浜松市北区細江町に、井伊谷三人衆のひとり「近藤康用(やすもち)」の子孫によって創建された「初山宝林寺」があります。
江戸時代初期、「金指近藤家」二代目当主・貞用(さだもち)の招きに応じた明国の僧・独湛(どくたん)禅師によって開創され、金指近藤、気賀近藤両家の菩提寺として、また黄檗禅の専門道場として遠州の黄檗文化の中心地として栄えました。
仏殿(国指定重要文化財)
仏殿は桁行五間、梁間六間、入母屋造りの柿葺き
黄檗宗が日本に伝えられた当時の中国明朝風の建築様式を現代に伝える貴重な建築物です。
仏殿正面に「本尊釈迦三尊像」、左右の厨子に「達磨大師像」と「武帝像」
両側の壇上には「二十四天の善神像」が祀られています。
京都宇治萬福寺の諸仏像と同じ中国様式を伝える、黄檗宗独特の諸仏です。
「近藤康用(やすもち)」の子に「近藤秀用(ひでもち)」という人がいました。
秀用は武勇に優れ、大坂夏の陣で活躍した事を契機に1619年、井伊谷藩1万5000石を成立させました。
その後加増されて1万7000石となりましたが、しかし秀用はその所領を季用、用可、用義といった息子たちに分配。
「藩」として成立するためには1万石以上の所領を保有することが条件だったので、分配された所領はそれに満たず、井伊谷藩は秀用一代限りで終わりとなりました。
藩に満たない所領を受け継いだ子どもたちは旗本となり、季用は「金指近藤家」、用可は「気賀近藤家」、用義は「井伊谷近藤家」としてそれぞれ分かれました。
家督は一子相続が通念であったこの時代に、近藤秀用は、弱小の藩より堅実な旗本の道を選んだようです。
「金指近藤家」初代季用(すえもち)の跡を継いだのが、初山宝林寺の開基となった二代目貞用(さだもち)です。
境内にある報恩堂には、宗祖隠元禅師の像とともに近藤家代々の位牌が安置されています。
方丈(国指定重要文化財)
方丈の裏庭
パワースポットとなっている「猿候杉」とその向こうにある「龍文堂」
そして金運上昇・商売繁盛の御利益がある「金鳴石」
小石で叩くとまるで鉄琴のような音が鳴る不思議な石です。
また「気賀近藤家」初代用可(もちあり)の跡を継いだのが二代目用治(もちはる)です。
用治が近藤家の祖先代々の菩提を弔うために寄進したという「梵音堂」の跡地が残されていました。
井伊谷三人衆の近藤家は、旗本として堅実に発展していったのが伺えます。
近藤秀用は、近藤家の存続のために賢明な判断をしたようです。
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