大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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長谷寺(上田)の真田昌幸の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より真田昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されましたが、東軍に属した長男の信幸(信之と改名)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居となりました。

 



昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発ち、高野山へ。
昌幸の正室・山之手殿は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従いました。

上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却されました。
高野山での昌幸の配所は、蓮華定院という真田家の菩提所でしたが、間もなく山麓の九度山に代わりました。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったともいわれています。
また、昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。

昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄っていましたが、生活費に困窮し、信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出しており、信之は、毎年数十両単位の援助を行っていました。
配流当初には信之、本多正信を通して赦免運動を展開。山之手殿も赦免を嘆願していたので、昌幸は国許に帰還する希望を持っていたようです。

しかし、10年余り続いた流人生活は昌幸を衰えさせ、晩年は病気がちだったといいます。
慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死しました。享年65
死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだといいます。

墓所は長野県松代の長国寺で、上田の真田家廟所である長谷寺に納骨された経緯が記されています。

上田の長谷寺の真田家廟所

 



左から、真田幸隆夫人恭雲院、真田幸隆、真田昌幸の墓

真田 幸隆(さなだ ゆきたか/こうりゅう)
信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では「一徳斎」の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

恭雲院
海野棟綱や真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される。
『系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]。天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている。
天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡・佐久郡を支配していた織田家家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡・筑摩郡・木曽郡を与えられた木曽義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる。 

真田 昌幸
甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。
  (Wikipediaより)

 


 


 



また九度山の真田庵には、来月のツアーで行く予定でいます。

 

 

 

最後に・・・

 

草刈正雄さん、真田昌幸の熱演、お疲れ様でした!

 

 

 

 

 


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| 長野 | 00:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
真田流罪の地九度山 くどやま大河展

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

くどやま「真田丸」大河ドラマ展
が開催されています。

平成28年3月13日(日)〜29年2月28日(火)
入場料:大人500円  小人250円

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真田十勇士
九度山に蟄居中の幸村のために集まった右腕たち。江戸時代から史実を参考に生まれた勇士です。
「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」

猿飛佐助(甲賀流忍者)
霧隠才蔵(伊賀流忍者)
海野六郎((幸村の右腕的存在)
穴山小助(武田家出身の家臣)
筧十蔵 (射撃の名手)
三好青海入道(僧侶 鉄棒の使い手)
三好伊三入道(元は山賊 青海入道の弟)
望月六郎(火薬武器の使い手)
由利鎌之助(元山賊 鎖鎌の使い手)
根津甚八(元九鬼水軍の頭領)

Photo
 

 

ちょうど映画もやっています。

 

 

そば処 幸村庵(真田庵東隣)
幸村が育った信州上田の「信州そば}をこの地に復活させました。

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道の駅「柿の郷くどやま}
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世界遺産情報センター(道の駅建物内)では、九度山・高野山の観光情報を発信しています。
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道の駅「柿の郷くどやま」地図は こちら
和歌山県伊都郡九度山町入郷5−5

 

 

| 和歌山 | 01:58 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
真田流罪の地九度山 昌幸死す
JUGEMテーマ:大河ドラマ
1600年(慶長5)年に起こった天下分け目の戦い:関ヶ原合戦で、西軍(石田三成方)に組した真田昌幸、信繁親子は、西軍の敗戦により死罪が処せられるところ、東軍(徳川家康方)についた兄:信之の助命嘆願で死罪は免れ、同年10月、父:昌幸と和歌山高野山蓮華定院へ流罪となりました。

同年冬、妻子との生活を許された真田親子は、高野山北側の麓の九度山に移り、そこで生活しました。その跡地に建つっているのが善名称院真田庵です。1611年(慶長11)、配流から11年、再起の夢かなわず、昌幸は病没しました。享年65歳。

 

 

 

昌幸公墓・400年忌碑(真田庵)

 

 

Photo

 


 

真田庵

 

 

 

 

 


 

 

 
以下は、真田庵宝物館に展示してある資料からです。

 

昌幸公

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信繁公
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真田家家系図
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幸村公大阪夏の陣使用槍先
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蕪村句碑
炬燵して 語れ真田が 冬の陣
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別に一句
かくれ住んで 花に真田が 謡うかな


 

 


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真田の抜け穴
真田庵から東へ170mほどのところにあります。
大阪城に続いているとの伝説が残っています。

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実際は、4世紀ころの古墳で、真田古墳と言われています。
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1614(慶長19)年、豊臣秀頼公から徳川家康との戦いに「力を貸していただきたい」との依頼を受け、

「秀吉公の恩義に報いるためにも、喜んで協力いたそう。」

幸村は、息子:大助と共に14年間暮らした九度山を後にして、大阪城に入りました。

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真田庵の地図は こちら
和歌山県伊都郡九度山町九度山1413


 

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| 和歌山 | 02:53 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
真田流罪の地高野山 蓮華寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

1600(慶長5)年に起こった関ケ原の一戦で敗れた西軍、三成方に加担した真田昌幸と信繁は、東軍(徳川家康方)についた兄:信之の助命嘆願で死罪は免れましたが、家康より死罪より重い刑を与えると言われました。
真田の持っているもの全てを奪い取り、生きる気力も無くさせ、ただ生きてることだけで高野山の麓で暮らせ
と命じられました。同年10月、父:昌幸と和歌山高野山蓮華定院へ流罪となりました。昌幸53歳、幸村33歳の時でした。

9月25日第38回「昌幸」では、1600年冬、妻子との生活を許された真田親子は、高野山北側の麓の九度山に移り、そこで生活しました。その跡地に建っているのが善名称院真田庵です。

1611年(慶長11)、配流から11年、再起の夢かなわず、昌幸は病没しました。

享年65歳。

 

今回の紀行で紹介された「蓮華定院」を記事にしました。

 

蓮華定院
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当時の院は、江戸時代に消失しましたが、当時のままの姿で再建されました。院内には、上段の間があって、この部屋を真田親子が使ったようです。遺品が展示され公開されています。

 

上段の間
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残されている書状 

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信繁から兄:信之家臣への手紙
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この壺に焼酎を入れてください。今切らしているのならついでの時にでもお願いします。難しいかもしれませんが、壺の口に詰め物をして外れないようにひもでくくってください。知らせがありしだい取りに行きます。
つまらないものですが、ゆかたを一領差し上げます。
焼酎の件、くれぐれも頼みます

信繁(好白)

左京殿(兄信之の家臣か)

 

兄信之から蓮花定院への書状
(蓮華を蓮花と書いています)

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お寺の裏には、真田家の墓があります
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右 信之公(信繁の兄)
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左 信政公(信之の息子)
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蓮華定院の精進料理
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昌幸は、馬のひずめの聞こえるなか、「御屋形様(武田信玄)」と叫びながら息絶えました。

武田信玄 勝頼公の墓(高野山)




こうやくん
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その後の真田家

真田家は、幸村の子は居ましたが、真田家を継いだのは、関ヶ原合戦で徳川方についた兄:信之で、途中で養子が入り信之の系統は断絶しましたが家名は引き継がれ、江戸時代を通じて存続し、幕末に幸貫老中となり、明治になってからは新政府側に属して、会津戦争に従軍しています。後に子爵(後に伯爵)家となりました。

 

真田伯爵家の墓(高野山奥の院)

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蓮華定院の場所は 






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| 和歌山 | 00:49 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大谷吉継の墓(関ケ原)

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

関ケ原の大谷吉継陣跡の近くに、大谷吉継の墓があります。

 

大谷吉継は、今でいうハンセン病を罹っていたため、目はほとんど見えず、歩行もままならない状態でしたが、輿に乗って隊を指揮し、東軍の藤堂・京極隊を相手に奮戦しました。
しかし小早川の裏切りによって西軍が敗北した事を悟ると、家臣の湯浅五助に介錯させて切腹しました。享年42歳。

 

大谷吉継の墓


吉継の首は首級にされないように、五助によって地中に深く埋められたが、そこを敵方の藤堂高刑(たかのり)に見つけられてしまいました。
五助は「私の首を差し上げる代わりに、ここに主君の首を埋めた事を言わないで欲しい」と頼んだら、高刑は「武士の面目にかけて言わない」と誓い、五助の首を取ったといいます。

 

大谷吉継の墓(真ん中)に、寄り添うように建つ湯浅五助の墓(左)


首実験で五助の首を見た家康は「五助ほどの者が主君・吉継の首の行方を知らないはずがない」と高刑につめ寄ったが、「言わないと五助に誓って首を取ったので、この事は誰にも言えない」と突っぱねたそうです。
家康はむしろその律儀さに感心して高刑に褒美を与えたと云います。
ゆえに、吉継の首は家康の手に渡ることはありませんでした。


大谷吉継顕彰碑


 

 

大谷吉継の墓、そして顕彰碑は、東軍であった藤堂家により建てられたものです。

敵でありながらも尊敬され慕われる・・

大谷吉継の人となりを表しています。

 

 

 

 

 


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| 岐阜 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大谷吉継の首塚(米原)

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ラメールさんの書かれた記事 http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?eid=1849

 

を見て、米原にある大谷吉継の首塚を訪ねてみたくなり、先月行って来ました。

JR米原駅から徒歩約15分。

米原郵便局を目印に進み、下多良神社の脇の道を通り過ぎて行くと、

 


 



畑の真ん中に祠が見えてきます。

 

 

大谷吉継は、豊臣秀吉の小姓として信任を得、奉行となって越前敦賀で5万石を拝領。

朝鮮の役に石田三成らとともに参加。

秀吉没後、慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いで西軍石田方として参戦。


関ヶ原での小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯で自刃。
家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の僧・祐玄に持たせ、敦賀の逃亡の途中に、この地に埋め隠したといわれています。
吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にしました。

 


 



吉継の首については、諸説あり、自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかったとも。

 

祠の中を覗いてみました。
 



吉継の首塚は、綺麗に整備されていて、今も地元の人に大切に祀られているのがわかりました。

 


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| 滋賀 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
九度山の真田庵

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真田昌幸と信繁父子は、第二次上田合戦には勝利したものの関ケ原の西軍が敗北したため、その年(慶長5年)の12月、高野山へ配流となりました。

ひとまず蓮華定院に滞在しましたが、高野山は女人禁制であったため家族との同居ができず、のち、麓にある九度山へ移り住みました。

 

九度山の真田庵

 
 

昌幸・信繁親子が幽閉生活を送った屋敷跡に、江戸中期(1741)に本堂が建立され、善名称院真田庵と称されるようになりました。

 

境内にある「真田地主大権現」

真田昌幸・信繁・大助の三代の御霊を祀り、この寺の守護神としています。

 

昌幸の墓

九度山での幽閉生活11年目に、失意のまま病没しました。享年65歳。

 

真田宝物資料館

真田三代の肖像画。信繁直筆の手紙(複製)がありました。

興味深かったのは、不遇の幽閉生活の中で生活の糧にしたという「真田紐」。

帯締めのようなものかと思っていたら、それより平たくて太い紐でした。

 

南側の門

 

 

西側の門

 

門の右扉には、真田の「六文銭」が刻まれています。

 

左扉には「結び雁金の紋」が刻まれています。

 

 

雷封じの井戸

慶長年間、信繁が閑居中の真田屋敷に落ちた雷を取り押さえて井戸に封じ、里人の難を救ったと伝わります。

 

 

信繁を慕う人々の思いが、このような伝説を生んだのでしょうね。

 

 

 

     by   めりい

 

 

 

 

 


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| 和歌山 | 12:47 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
信濃国分寺 第二次上田合戦 会見之地の碑

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信濃国分寺の仁王門は、国道18号に面して、寺の境内地より入口に建っています。

仁王門



境内には、本堂をはじめ、三重塔・大黒天堂・鐘楼・観音堂・地蔵堂・宝蔵などの堂塔伽藍があります。

三重塔

 

高さ20.1メートル、和唐折衷様式の三重塔は国の重要文化財。

源頼朝の発願と伝えるほか、塔内には建久8年(1197年)の墨書があったと伝わり、様式から室町時代中期の建立と推定されています。

本堂



薬師堂、八日堂とも。1845年上棟した江戸末期の建造で、薬師如来を安置し、日光月光両菩薩を脇侍とし、十二神将を安置。
 

 


江戸初期の百体観音像を安置した観音堂の前に第二次上田合戦の会見之地の石碑が建っています。
 



第二次上田合戦の時、上田城に籠る真田昌幸・信繁父子と、東軍の使者として真田信幸と本多忠政が、会見した場所がこの信濃国分寺とされています。
 

 

この説明によると、国分寺の会見当時は三重塔以外は、粗末なお堂しかなかったそうです。

 

by shizuka

| 長野 | 07:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
小松姫ゆかりの芳泉寺〜上田

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

慶長5年(1600)、会津討伐のため下野犬伏に布陣していた真田昌幸のもとに、石田三成が挙兵したという知らせが届きました。

昌幸は信幸・信繁を呼び寄せて話し合いをした結果、昌幸と信繁は西軍へ、信幸は東軍に付くことに決め、真田家は東西分かれて戦う事になりました。

これは信幸が徳川家の養女・小松姫を妻にしているのに対して、信繁は大谷吉嗣の娘を妻にしているため、このように東西に分かれる事になったと言われ、また、東西どちらが勝利しても真田家が生き残ることができるよう、意図的になされたとも言われています。

昌幸と信繁は徳川軍から離反して上田に帰る事にし、家康に従う信幸と袂を分かちました。

これを「犬伏の別れ」と言います。

 

さて「犬伏の別れ」の後・・

西軍についた昌幸が、東軍についた信幸の居城である沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望したそうです。

ところが留守を守る小松姫は鎧に身を包み、「義父であっても敵である。城に入れる事はできない」と断ったといいます。

しかたなく昌幸は引き上げ、近くに正覚寺で休憩を取っていると、そこへ小松姫が現れ、昌幸の願いを受け入れて孫と引き合わせたそうです。

この小松姫の筋を通した機転に、昌幸も大いに感心したと伝わります。

 

 

上田城近くの「芳泉寺」に、小松姫のお墓があります。

 

山門の天井には、徳川家の葵や真田家の六文銭の紋があります。

 

 

本堂

 

本堂左横から入ると

 

小松姫のお墓があります。

 

 

 

 

また上田城の南櫓にも、小松姫ゆかりの駕籠が展示されていました。

 

 

 

関ケ原で西軍が敗れて、昌幸・信繁が高野山:九度山へ追放されると、小松姫は食料や日用品などを送り、義父や義弟への配慮を怠らなかったと言われています。

小松姫の実父は猛将・本多忠勝なので、父ゆずりの勝気なイメージがありますが、案外優しくて良妻賢母だったようです。

 

 

      by  めりい

 

 

       


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| 長野 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP