大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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上田城(6)南櫓
JUGEMテーマ:大河ドラマ

北櫓から南櫓











格子窓








見事な梁




窓の真下は、尼ヶ淵です。
かつては堤防がなく、一面河原で、千曲川の分流が深い淵を作って流れていました。





窓から本丸東の空堀が見えます。



 by shizuka



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| 長野 | 22:43 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
上田城(5)北櫓
JUGEMテーマ:大河ドラマ

現在、上田城には北櫓、南櫓、西櫓の3つの櫓があり、見学ができます。

北櫓と南櫓は明治維新後に上田城が廃城になった後、民間に払い下げられ、元和8年(1622)、真田氏にかわって上田藩主となった仙石忠政は、寛永3年(1626)上田城復興工事に取り掛かりましたが、忠政は寛永5年に病死し、工事も中断したままになっていたため、この櫓もその間に建てられたものと考えられます。

櫓は本丸にだけ建てられ、全部で7棟ありましたが、明治の廃城のおり、西櫓を残してあとは取り払われてしまいました。このうち北櫓と南櫓の2棟は、民間に払い下げられ、もとの場所から撤去されました。

その後、上田城の櫓は昭和になると遊郭の建物として再利用されたりもしましたが、市民運動で買い戻され、昭和18年(1943)から24年にかけて現在の地へ再移築されました。

櫓は、北櫓からの見学になります。








































by shizuka



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| 長野 | 00:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
17年大河ドラマ「おんな城主 直虎」のキャスト発表!
JUGEMテーマ:大河ドラマ

柴咲コウさんが主演する2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の新たなキャストが26日、同局で発表され、柴咲さん演じる主人公・井伊直虎のいいなずけ・亀之丞(後の井伊直親)に三浦春馬さん、父・直盛を杉本哲太さん、母・千賀を財前直見さん、盗賊団のかしらを柳楽優弥さんが演じることが明らかになった。柳楽さんは初の大河出演となる。

 このほか、曽祖父の井伊直平に前田吟さん、菩提寺の住職南渓和尚に小林薫さん、井伊家筆頭家老の鶴丸(後の小野政次)を高橋一生さん、直親の妻・しのを貫地谷しほりさん、豪商の瀬戸方久をムロツヨシさん、亀之丞の父・井伊直満を宇梶剛士さん、鶴丸の父・小野政直を吹越満さん、千賀の兄・新野左馬介を苅谷俊介さん、井伊家重臣の奥山朝利をでんでんさん、重臣の中野直由を筧利夫さん、語りを中村梅雀さんが担当する。

 ドラマは、激動の戦国時代に男の名を名乗り、井伊家の家督を継ぎ“おんな城主”となった女性・井伊直虎の生涯を描く。主人公・直虎は、幕末の大老・井伊直弼の先祖で、徳川家康の重臣・井伊直政の養母。井伊家当主・井伊直盛の一人娘として生まれるが、戦のたびに当主を殺され、男の名で家督を継ぎ、駿河の今川、甲斐の武田、三河の徳川と三つの大国が虎視眈々(たんたん)と領地を狙う中、己の知恵と勇気を頼りに、仲間と力を合わせて国を治め、幼い世継ぎの命を守ってたくましく生き延びていく。

記事全文はコチラ
  ↓↓↓
http://mantan-web.jp/2016/05/26/20160526dog00m200003000c.html

やっと柴咲コウさん以外のキャストの一部が発表されました。

井伊直親に三浦春馬さんか!!

これは楽しみです!!

井伊直政役は誰になるのでしょうね〜

気になるところです。


この他こちらも合せてお読みください。

NHK ON LINE
http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/245663.html

スポニチ
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/05/26/kiji/K20160526012661170.html

by shizuka



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| ドラマ | 08:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
科野大宮社(上田)
JUGEMテーマ:大河ドラマ

科野大宮社(しなのおおみやしゃ)真田昌幸が上田城築城以来、城の鎮守として崇敬した神社で、
信濃国分寺三重塔と当社は藩費をもって修繕したといいます。



社伝によれば、第10代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命(たけいほたけのみこと)による創建といいます。
信濃国府は古来上田市にあり、平安時代初期に松本市へ移されたとされています。

上田市の国府は神科台地上と推定されており、当社は国司が参拝する総社であったとする説があります。

当社は古来「総社大宮」「科野国魂神」と称したといわれ、中世には「大宮諏訪大明神」と称したと伝えられています。

寛文9年(1669年)頃の城下町古地図には「常田村大宮」と記載されています。

明治に入り、県社に列し、社名を現在の「科野大宮社」に改めました。

現在の社殿は、万延元年(1860年)の上田城主・松平忠礼の再建によるものです。



境内にはケヤキやイチョウなどの大木が何本も立っており、社叢は市指定天然記念物に指定されています。





境内社の六所明神と駒形稲荷社は、天正年間の築城の際に上田旧城地から当地に移されたと伝えられています。

六所明神


駒形稲荷社


 
| 長野 | 12:32 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
聚楽第
JUGEMテーマ:大河ドラマ
秀吉は、完成した聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、絶頂期をむかえました。
5月22日の大河紀行で聚楽第が紹介されましたので記事にしました。

1585(天正13)年 秀吉関白になる
1586(天正14)年 聚楽第着工
1587(天正15)年 聚楽第完成
  秀吉、九州遠征で島津氏を降伏させ、西日本全域を制覇
1588(天正16)年後陽成天皇聚楽第に行幸 
1589(天正17)年 秀吉、側室淀殿の間に鶴松生まれる
1590(天正18)年 秀吉、関東遠征し北条氏の小田原城を包囲
1591((天正19)年 鶴松が死亡、豊臣秀次は秀吉の養子となり秀吉の後継者として関白になり、聚楽第に住む
            千利休、聚楽第内で切腹(享年70歳)
1592(文禄元)年  秀吉、16万の軍勢で朝鮮出兵
1593(文禄2)年 秀吉に秀頼が生まれる
1594(文禄3)年  秀吉、伏見城の築城を始める
1595(文禄4)年 78日秀次は謀反の疑いで高野山に追放 715日秀次切腹(享年28歳)82日秀次の一族郎党39名処刑
聚楽第を取り壊す
1598年8月18日秀吉死亡(享年61歳)



聚楽第の外郭はほぼ元誓願寺通,堀川通,押小路通,千本通に囲まれる辺りにあったようです。
秀吉によって徹底的に破壊され、建造物は他に移築されてしまっているのではっきりしたことはわかりません。数少ない遺跡から想像される地図です。



 聚楽第跡地地図(上京区堀川下立売北西周辺)
聚楽第地図

聚楽第絵
聚楽第絵4


聚楽第跡の石碑
正親(せいしん)小学校の一画にその石碑があります。
碑


ねねの居間があった場所
(高台院町の町名があります)
ねね宅跡


梅雨の井
梅雨の井戸
梅雨の井とは、聚楽第図屏風に描かれているという井戸の事で、この水で豊臣秀吉がお茶を点てたという伝承が残っています。梅雨時に、井戸の水があふれ出し、あたりを水浸しにしたらしいです。

梅雨の井説明板
井戸板


鵲(かささぎ)橋の石碑
聚楽第の堀にかかっていた橋

橋碑

鵲橋石碑のある松永神社
かささぎ橋碑


聚楽第のあった近辺を表示される場合は
こちらをクリックしてください。



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| 京都 | 11:19 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
上田城(5)東虎口櫓門・真田石
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天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。



東虎口櫓門から城内に入ります。



櫓門の手前から見た空堀。



櫓門をくぐる前、右側の石垣の中に真田石があります。





高さ2.5m、幅3mの城内最大の石です。



真田信之が上田城から松代に移る際、父の形見として持ち去ろうとしたが動かなかったという伝説が残されています。

この楼門は、北櫓と南櫓を繋ぐ門であり、敵を狙撃するための狭間が設けられており、櫓の内部は資料館になっています。







 by shizuka



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| 長野 | 12:25 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
上田城(4)二の丸橋〜 大河ドラマ館
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上田に着いて真っ先に上田城へ向かいました。



自転車を停める場所を探していたら、城跡公園入口に句碑を見つけました。



上田藩士出身で江戸中期に江戸で活躍した加舎白雄の句碑です。



二の丸橋から見たけやき並木歩道



二の丸橋から入城。



すると、上田城真田茶屋が目に飛び込んできます。



ここは後にして・・・

まずは、大河ドラマ館から見学です。



ドラマ館は旧市民会館を活用して整備されました。

館内には戦国歴史年表、上田合戦、大坂の陣、真田信繁が生きた時代の解説があり、セットや大道具、小道具など美術の世界、ロケ風景やメイキング映像を上映する真田丸シアター、衣装や甲冑、出演者のサイン入り色紙などが展示されています。

「真田丸」モデルの甲冑


撮影OKなところは、ここ一か所のみです。

時間によって変化する館内のライトアップにも注目!

上田大河ドラマ館
2016年1月17日(日)〜2017年1月15日(日)9:00〜17:00
上田城跡公園内(旧市民会館ホール) 長野県上田市二の丸1-2
入館料:大人600円、小・中学生300円、団体(20名様以上)大人480円、小・中学生240円


by shizuka



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| 長野 | 16:23 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
岡崎城(2)龍城神社
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元亀元年(1570)、徳川家康は本拠を浜松に移し、嫡男・信康を岡崎城主としました。

天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。

天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣・田中吉政が城主となりますが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名に守らせました。

現在、天守閣は、2階から4階までが江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっています。





5階は展望室となっており、三河平野を一望することができます。



家康はいつも、この天守閣から北に見える徳川家菩提寺の大樹寺を拝したといわれています。



木々の間に大樹寺がちらっと見えます。









龍城神社


岡崎城の跡地に鎮座する龍城神社(たつきじんじゃ)は、東照宮の一つです。
三河国守護代・西郷稠頼が岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて天に去っていたので、以降、天守に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と称したという伝承があります。

1543年(天文12年)岡崎城で、家康が誕生した際にも金色の龍が現れたといいます。

1624年〜1643年(寛永年間)家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀りました。

後に本多忠勝を合祀し、大正三年県社に昇格、神饌幣帛料供進神社に指定され、岡崎市の中心神社として崇敬されました。

三河武士のやかた


三河武士の源流から家康の祖松平氏の歴史と家康の75年の一生をテーマ別にし、時代順に展示しています。

忠勝が愛用した槍・天下三名槍と呼ばれた槍の1つ、蜻蛉切のレプリカがこちらに展示されています。

by shizuka



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| 静岡 | 11:08 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
岡崎城(1)本多忠勝の像
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岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、徳川家康の生地です。

別名「龍城」。

1452年(享徳元年)または1455年(康正元年)龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。

1531年(享禄4年)松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。

1542年(天文11年)城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。

存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となりました。

現在は本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、岡崎公園として整備され、天守などが復興され、市民の憩いの場になっています。









からくり時計




ここには、さまざまな家康の銅像があるのですが、家康の像以外にも、本多忠勝の像もあります。



伊勢・桑名藩主。三河生。通称は平八郎。

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられています。

兜は、鹿角脇立黒漆塗兜。

徳川家康に仕え、三河一向一揆、姉川の戦、長篠の戦等で戦功をあげました。

忠勝は娘の稲姫(小松殿)を徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁がせました。
この婚姻については、対立抗争を続けていた徳川家康と真田昌幸が、豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを機に、両家の関係を緊密にするためだったといわれています。

また、この婚姻自体が秀吉の意向によるものという説もあります。

by shizuka



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| 愛知 | 11:55 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
駿府城
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徳川家康は、1585(天正13)年、松平家忠に駿府城の築城を命じ、翌年浜松城から移り、1589年に完成させましたが、翌年江戸に転封となり、中村一氏がかわりに城主となりました。

その後、江戸幕府を開いた家康は、1605(慶長10)年、将軍職を2代秀忠に譲り、駿府に移り住みました。駿府を大御所政治の中心に位置づけ、1607(慶長12)年、家康は、天下普請として諸大名を動員し、駿府城の大改修を行いました。
輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸、二の丸、三の丸からなり、5層7階の天守を配置した平城です。
家康在城時の駿府の町は、江戸と2元政治が行われていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄しました。

家康の死後、1624(寛永元)年、城主となった秀忠・江の次男・忠長が城主となり、55万石を領しましたが、家光との確執に敗れ、改易されてからは大名は配置されず、駿府城は城代の管理となります。

1635(寛永12)年の火災により、天守等の殆どの建物が焼失してしまいます。
櫓、門等の建物は再建されましたが、天守は再建されませんでした。

明治時代になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となりました。

戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され,また近年、二の丸巽櫓、東御門が復元され一般に公開されています。













東御門は、は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形門で、要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等を持っています。東御門の前が安藤帯刀の屋敷であったことから「帯刀前御門」、また、台所奉行であった松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。

慶長年間に築かれた東御門は1635(寛永12)年に天守閣、本丸御殿、巽櫓などと共に焼失し、寛永15年に再建されました。
現在の復元建物は、この寛永年間再建時の東御門・巽櫓の姿を復元したものです。

巽櫓は、駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位 置することから「巽櫓」と呼ばれました。駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」(ひつじさるやぐら)もありました。
寛永15年に再建された巽櫓は、安政大地震によって全壊してしまったと考えられています。





なお、この時、2009年の地震により、石垣の一部が崩落する被害を受けていました。





本丸跡付近は公園となり、その中に1973(昭和48)年に建てられた家康像があります。



家康は、1616(元和2)年4月、この辺りで75年の生涯を閉じました。



銅像の横に、紀州から献上された家康手植のミカンがあります。



下に落ちたミカン



天守閣は、1607(慶長12)年12月に焼失、翌年再建されましたが、1635(寛永12)年に再度焼失してしまいました。その姿は不明な部分が多いのですが、天主台中央の独立した5重7階の天守閣を取り巻く天守丸構造をとっていたと推定されています。







二ノ丸堀と本丸堀を結ぶ二ノ丸水路の北東側には二ノ丸御殿と台所があったことが、発掘調査で確認されています。





現在は、北門にかけて、城郭の大名庭園を模した紅葉山公園になっています。







紅葉山というだけに、秋になれば、見事な紅葉が見られることでしょう。


(駿府城HP、「静岡県の歴史散歩」参照)

さて、真田昌幸と駿府との関係は・・・

天正14年(1586年)11月4日、豊臣秀吉の命令で、昌幸は家康の与力大名となりました。

同15年(1587年)3月18日、昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し、その後大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となりました。

by shizuka



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| 静岡 | 11:55 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP