大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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華陽院 家康の祖母・源応尼の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

静岡市葵区鷹匠の華陽院

 

 

境内には、徳川家康の祖母・源応尼の墓があります。

 



源応尼の実名は「お富の方」、または「お万の方」といいます。

明応元年(1492年)誕生した源応尼は、はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生みました。しかし、岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれています。
清康の死後、三河の諸豪族に次々に嫁ぎましたが、夫に先立たれ、駿河国の大名・今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗ります。

竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質として駿府に送られると、竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたりました。
法名は華陽院。

当寺・華陽院は、知源院とよばれていたものを華陽院の法名により改めたもの。

 

 

by shizuka
 



| 静岡 | 16:14 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
竹千代の元服を行った静岡浅間神社

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

「おせんげんさん」の名で親しまれている静岡浅間神社は、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の3社と4つの境内社の総称で、賎機山(しずはたやま)の麓に鎮座しています。

古来より時の権力者からの保護を受けてきましたが、竹千代(徳川家康)は幼少の頃今川氏の人質として、ここから約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬したそうです。
竹千代は、14歳の時、今川義元が烏帽子親となって、当社で元服式を行いました。

 

静岡浅間神社のHPによると
「延元3年(1338)今川範国公は願文を納め、範氏公は天下泰平の祈願を修し、義元公は老母寿桂尼に無上の満足あらんことを祈願して、菩薩舞装束一式を奉納する等、今川家は氏神として庇護した。人質であった家康公(竹千代)は義元公が烏帽子親となって当社で元服式を行った。以降徳川氏のあつい尊崇を受けて、大御所として入府以来崇敬の真心を捧げ、徳川幕府の祈願所と定めた。」

 

以来、家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、徳川将軍家から手厚く庇護されました。 家康を崇敬していた徳川家光は、1634年より当社の大造営を行いました。その社殿の華麗さを、儒学者・貝原益軒は、「日本いて神社の華麗なること、日光を第一とし、浅間を第二とす」と評したそうです。また、駿府藩主・駿河大納言・徳川忠長は、この賤機山で猿狩りを行い、当社の神の使の猿を狩ったことで、兄である家光の逆鱗に触れたことでも知られています。


 
赤い鳥居をくぐると、大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)があります。
 






大歳御祖神社は、延喜式内小社で、大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)を祭神とします。三間社流造りで、組物・彫刻には極彩色をしています。







神部神社・浅間神社の楼門



総漆塗で、彫物には「水呑の龍」「虎の子渡し」などがあります。龍の彫刻は、左甚五郎作と伝えられ、安永の火災の際、池の水を吐いて、御殿にかけたという伝説があり、水飲み龍と呼ばれています。

水飲み龍



力士像



大拝殿神部浅間両神社の拝殿。



楼閣造りで、いわゆる浅間造の代表的なもの。狩野栄信・狩野寛信の「八方睨みの龍」「迦陵頻伽」「天人」の天井絵が飾られています。

ここからは見えませんが、大拝殿背後の2つの中門と透塀に囲まれた漆塗り極彩色の建物が神部神社と浅間神社の本殿です。これらの本殿は、二社同殿という珍しい造りをしています。

神部神社(かんべじんじゃ)

駿河国開拓の祖神大己貴命(おおなむちのみこと)を祀っています。崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられ、平安時代より駿河国の総社とされたました。

浅間神社(あさまじんじゃ)

木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)を祀っています。延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきました。 東照宮を思わせる豪華な社殿は、漆塗極彩色が施され、60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたものだそう。計26棟が国の重要文化財に指定されています。

境内社として、八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社・麓山神社が鎮座しています。

八千戈神社(やちほこじんじゃ)



八千戈命(大国主命)を祀っています。入母屋造銅瓦葺で、朱塗極彩色を施し、蟇股には二十四孝を題材とした彫刻が付けられています。







当社は徳川家康が陣中に常に持参し、勝利を願った念持仏の摩利支天像を安置するために造営されたもので、摩利支天社と称し、徳川家をはじめ幕府が殊に崇敬を尽くしました。明治初年の神仏分離により、摩利支天は葵区大岩の臨済寺(今川家菩提寺)に遷され、八千戈神社となりました。

少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)









少彦名命を主神としています。当社はもと神宮寺薬師社と称し、薬師如来・十二神将を安置していましたが、明治維新に際して臨済寺に遷され、少彦名神社となりました。漆塗極彩色。蟇股の十二支の彫刻が有名。古くから医薬・酒造の神、技芸上達・知恵の神と仰がれています。

玉鉾神社(たまほこじんじゃ)





社殿は伊勢神宮の御古材にて昭和51年再建されました。明治9年官許を得て県内の神官により創祀され、受験・学問の神と仰がれています。

100の階段と呼ばれる長い階段をのぼって右手に行くと、麓山神社があります。

麓山神社(はやまじんじゃ)



古来より賤機山上に鎮座。社殿は本殿・拝殿・唐門・透塀を備えています。「山宮」と称し、細部に彫刻を配し漆塗り極彩色を施します。主神は本社浅間神社の木之花咲耶姫命の御父神にまします。

また、100の階段をのぼって左手に行くと、賤機山古墳があります。





賤機山は、静岡の地名発祥の地として知られ、6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされています。
(静岡浅間神社HP、「静岡県の歴史散歩」参照)


 by shizuka
 



| 静岡 | 07:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
竹千代像

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 


静岡駅北口駅前広場に、徳川家康像竹千代像があります。

竹千代像


徳川家康像


平成19年度に家康の駿府城入城四百年を記念し、「大御所四百年祭」展開してきた事業の一環として平成21年3月19日、銅像が設置され、像台座の題字は、徳川宗家第十八代当主・徳川恒孝氏によって書かれました。



家康にとって駿府は、最長約25年を過ごした地です。

今川家の人質として過ごした幼少期と江戸に移るまでの数年間、晩年の大御所時代の3度を駿府城で過ごしました。

竹千代像は、家康公が8歳から19歳まで今川氏の人質として過ごした幼少期の姿。

家康像は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を支配した頃の壮年期の家康の姿です。

この像の横に、久能山国宝指定記念碑があります。



by shizuka



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| 静岡 | 07:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
奥山方広寺(4)奥山半僧坊

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奥山半僧坊

 

 

 

奥山半僧坊大権現

方広寺の鎮守さま。伝えによると、無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。風は帆柱を折れよとばかりに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師のお乗りになっている船をいまにも飲み込もうとする勢いでありました。大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。そして、ここでお姿を消されたといわれます。
禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰をあつめております。
毎年10月に御大祭がおこなわれております。(奥山方広寺HPより)

 

 

 

 

見事な龍の彫刻です!

 

 

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| 静岡 | 23:59 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
奥山方広寺(3)五百羅漢像

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方広寺の境内には五百羅漢像が点在しています。

釈迦入滅後、教典編纂の第一結集(けつじゅう)、第四結集に500名の仏弟子達が集まったことに由来します。

方広寺には、次のような記録が残っているそうです。

「寺門に入るに先立つて白崖峰と言はれる巨岩上に一群の羅漢が安置され、全境内の樹下石上に姿態自由な立像坐像臥像が苔衣を着て或は禪思し、或は流水を俯瞰し或は行雲を仰視して居る。是は寶歷年中 拙巌和尚が圓覺經を提唱するに當つて大藏經を渉獵し、偶、諸大羅漢が世間に現在して遺法を護ると云ふ文を讀み、更にまた開山禪師曾て支那天台の石橋に茶を獻ぜられしに、羅漢が身を現じて 別峰に禪師を呼ばれたる故事を思い、方廣の寺名が天台に因み、五百の雲衲の數の亦相通ずるに依って五百躰を彫刻せしめ明和七年完成した物である。」

こちらは、羅漢の庭にある羅漢像です。

羅漢の庭

 

 

その他、境内の至る所に羅漢像が点在しています。

 

 

 

 

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| 静岡 | 07:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
奥山方広寺(2)本堂

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方広寺の本堂は、明治38年から大正7年にかけて竣工されたもので、間口32m奥行27mの東海屈指の建物です。

 





中央の大額「深奥山」は山岡鉄舟の書によるものです。

 



それでは本堂の中に入ってみましょう。
中は撮影OKです。

 



 



秘仏・阿弥陀如来像



山門に安置されていた阿弥陀如来像が、本堂に特別公開されていました。

案内板によると

「この像が彫られたのは、天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀に討たれた年、井伊直虎が亡くなった年でもあります。
戦国の動乱期に京都で彫られた木像は、絢爛豪華ではありませんが、穏やかでおおらかなご尊顔をされています。」

 

 

 

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| 静岡 | 18:49 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
奥山方広寺(1)瀬戸方久が寄進した三重塔

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奥山方広寺は、奥山にある臨済宗方広寺派の大本山で、山号は深奥山(じんのうざん)、別称「奥山半僧坊」本尊は釈迦如来。

1371年(建徳2年)奥山朝藤の開基により、後醍醐天皇の皇子・無文元選を開山として創建されました。

1587年(天正15年)後陽成天皇の勅願所となり、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられています。

60ヘクタールの広大な敷地に多数の歴史的な伽藍があります。

この日は、三重塔の横にある本堂最寄りの駐車場まで車で行き、そこから歩いて回りました。

三重の塔

 


この三重の塔は、元は瀬戸方久が寄進したものですが、当時の塔は消失し、現在の塔は山口玄洞が再建したものです。

瀬戸方久とは、ムロツヨシさんが乞食同然のボロボロの格好で登場しましたが、後に豪商にのし上がり、井伊家の財政を握るキーパーソンになり、堀川城主となる人です。



ここから本堂が見えます。

 



亀背橋


この橋を渡ると間もなく本堂です。


 

 

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| 静岡 | 19:20 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
奥山氏居館跡

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浜松市北区引佐町に鎮座する奥山神社の向かい側に、奥山氏の居城であった奥山氏居館跡があります。

奥山神社


奥山氏は、井伊家の分家で、8代頃から分かれ、引佐の奥山郷を領地にした奥山朝清を称したことに始まり、方広寺の南西約2kmの中村地区の高台が居館跡となっています。

 

 



井伊家の分家である奥山氏の居館跡がこの地に想定されています。奥山氏は分家とはいうものの、嫡流家に匹敵する力を持っていました。南北朝時代の当主奥山六郎次郎朝藤は、後醍醐天皇の皇子、無文元選招き、奥山方広寺を開いています。また、奥山氏一族は、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元に従い、多くの戦死者を出したといわれています。井伊直政の実母
奥山因幡守朝利の娘)も奧山氏の出身です。

現在はみかん畑となっています。

 


居館跡からの眺め

 


井伊氏の本拠・三岳城の支城として使われた奥山城は、標高200mに築かれた奧山家の戦時用の山城で、永世11年(1514)、井伊直虎の父・直盛が反今川軍に同調した際、敗れてこの城に逃れたといいます。
しかし、大部分は、採石のために削り取られてしまい、果樹園の一角に土塁が残るのみだそうです。

 

 

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| 静岡 | 11:16 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊氏居館跡

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

井伊谷の四区公民館の前に井伊家居館跡の案内板があります。

 




戦国時代、井伊氏が平時を過ごした居館の跡で、江戸時代の記録によると、山麓にあった井伊氏の居館は、本丸のほか、二ノ丸、三ノ丸に分かれていたとされており、山上の曲輪(井伊谷城)は「御所の丸」と呼ばれていたそうです。

 





 井伊氏居館跡

江戸幕府の柱石の大名中、数少ない大老職の家柄と仰がれた彦根藩主井伊氏発祥の地は、引佐の井伊郷で、この場所が屋形の跡です。
井伊氏の元祖共保公は、藤原鎌足5世の裔、閑院左大臣冬嗣の男良門の流れを掬む藤原備中守共資を父とし、共資が一條天皇の正暦年中、遠江の廳に来住した時、井伊郷の荘司三宅篤茂の女を娉い、寛弘7年正月篤茂の館に於いて生誕したと謂われております。
以来日本八介の一、遠江の井伊ノ介と謳われ、南北朝、東海に於ける南朝の拠点として、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、ここ城山に御所を構え、東北三嶽山頂に山城を営み、激烈な戦火を繰り広げました。
以後戦運南朝に利あらず、戦国の世には今川氏の為に悲運を繰返し、直政公出生の翌年、永禄5年には幼主直政公も此處を立退き、遂に主無き館となりました。
嘉永5年6月、彦根藩主、時の大老井伊直弼公は親しく此の館跡を訪れ、境内にある守護社井伊大明神に詣で旁附近の史跡を巡覧した事が伝えられています。

平成元年8月吉日
引佐町歴史と文化を守る会
引佐支部有志一同

当時を偲ぶものといえば、お堀と石垣の跡ぐらいです。

 



この公民館の辺りが、居館の二の丸で

 



本丸は北側のこの辺りのようです。

 



向こうに見える緑の山が、井伊谷城跡です。

 

 

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| 静岡 | 15:28 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍潭寺(2)開山・黙宗瑞淵禅師を祀る開山堂

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龍潭寺の歴史は古く、天平5年(733)に行基菩薩によって開創されたと伝わります。

天文年間(1532〜1555)に井伊谷城主・井伊直平が井伊氏の菩提寺であった自浄院に文叔瑞郁を招き、井伊直盛が文叔の後継であった黙宗瑞淵を開山として龍泰寺とし、のち龍潭寺と改めたことに始まります。

八世徹叟和尚が建立した楼閣造りの開山堂

 


塔上に井伊氏の家紋・彦根橘と彦根井筒(井桁)が見られます。

 



堂内には、文叔瑞都、黙宗瑞淵の像や身代わり地蔵が祀られています。

文叔瑞都の像



黙宗瑞淵の像



身代わり地蔵

 

 

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| 静岡 | 09:27 | comments(9) | - |- pookmark↑PAGE TOP