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大河ドラマ
徳川家康は、1585(天正13)年、松平家忠に駿府城の築城を命じ、翌年浜松城から移り、1589年に完成させましたが、翌年江戸に転封となり、中村一氏がかわりに城主となりました。
その後、江戸幕府を開いた家康は、1605(慶長10)年、将軍職を2代秀忠に譲り、駿府に移り住みました。駿府を大御所政治の中心に位置づけ、1607(慶長12)年、家康は、天下普請として諸大名を動員し、駿府城の大改修を行いました。
輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸、二の丸、三の丸からなり、5層7階の天守を配置した平城です。
家康在城時の駿府の町は、江戸と2元政治が行われていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄しました。
家康の死後、1624(寛永元)年、城主となった秀忠・江の次男・忠長が城主となり、55万石を領しましたが、家光との確執に敗れ、改易されてからは大名は配置されず、駿府城は城代の管理となります。
1635(寛永12)年の火災により、天守等の殆どの建物が焼失してしまいます。
櫓、門等の建物は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
明治時代になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となりました。
戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され,また近年、二の丸巽櫓、東御門が復元され一般に公開されています。
東御門は、は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形門で、要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等を持っています。東御門の前が安藤帯刀の屋敷であったことから「帯刀前御門」、また、台所奉行であった松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
慶長年間に築かれた東御門は1635(寛永12)年に天守閣、本丸御殿、巽櫓などと共に焼失し、寛永15年に再建されました。
現在の復元建物は、この寛永年間再建時の東御門・巽櫓の姿を復元したものです。
巽櫓は、駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位 置することから「巽櫓」と呼ばれました。駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」(ひつじさるやぐら)もありました。
寛永15年に再建された巽櫓は、安政大地震によって全壊してしまったと考えられています。
なお、この時、2009年の地震により、石垣の一部が崩落する被害を受けていました。
本丸跡付近は公園となり、その中に1973(昭和48)年に建てられた
家康像があります。
家康は、1616(元和2)年4月、この辺りで75年の生涯を閉じました。
銅像の横に、紀州から献上された家康手植のミカンがあります。
下に落ちたミカン
天守閣は、1607(慶長12)年12月に焼失、翌年再建されましたが、1635(寛永12)年に再度焼失してしまいました。その姿は不明な部分が多いのですが、天主台中央の独立した5重7階の天守閣を取り巻く天守丸構造をとっていたと推定されています。
二ノ丸堀と本丸堀を結ぶ二ノ丸水路の北東側には二ノ丸御殿と台所があったことが、発掘調査で確認されています。
現在は、北門にかけて、城郭の大名庭園を模した
紅葉山公園になっています。
紅葉山というだけに、秋になれば、見事な紅葉が見られることでしょう。
(駿府城HP、「静岡県の歴史散歩」参照)
さて、
真田昌幸と駿府との関係は・・・
天正14年(1586年)11月4日、豊臣秀吉の命令で、昌幸は家康の与力大名となりました。
同15年(1587年)3月18日、
昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し、その後大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となりました。
by shizuka
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