて今川義元が戦死した後、土地の人々が砦を築き、地名より堀川城と名付けた。ほど近い刑部にも刑部城を築き、徳川家康の遠江侵攻に備えた、と伝えられている。
正確な築城期は不明であるが、当時は今川氏の勢力下であった。
永禄11年(1568年)に、今川氏真から瀬戸方久に出した徳政令を免じる安堵状の中で、代わりに新城の備蓄を賄うように条件が付いており、この新城が刑部城・堀川城では、と見られている。
同年、徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込み、刑部城を落城させた。今川方で近隣の堀江城主大沢左衛門は家康に抵抗しており、大沢氏と連携した土豪の新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月27日、再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。尾藤主膳は堀江城の大沢へ逃れたが切腹させられ、山村修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害、新田友作は逃亡した。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたが、家康は石川半三郎に命じて捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねた。新田はその後、葭本の金地院に戻り戦死者の菩提を弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された。(堀川城ーWikipediaより)

なお、瀬戸方久が、刑部城・堀川城の軍資調達を請け負う代わりに、自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得て、その後堀川城主となり、新田喜斎と名前を変えたという説があります。

Wikipediaによると、

「瀬戸方久が新田姓を名乗り、堀川城主をしていたという説が存在する。
瀬戸方久は瀬戸の姓を貰う前は松井姓を名乗っており、徳川家康の侵攻に際しては井伊氏とともに恭順しており、家康からも安堵状を得ている記録があるため、この説とはそぐわない。新田友作は、堀川城の戦い後の隠遁中に出家し「法休」を名乗っていたため、これを瀬戸「方久」と混同、同一視したものとみられる。
とあります。」

瀬戸方久=堀川城主=新田喜斎という説は本当なのでしょうか?

 

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| 静岡 | 10:49 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大沢家の菩提寺・宿蘆寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

浜松市西区庄内町にある宿蘆寺

寺の西側には浜名湖があり、以前は深く入り込んで、芦(蘆)が多く宿っていたため、宿蘆寺という寺号がつけられたといいます。

室町初期の1466(文正元)年に普済寺(浜松市中区広沢)の命天慶受(めいてんけいじゅ)和尚によって開かれました。
かつては38カ寺にものぼる末寺を擁していたそうです。

宿蘆寺の開基はこの地にあった佐田城の城主・堀江下野守久実(ひさざね)とされています。
堀江氏の先祖は越前国(福井県)の豪族藤原時国。
時国は越前国堀江庄に住んでいたことから堀江氏を名乗るようになり、更にその4代後の光真が初めて遠江に来住し、佐田の城を構えました。この佐田城堀江城の前身になったといわれています。

現在ある本堂は、安永5年(1776)に完成したもので、桁行10間半、梁間8間、寄棟造り桟瓦葺きの建物です。

 




山門に掲げられている「藤谷山(とうこくざん)」の額は、徳川光圀(水戸黄門)の師匠である東皐心越(とうこんしんねつ)禅師の書。
藤谷山という山号は昔、寺の背後の山に藤が自生しており、満開の頃には浜名湖を行き交う舟からも藤が見えたほどというところからつけられたとされています。 

宿蘆寺には三方原合戦の際、徳川家康が逃げ込んだという伝説も残されているそうです。

戦いに負けた徳川家康が数人の家来を連れて、浜名湖のほとりまで逃げて来たときのこと。
日が暮れて辺りが暗くなってくると、その前の夜から寝ていなかった家康は、ようやく敵の目を逃れたのに安堵し、眠くなってきた。家来にどこかいい場所がないか探させるが、浜名湖のほとりには蘆(あし)が深く茂っており、とても眠れる場所ではなかった。
近くにお寺があることに気付き、家来が山門の戸をたたいたり、中に向かって叫んだりしたが、何も返事はなかった。
そのお寺の名前が宿蘆寺(しゅくろじ)だと知った家康は、蘆の中で眠ることを思いついた。一人の家来が湖畔から小舟を一隻見つけ出し、蘆の中のあまり見えないところにその小舟を持って行き、その中でゆっくりと寝た。
翌朝、起きてきた宿蘆寺の和尚たちは、小舟の中で眠る家康の姿を見つけると驚き、そしてもてなした。
(浜松情報BOOKより)


庭園


 

大沢家は、江戸時代に現在の庄内地区を治めた旗本で、明治元年(1868)には堀江藩(庄内地区の藩主となり、代々、江戸幕府の高家(こうけ)という要職をつとめた高い家柄として知られています。

高家の役職は、慶長8年(1603)、徳川家康が 将軍職を拝任する際に、大沢基宿が儀礼をつかさどったことに始まり、主として朝廷関係の儀礼をつかさどる役職で、朝廷からの使いを江戸で接待したり、京都への使者をつとめたりしました。
大永2(1522年)佐田城が落城。

寛永17年(1640)大沢基宿が死去し、領地内の宿蘆寺に葬られ、これより堀江城主・大沢氏の菩薩寺となりました。

大沢家の墓所は、本堂の西側にある丘にあります。

境内の墓所には、10代基宿(ともいえ)から19代基暢(とものぶ)までの10人の城主と、城主・基之の長男・基栄の11基の墓碑があります。

 



堀江藩主となった大澤基寿(大政奉還の際に徳川慶喜の使者として参内し、その表を奏した)は神道に改宗したため、ここにには葬られていません。


一部墓石が崩れていました。(現在修復中とのことです。)

 

 

(浜松情報BOOK、はままつの文化財参照)

※この宿蘆寺で、おんな城主直虎のロケが行われたそうです。

 

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| 静岡 | 07:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
堀江城跡

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

堀江城は、鎌倉時代、藤原氏の血を引く大沢基久が築城したと伝えられています。

戦国時代も大沢氏が城主を務めますが、今川氏の勢力下に入ります。

大沢基胤の時、徳川家康に攻められ、堀江の人々が浜名湖の地形を利用し、激しく応戦しましたが、永禄12年(1569)、堀川城を落城を見て、和睦する形で降伏しました。

多くの戦死者を出した堀江城とその属城である堀川城には、南谿和尚と出家した直虎が後に法要に訪れたと伝えられています。

基胤の子、大沢基宿は、1,550石を与えられ旗本になり、慶長8年(1603年)に高家となり幕末まで続きました。

大沢 基胤(おおさわ もとたね、大永6年(1526年) - 慶長10年6月28日(1605年8月12日)は戦国時代の武将。大沢治部基相の長男。大沢兵部基宿の父。官位は左衛門佐。
浜名湖の東岸に位置する堀江城を有し、今川氏に従っていた。
永禄11年末(1568年)、徳川家康による遠江侵攻を受けるが、居城堀江城への攻撃は後回しにされていたようである。だが、それも束の間の事で、曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてる家康は軍の一部を割いて、永禄12年3月12日(1569年4月8日)、基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とした。
同25日(4月21日)には井伊谷衆(近藤石見守康用と登之助秀用親子、鈴木三郎大夫重時と、その婿菅沼次郎右衛門忠久)に命じて引き続き、基胤の堀江城を攻撃させた。渡辺図書高綱、菅沼定盈を正、副の目付けとした堀江城攻撃軍に対し、基胤は中安兵部、権太織部泰長らを率いて、数度に渡り徳川勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。
今川氏真が逃れて来ていた掛川城への攻撃に専念したい家康は、いっこうに朗報の入らない堀江城の戦況に業を煮やすと、渡辺成忠を使者として遣わし、徳川方への帰順を条件として大沢氏の本領安堵を約束する誓書を与えた。基胤もその勧告を受け入れた。
永禄12年4月12日(1569年5月8日)、堀江城の北に在った堀川城に於いて徳川方の石川数正・酒井忠次、大沢方の中安兵部・権田織部泰長の4名によって、和議が成立。以後は、徳川配下として、小牧・長久手の戦いなどに従軍した。設楽原合戦には酒井忠次に従って参戦した。(Wikipediaより)

現在、堀江城跡は、は舘山寺温泉となり、遊園地浜名湖パルパルや、ホテル九重の敷地になっています。

舘山寺温泉のホテル九重

 



堀江城奥御殿の鬼瓦 弘化3年(1846)



ホテルの敷地に、人工の滝があります。

 



フロントの方の説明によると、この上の「御陣山」が城跡で、遊園地の大観覧車の辺りが本丸だったとのことです。

浜名湖パルパル

 

舘山寺温泉のバスの停留所のところに、堀江城跡の案内板があります。

 

 

 

 

 

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| 静岡 | 07:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP