大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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龍潭寺井伊直親〜家臣の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

龍潭寺は、井伊家歴代当主の御霊が眠る菩提寺であり、井伊直親や、家臣らの墓もあります。

 





手前から、24代・井伊直政 井伊直親夫人 井伊直親 井伊直虎(次郎法師) 井伊直盛夫人


直虎と直親は隣同士です。

左が直親 右が直虎(次郎法師)


中野由直


中野氏は井伊氏当主・井伊直氏の弟・直房に始まる分流で、直由は直房の孫にあたります。妻(あるいは息子・中野直之の妻)と井伊直親の妻・奥山ひよは姉妹。
直由は井伊直盛の重臣であり、桶狭間の戦いで、直盛が討ち死にする際、遺言として、直親の後見役として直由を指名しました。
井伊直親の死後、新野左馬助とともに、井伊谷の城代を務めていましたが、今川氏真の命で、引馬城を攻めますが、天間橋で新野親矩と共に討死しました。

新野左馬助(親矩)


今川氏の一族で、直虎の母(祐椿尼)の兄。
直親が今川氏に謀殺された際、直親の子・虎松の助命嘆願をし、井伊家の城代になりました。
永禄7年(1564年)今川氏に謀反を起こした飯尾連龍の引馬城を攻め討ち死にしました。

奥山孫一郎



奥山朝利の息子。父とともに桶狭間の戦いに参戦し、井伊直盛が切腹を覚悟すると、その首が敵方に渡らぬよう井伊家に首を持ち帰り、中野を城代にするようにと遺言を託されます。その後、直親に近侍し、最期をともにしました。

 

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| 静岡 | 11:47 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
渋川井伊家墓所

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

井伊氏一族の居館跡で、北側にある墓石群には、渋川井伊家墓所として、井伊(直之・直貞・直秀・直幸・直親 他)の名前が残っています。

 






渋川村には、山里に居城を構えた井伊庶家、渋川井伊氏がありました。井伊谷井伊家八代目泰直の子の直助が上野左衛門次郎を名乗って分家し、直助の子の直貞が渋川太郎二郎を名乗り、この地に移り住んだことが、始まりといわれています。
一方、徳川家康の家臣として出世し彦根藩主を務め、幕末には大老を輩出する名家となった直虎らの筋とは、根本からまったく別の家系という説も。戦国時代、今川氏と斯波氏の戦いの際に、渋川井伊氏は斯波氏について敗れたため散り散りになり、その後、井伊谷の井伊家が台頭したともいわれています。
いずれにせよ、直貞のあと、直秀、直幸と代を重ね、井伊谷井伊家に匹敵する力を持っていたことは間違いないようです。
渋川井伊家の居城跡は、いまは長閑な農地になっています。目立った遺構はなく、緑濃い地を縫う堀跡と思われる窪みだけが、当時の名残り。
北側にある墓所に並ぶ墓は八基。井伊直之、直貞、直秀、直幸、直親などの名前が刻まれていますが、中には苔むし崩れ落ちそうなものもあります。
江戸時代の末期に、同じ敷地内から墓を移したときに植えられたと言われる菩提樹の木が、いまは静かに墓守をしています。
(浜松・浜名湖観光情報サイト)

 



廣度寺殿 井伊直之(四代惟直)
大蔵院殿 井伊直貞
廣福寺殿 井伊直秀
宗源院殿 井伊直幸
大藤寺殿 井伊直親
東光院殿 西尾半田(井伊)
宝蔵寺殿 西尾親範(井伊)
於寿丸公

井伊直親の墓



渋川の菩提樹は、樹高約8メートル、樹齢推定約300年。井伊家の墓所があった殿界戸(とのかいと)より墓をここへ移した時この樹を移植したと言われています。(江戸時代の末期)




 

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| 静岡 | 23:04 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
亀之丞が身を寄せた東光院

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

浜松市北区引佐町渋川にある東光院

 





東光院は、井伊直虎の許嫁であった亀之丞(後の井伊直親)が一時、身を寄せた寺院です。

臨済宗方廣寺派に属します。

天文13(1544)年、亀之丞の父である井伊直満とその弟の井伊直義が謀反の疑いをかけられ、今川義元によって駿府で殺害されました。

事件の後、直満の息子である亀之丞の命も狙われたため、家臣の今村藤七郎に背負われて領内の黒田山中からこの寺に逃げ込んでかくまわれますが、追っ手がさらに迫ったため、信州の松源寺に移りました。

天文14(1545)年正月の3日の夜、亀之丞が松源寺へ向けて出発した直後、渋川大平にて右近次郎に弓矢にて追撃をうけるも、危うくその場を脱出することができました。

亀之丞が井伊谷に戻るのは事件の11年後、弘治元(1555)年のことです。(案内板より)

 


この薬師堂は、山寺地区にあった万福寺の支堂で、戦国時代天文24年(1555年)に井伊直盛公が開基し、薬師如来、日光、月光、月光両菩薩、四天王、十二神将の十九体が祀れ、信仰を集めてきました。その後、江戸中期に東光院の脇へ移転しました。明治40年(1907年)東光院が西平の西光院と合併した折に、堂内の仏像を竹馬寺に預けました。
明治9年(1876年)渋川小学校建設による六所神社の移転に伴い、竹馬寺は久井田地区に新築され仏像も移されました。
(案内板より)

本堂



境内には井伊直親の墓もあります。

右が井伊直親、左が開山・幽泉の墓

 



直親



境内からの眺め

 

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| 静岡 | 08:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直親の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

永禄5年(1562)、家老の小野但馬守が、「井伊直親が松平元康(のちの徳川家康)と内通して謀反を起こそうとしていると、今川氏真に讒言をしたため、直親は、弁明に駿河へ向かう道中、掛川城主・朝比奈備中守によって謀殺されました。
享年27。

直親の首は、南谿和尚が蜂前神社の宮司を使いに出して掛川城からもたい受け、首と体を一緒にして、棺に入れ、都田川の河畔で火葬にされました。

直親の墓は都田川と堤防の中間になった平場に建てられました。

井伊直親の墓

 

 

その堤防を挟んで菩提寺として、大藤寺が建立されました。

寺名は、直親の法号「大藤寺殿前肥州太守剣峯宗慧大居士」にちなんでいます。
二層の山門は、井伊谷城から移築されたものだったそうです。



大藤寺は、龍潭寺の末寺でしたが、廃寺となり現在は存在していません。

もとの直親の墓は、200m東にありましたが、堤防移築のために昭和52年(1977)12月に現在地へ移転されました。

石碑の前の灯籠は、嘉永4年(1851)、井伊直弼により寄進されたもの。

 

 

続いて、龍潭寺の井伊直親の墓です。

 

龍潭寺は、井伊家歴代当主の御霊が眠る菩提寺であり、井伊直親の墓もあります。

 



手前から、24代・井伊直政 井伊直親夫人 井伊直親 井伊直虎(次郎法師) 井伊直盛夫人


直虎と直親は隣同士です。

左が直親 右が直虎(次郎法師)

 

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| 静岡 | 08:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直親ゆかりの八幡宮

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

掛川の十九首塚から池辺神社へ。

 



この池辺神社の北には二つ池と呼ばれる池があり、現在でも池面に突き出した半島部に八幡宮を祀る社が鎮座しています。

 





八幡宮由来

十九首宇佐八幡宮と称し元は掛川市十九首の地にあった。
井伊谷の領主井伊直親(幼名亀之丞)が今川家に謀反を疑われ、永禄5年(1563年)その釈明に駿府に向かう途中掛川領主朝比奈泰朝に主従19人が謀殺された。よってこの地に祀り八幡宮を建てたと大池のほとりにあった旧家(現掛川大池こども園)ねんや(禰宜家)鈴木家文書に記されている。
井伊家は彦根本家とは別に直親の曾孫直好から4代にわたって掛川領主を務めている。
元禄4年(1692年)直好が城主の時上屋敷の大池に遷座され現在に至っている。
慶応4年東征大総督有栖川宮熾仁親王は官軍を率いて江戸に向かう途中掛川に宿泊大池の八幡宮を参拝された。
目と鼻の先に池辺神社が祀られており池に面して二つの神社があることは歴史的な背景を物語るものと思われる。

 

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| 静岡 | 23:03 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直親た討たれた十九首塚

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

桶狭間の戦いで、敗北した今川家の勢力が弱体化すると、今まで今川家に臣従してきた松平元康(徳川家康)が独立。織田家と同盟を結び、今川家との対決姿勢を見せ、今川家に反旗を翻す在地領主も出てきました。

1562年(永禄5)井伊家の当主となった井伊直親は、遠江を手中にしょうとしていた三河の元康から、今川を見限り徳川に付くよう誘いを受けたとされています。

直親が家康と通じているという嫌疑を、小野但馬守今川氏真に伝えたことから、氏真は激怒。
直親を駿府館に呼び出し、真意を聞くことになりました。

直親は、申し開きのため、19人の従者を連れて、駿府館に向かいますが、その途中の掛川の十九首で、今川氏真の命を受けた重臣で掛川城主・朝比奈泰朝に殺害されてしまいました。

直親の殺害場所とされる十九首は、その地名の由来でもあり日本の各地に伝わる平将門の首塚伝承がある場所です。

平安時代の中頃、関東を拠点に、京都の朝廷に対し反乱を起こした将門は、天慶3年(940)2月14日、下総国猿島(茨城県坂東市)において、平貞盛・藤原秀郷らの軍勢との合戦で敗死。その首は秀郷らによって京に運ばれ、晒し首にされましたが、その首は、将門の故郷へと向かって飛び立ち、途中で力尽き落下したのが各地に伝わる首塚です。
将門の首塚としては東京の大手町にある首塚が有名ですが、掛川の十九首の首塚は敵将の秀郷によって埋葬されたとされるものです。


天慶3年2月14日、平将門を滅ぼした秀郷は、将門、家臣19人の首級を持って京に上る途中、京からの検視役と掛川で出会いました。
秀郷は、小川で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、 秀郷は、「将門は、逆臣とはいえ、名門の出である。その屍に鞭打つことはしてはならない。」と言い、 十九人の首を別々に埋葬して、丁寧に供養しました。

東光寺の山門



本堂


東光寺の本堂左側から奥に進むと、墓地があり、向かい側の整備された公園に、十九首塚があります。



昔は19基あったものが時代と共に減ってゆき、将門のものと思われる大きな1基だけが残されたといわれています。その後、将門の首塚を取り囲むようにして18基の首塚が新しく作り直されました。地元では首塚を町の守り神として、彼岸と命日にあたる8月15日に供養祭が行われています。(掛川市観光情報サイトより)

旧十九首塚


この十九首塚がある十九首町は、地元の人からは「じゅうくしょ」と呼ばれるそうで、町の名前になっています。現在の東光寺南側の下俣川という小川で首を洗ったといわれ、血洗川と呼ばれました。そして川に架かる橋に首をかけて首実験を行ったことから、「懸川」→「掛川」という地名になったとする説があります。



十九首塚の由来

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の5代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平5(935)年、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興味され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3(940)年2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首待ち)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。 平成14年3月

将門公とともに供養されている武将

相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高

井伊直親についての案内板が新しく設置されているかと思い、久しぶりに訪ねてみたのですが、この幟しかありませんでした。

IMG_5095 十九首塚

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| 静岡 | 08:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
八幡平の城跡

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八幡平の城もまた新野氏の城であり、舟ヶ谷の城と同じく新野古城と呼ばれています。

この他、天ケ谷の城平、釜原城など6カ城が存在しています。


釜原城入り口





ここも怖そうなので、ここでストップ(..;)

次に八幡平の城跡へ移動。

想慈院の駐車場の隣りに「八幡平の城跡」の案内板があります。

 





八幡平の西南方尾根続きに、この土地の領主新野氏が城主であった舟ヶ谷の城山があるが、その詰城であったものを戦国時代、即ち天正年間初期(1578年頃)武田軍により高天神城への軍道の押さえとして改修されて現在見ることの出来る遺構となった。山尾根を切る多くの堀切、二重の堀切や横堀は武田氏独特の築城手法であり、貴重な歴史的文化遺産である。

想慈院



相慈院には武田軍が駐屯した伝承があるそうです。


 

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| 静岡 | 23:09 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
新野左馬助の居城 舟ヶ谷の城山

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舟ヶ谷の城山(ふながやのしろやま)は、今川一族で新野領主・新野左馬助の居城と伝わる城です。



昭和45年(1970)、鈴木東洋先生により「城山」の字名から城跡が確認され、47年(1972)静岡古城研究会が調査を行い、縄張り図が作られました。
 
現在の遺構は、新野左馬助の時代の遺構ではなく、山城として利用された最終的な形を残すもので、戦国期、特に天正初期、高天神城を中心とした武田・徳川両軍の攻防の頃、武田軍により改修されたものと考えられています。

大規模農道工事や採土により、城の中心部分が破壊されていますが、堀切が確認できます。



城山入り口


ここからは道が狭く車が入れないので、歩いて行きます。



誰もいません(..;)



後ろを振り返ると・・・こんな景色です。





この先の様子がわからないので、ここでストップしました。

(新野左馬助公顕彰会HP参照)

 

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| 静岡 | 08:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
新野左馬助を祀る左馬武神社

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新野氏は、現在の御前崎市新野を拠点とした鎌倉御家人・新野太郎に始まり、その後、鎌倉末期以降、今川氏の祖国氏の三男俊氏の子俊国が、新野氏の名跡を継いだものと考えられています。  

新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)は今川氏の一族であり、新野舟ヶ谷城の城主で新野村三千石を治めていました。親矩も新野新城(舟ケ谷城)の城主として今川氏に出仕していました。

左馬助は、井伊直虎の母親(祐椿尼)の兄にあたり、妻は奥山因幡守の妹。
親矩は井伊氏の縁戚であったこともあり、妹の娘で井伊家の家督を継いだ直虎や、徳川方へ寝返った嫌疑により今川氏真に討たれた井伊直親の遺児・虎松(後の井伊直政)を保護しました。

桶狭間の戦いの後、今川家は急速に衰え、三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、左馬助は今川家に忠節を尽くしましたが、永禄7年(1564年)、今川家に謀叛を起こした飯尾連龍の引馬城を攻め、天間橋(安間橋)付近で討ち死にしました。

虎松は、後に井伊直政となり、関ケ原合戦後、彦根18万石城主に出世。直政は、命の恩人である新野左馬助に報いるため、左馬助の息女を直政の重臣に婚礼させています。

また、井伊家においては、幕末になり、34代・井伊直中は、その子・井伊中守(大老・井伊直弼の兄)に新野左馬助親矩の名跡を相続させ、新野家を再興します。
                   
名跡相続後、新野村に左馬助の墳墓調査を行い、間蔵に墓石を発見しますが、この地が現在の左馬武神社です。

昨年、御前崎の新野左馬助の里を訪ねました。

こちらが観光案内所です。
あいにくこの日は休館日のようでした。

 

 



が、ここに周辺案内図や、外にも資料があるので、助かりました。

 







ここから車で数分行くと、小高い山に建つ神社が左手にあります。

IMG_0351 左馬武神社

左馬武神社(さまたけじんじゃ)は、地元住民から「情けの武将」として慕われる新野左馬助を祀っています。

急な階段が続きますが、整備されています。

 



周りは茶畑です。

 

 


左馬助の墓とされる五輪塔

 







境内からの眺め

 



「新野左馬助公顕彰会」により管理され、毎年4月に手もみの新茶が献上されています。

(御前崎市商工観光課パンフレット参照)

 

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| 静岡 | 11:18 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
寺野六所神社

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渋川つつじ公園の近くにある寺野六所神社

 


井伊直親(亀之丞)が、井伊谷に帰還する道筋で、寺野宝蔵寺観音堂に寄進された後、六所神社に奉納されたと伝わる「青葉の笛」を所蔵しています。

「青葉の笛」の公開日は限られており、井伊谷の地域遺産センターは複製品が展示されています。

 



「建立の時代は詳かではないが、文献棟札等より天慶年間と伝う。後承久年間に至りこの土地は三河国乃信濃国に通ずる要衝あった。其の後建武中興の時代に至り領主井伊遠江守道政、井伊谷城に宗良親王を迎奉り官軍に従いて王事につくす。宗良親王におかれては、王政復古を願い掛けられこれの満願の時、当神社へ宝物として横笛一本を寄進された。此れを青葉の笛と称する。」
(静岡県神社庁ホームページ参照)

 

 

 

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| 静岡 | 09:37 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP