大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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林泉寺〜上越市
JUGEMテーマ:大河ドラマ


春日山の麓に、越後国守護代・長尾氏およびその後裔である上杉氏の菩提寺「林泉寺」があります。
明応6年(1497)上杉謙信の祖父・長尾能景が亡父の17回供養のため創建しました。

上杉謙信はここで六世天室光育大和尚に学問を学び、さらに七世益翁宗謙大和尚に禅の教えを学んで悟りを開いたと言われています。
謙信の「謙」は、宗謙大和尚の一字を頂いたものです。


謙信が寄進した山門
残念ながら江戸時代末に地震により消失したため、大正時代に再建されました。


謙信が山門に掲げた大額「春日山」「第一義」



これも再建されたもので、謙信が揮毫したとされる大額は宝物館にあります。

本堂


境内


ハスが綺麗に咲いていました。


本堂の横から、謙信のお墓へと続く道があります。


謙信のお墓
謙信の遺骸は、甲冑を着せて甕に納めて葬られたと伝わります。
その後上杉家の転封に伴って米沢に改葬されたそうです。


川中島戦没者の供養塔


宝物館には、上記の謙信直筆の大額の他、生前に描かれた肖像画、軍旗、毘沙門像など、ゆかりの品々が展示されていました。
 

また林泉寺入口のすぐ横にある惣門は、春日山城の搦手門を移築したものと伝わります。
春日山には建物が何も残っていないので、これが現存する唯一の建築物です。


・・という事は・・・
春日山城で人質生活を送った真田信繁もこの門をくぐったのでしょうか。


        by  めりい






 
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春日山城〜上越市
JUGEMテーマ:大河ドラマ



春日山城は、戦国時代の名将・上杉謙信の居城です。
国の指定史跡であり、日本百名城にも数えられています。

もともとは越後守護・上杉氏の要害として春日山に築かれたものですが、現在のように広大な城に整備されたのは上杉謙信・景勝の時代と言われています。

複雑な自然の地形を巧みに利用した堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城といわれました。

春日山城大手道から山頂を目指しました。
 

ひたすら登っていくと、南三の丸を過ぎた辺りに、上杉謙信の重臣・柿崎景家の屋敷跡がありました。
柿崎景家といえば、川中島の合戦で「車懸かりの陣」の先鋒にたって武田本隊に襲い掛かって来た猛将です。

 

さらに南二の丸を過ぎ、上杉景勝屋敷跡に到着。
この辺り一帯に、尾根を巧に利用した大規模な屋敷がありました。


こんな急勾配を登ります。
 

急勾配を登りきった所に大井戸がありました。
覗くと、今なお満々と水をたたえているのが見えます。
西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理で水が湧くそうです。


ここは本丸の裏側です。
敵の侵入を防ぐために急斜面になっていて、登ろうとすると油を流したように滑るので「油流し」と呼ばれました。

 
やっと山頂に着きました。
本丸の南隣に天守閣があり、本丸と合わせて「お天上」と呼ばれたそうです。



ところで、武田氏遺領をめぐって、北条・徳川・上杉の三者で争いが発生すると、真田昌幸は自らの所領を守るために巧みな外交術でその間を渡り歩いていました。
しかし突然、北条と徳川が和睦。
しかも真田の沼田領も北条に譲ると決められてしまって、徳川と真田の関係は一気に悪化しました。

昌幸は、上杉に臣従してその援護を要請し、徳川と戦うことになりました。
その際に真田信繁は人質として春日山城に置かれました。



本丸の標高は180m、街並みが一望できます。
ドラマの中で、信繁と景勝が、春日山城の望楼に登って直江津の港を遠望するシーンがありましたが・・

私が撮った写真はその逆方向でした^^;



さて、上りはここまで、これからは下ります。

本丸から下ってすぐに毘沙門堂がありました。(再建されたもの)


この他にもいくつかのお堂跡がありました。
謙信公の信仰の深さが偲ばれます。


そしてまた、少し下ると、直江兼続の屋敷跡があります。


本丸を取り囲むように沢山の屋敷群があったようで、いかに春日山城が大きかったかが分かりました。


そして中腹まで降りてくると、謙信公の銅像がありました。


この辺りは大勢の人で賑わっています。
私は大手道から登って山頂の本丸に行き、そして下って来たのですが、ほとんどの人はここから本丸に向いて登って行くようです。




春日山城は自然の地形を活かした郭、空堀、土塁などが無数に築かれていますが、私が目にして感動したのが・・

この「空堀」です。

私の背丈を超す高さで、すごい迫力がありました。
写真ではうまく表現できなくて残念です。

      by めりい



 


 



 
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| 新潟 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
江戸城 真田濠
JUGEMテーマ:大河ドラマ
江戸城外濠に真田濠(さなだぼり)と名付けられた濠があります。場所は、JR四谷駅南側で、現在上智大学のグラウンドとして使われているところです。
 
徳川三代将軍家光の時代:1636(嘉永13)年に完成した江戸城外濠(延長14K)、その中での江戸城防御の最適の高台がこの真田濠の場所であったと想像されます。そこに、幅90m、深さ14m、長さ1kの濠を開削しました。真田濠の建設を担当したのは、信州松代藩主真田信之[真田昌幸(大河ドラマ役:草刈り正雄)の長男(信繁の兄 大泉洋役)]です。大阪城の真田丸を築いた場所と地形が似ています。外濠造りには、仙台の伊達政宗や米沢の上杉定勝(景勝の息子)など名だたる大名が参加していたようですが、名前がつけられた濠はここだけです。
江戸時代の真田濠は蓮華の花が咲き誇る景勝地でした。
 
真田家は、関ヶ原合戦で父:昌幸と次男:信繁(幸村)は、豊臣方につき、長男:信之は、徳川側につきました。徳川方が勝利したため、信之は、松代藩10万石を与えられ、徳川家康、秀忠、家光、家綱と徳川4代に仕え、戦国時代最後の大名として、1658万治1年に死去しました。享年93歳

 
真田濠 
上智大学グラウンドとして使われています。

 


右:真田濠土手(濠をほった土で造った土手)
左:上智大学
(写真は2014年撮影)
今年の桜は、今から4月上旬が見頃だろうと思われます。



 
土手の上(映画ロケ地 デートスポットです)


 
真田濠の桜並木は、江戸時代からあったのではなく、1959(昭和34)年、上智大学の学生が卒業記念として土手の中腹に60本の苗木を植えたのが始まりで、その後、大学に隣接する料亭・福田家が土手の頂上に100本を植え、現在の桜並木に成長しました。


 
真田濠全景
上智大学グラウンドとして使われており、手前から野球場、ラグビー・サッカー場、テニスコートがあります。グラウンドの一番奥がJR四ツ谷駅です。



 
真田濠は、戦災瓦礫の廃棄場となり、埋め立てられました。戦後財政難の東京都は、真田濠の瓦礫処理費用の提供者に20年間無償供与するとして、上智大学がその条件を了承し、上智大学のグランドとして使用しています。2009(平成21)年の再契約で、2028年まで延長されています。

 
真田濠の場所は こちら


 
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| 東京 | 03:32 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
元城町東照宮
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元城町東照宮(引間城本丸跡)に、徳川家康豊臣秀吉のブロンズの「二公像」が昨年12月にお目見えしたということで、早速出かけて来ました。

元城町東照宮は、浜松城やホテルコンコルド浜松のそばにあります。



明治19年旧幕臣・井上延陵の発起により創建されました。

石の鳥居の横には「曳馬城跡」(引馬城址)と書かれた石碑があります。





こちらは、家康を祭神としている社で、社殿の扉や屋根には三つ葉葵の紋所が見られます。





引馬城の構築された時期については不明ですが、室町時代に吉良氏の家来によって築かれたという記録があるそうです。

1568年、三河から遠江入りした家康は、今川方の拠点であった引馬城を攻め入城しました。

その後、城地を拡大して浜松城を構築し、引馬城の跡には米蔵十数棟が建てられました。

(家康の散歩道の資料より)



元城町東照宮由緒

御祭神徳川家康公 事代主命 大国主命
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏に依り明治十七年
元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本
報徳社に委ねていたが昭和十一年その所有権が井上家より亦管
理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ、その後元城町の
氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和二十年戦災
により焼失せるも昭和三十四年に社殿手水社社務所等を再建し
今日に至る。


手水舎には、日光東照宮にもあるような「眠り猫」「鳳凰」「龍」などが見られます。









家康はわかるけど、なぜ秀吉まで?と思うかもしれませんが、秀吉(木下藤吉郎)は織田信長に仕える前、16歳前後の3年間、曳馬城主の配下の松下加兵衛に仕え、浜松で暮らしたことあるのです。

家康はその後の曳馬城を拡張。後の浜松城の基礎を築いたとされています。

家康像は高さ159cm。





秀吉像は135cm。





天下人2人が出世の足がかりとした場所として、パワースポットとなっています。



ここは、浜松城から歩いて約10分ほどのところにありますので、浜松城見学のついでにお立ち寄りください。
| 静岡 | 20:23 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
上田城〜長野県上田市
JUGEMテーマ:大河ドラマ


昨夜の大河ドラマの紀行は「上田城」だったので、1月に投稿した記事をリメイクします。


天正11年(1583)真田昌幸は、上田盆地のほぼ中央に位置する海士淵(あまがふち)と呼ばれる高台に上田城を築きました。
当時真田氏は徳川氏の配下にあり、信濃の脅威である上杉氏との国境に近い事を理由に、対上杉の城として、徳川氏の力を借りて築城しました。
しかし完成以降は真田氏の本拠となり、皮肉にも、その後二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退して真田の名前を広める城となりました。


上田城のシンボル「東虎口櫓門」




真田石(直径3mの大石)


真田石は、上田城築城の際、真田昌幸が近くに太郎山から掘り出したものと言われています。
後に真田信幸が松代に移封した際に、この石だけは父の形見として持ちだそうとしたが、微動だにしなかったという逸話が残ります。



北櫓・櫓門



櫓の中は資料館となっています。

真田昌幸肖像画
ドラマのイメージとはかなり違いますね(笑)


他にも金箔瓦、上田城古図、復元された金箔鯱瓦、真田昌幸の朱印状、信幸の朱印状や安堵状などが展示されていました。




本丸跡


本丸土塁

本丸の土塁は、北東の角を切り込み、鬼門除けとしています。
これは上田城の特徴の一つで、真田氏の築城当時からの形式とされています。


西櫓
北櫓・南櫓とも明治維新の際の廃城に従って破却されましたが、この西櫓だけは唯一残り、江戸時代初期の城郭建築の遺構として、長野県の県宝に指定されています。



北虎口の石垣




上田城跡公園の中には眞田神社があります。


真田昌幸・信幸・信繁、そして歴代上田藩主を祀っています。


境内にある真田井戸

この井戸には抜け穴があって、城北の太郎山麓の砦や藩主居館跡にも通じていたとの伝説があります。
敵に包囲されても、兵糧の運び入れや城兵の出入りも不自由しなかったそうです。


         by  めりい




 


 
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| 長野 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
浜松城〜浜松市
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浜松城は、家康が29〜45歳の17年間居城した城です。
その間、周りを強大な戦国大名に囲まれながらも戦いに生き延び、そして晩年、天下取りの夢をつかみました。

この城で飛躍を遂げたことから、後に出世城と呼ばれ、江戸時代には自ら願い出て城主を務める家臣も多くいたそうです。


若き日の徳川家康公の銅像


野面積みの石垣




銀明水と呼ばれていたという井戸


天守曲輪


家康公お手植えのみかん


城内の展望室から見た景色


城内地下にある井戸




家康の生涯最大の敗戦となった「三方ヶ原の合戦」は、この浜松城時代でした。
元亀3年11月、上洛をめざす甲斐の武田信玄2万7千が南下してきましたが、それに対する徳川軍は1万2千。
天下に名のとどろく武田騎馬軍団に多勢に無勢で、無残にも敗走することになります。

この時、多くの部下を失い、命からがら逃げかえって来た家康は、その憔悴した姿を像として残し、生涯この敗戦を忘れないようにしたと言われています。

浜松城の一階に展示されていた「家康のしかみ像」

このように、敗戦を繰り返さないように自らを戒め、バネにして生きていく家康だからこそ、後に天下を取ることができたのですね。


また三方ヶ原の合戦から逃げ帰った家康が、鎧を脱いで掛けたとされる「鎧掛松」もありました。





さて大河ドラマ「真田丸」では、家康は真田の宿命の敵としてこれから度々登場することになります。
今はコミカルな家康として描かれていますが、これから先だんだんと怖い家康になっていくのでしょうか。
ドラマの展開が楽しみです。



      by  めりい






 
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| 静岡 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
躑躅ケ埼館跡〜甲府市
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真田昌幸の父・真田幸綱(幸隆)は、甲斐国の武田信玄の家臣であったため、昌幸は7歳で人質として甲斐国へ下り、武田信玄の奥小姓として仕えました。

信玄は昌幸の優れた才能を早くから見抜き、「我が眼」と称して重用したといいます。

甲府駅南口の信玄銅像


長じて昌幸は信玄の母方の武藤姓を与えられ、その才覚と武勇で頭角をあらわして、信幸・信繁が生まれた頃には足軽大将となっていました。

しかし天正3年(1575)の長篠合戦において、真田信綱と昌輝の兄2人が戦死したため、3男であった昌幸が真田に復姓して家督を継ぐ事になりました。
この時昌幸は、29歳になっていました。

昌幸は上田に帰るにあたり、嫡男信幸(10歳・当時は源三郎)を人質として甲府に残しました。
後、源三郎は甲府で元服して信幸を名乗りましたが、信幸の「信」は信玄の一字を賜ったとされています。(諸説あり)



甲府駅前からまっすぐ続く「武田通り」
当時は、格子状に整備された道路に沿って城下町が開けていました。


武田通りの先には「武田神社」があります。



武田神社は大正8年(1919)、武田信玄を祭神として創建されました。





この辺り一帯には、武田信虎・信玄・勝頼の3代60余年にわたる武田氏館がありました。
武田氏館は「躑躅ケ埼館」とも呼ばれ、武田信玄の父・信虎が永正16年(1519)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。
一辺が200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭があり、館の回りには、家臣の屋敷がありました。


拝殿の右には、武具や軍旗など、武田家ゆかりの品々が保存・展示されている宝物館があったのですが、写真はありません。

拝殿の左には、信玄の息女が誕生した時に産湯として使われたという井戸がありました。
「姫の井戸」


また「武田水琴窟」もありましたが、これは江戸時代のものです。



堀と土塁の一部が残っているそうですが、これ?なのでしょうか(-_-;)




武田神社から10分余り歩くと、武田信玄のお墓があります。



信玄は元亀3年(1573)4月12日、三河攻めから甲斐に戻る途上で病没しました。
信玄の死は遺言により3年間秘められ、遺体はひそかにこの地に運び込まれて仮埋葬され、3年後に菩提寺である恵林寺に葬られたとされています。


しかし信玄亡き後の武田氏は衰退の一途をたどり、天正10年、織田信長の甲斐侵攻によって武田氏は滅亡に追い込まれました。
武田勝頼とともに甲府から新府城に移っていた真田信幸の人質生活も、これにより解放されました。

しかし、大河ドラマ「真田丸」では、信幸・信繁はもとより家族全員が新府で人質生活を送っていた事になっていましたが・・
はて?史実はどうだったのでしょうね?




     by  めりい




 




 

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| 山梨 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
典厩寺〜長野市
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武田信玄の異母弟に「武田信繁」という人がいました。
父信虎は嫡男の信玄を嫌い、文武両道に優れた弟の信繁に家督を譲ろうとしたため、信玄が怒って父を甲斐の国から追放するという事件がありました。
しかし信繁は兄信玄に恭順の心を持ってよく仕え、武田家の副将として任務を遂行し、信玄の信頼も大変厚かったと言われています。
そして永禄4年(1561)第4回川中島合戦においても命がけで信玄の本陣を守り、壮烈な討死を遂げたと伝わります。享年37歳。


武田家の家臣であった真田昌幸は、武田信繁の知性、武勇に心酔し、次男に「信繁」と命名しました。
これが「真田信繁」の名前の由来だと言われています。

武田信繁」「真田信繁」二つの名前がややこしいので、武田家真田家を色分けしました。



典厩寺 山門 


そして時は移って数十年後、松代藩主となった真田信之(真田信繁の兄)は、武田信繁を偲び、墓があった寺を「武田典厩信繁」の唐名(中国風の官職の呼び名)をとって「典厩寺」と改めました。
そして寺領5石を与えて手厚く保護し、武田と上杉両軍の戦死者を弔ったといいます。

その思いは代々真田家に伝えられ、この山門も松代藩主3代真田幸道の霊屋を移築したものと伝わります。


 

境内にある武田信繁の墓





武田信繁の首を洗ったという「首清め井戸」




また松代藩主8代真田幸貫は、万延元年(1860)川中島合戦300年を記念して閻魔堂を建立し、甲越戦没者の菩提を弔いました。

閻魔堂の中には、日本一大きいと言われる閻魔大王像があります。

写真だけでは大きさが伝わらないので、私が横に立った時の背の高さを→で描きました。



他にも、境内には近代になって建てられた碑がいくつかありました。

武田・上杉両雄一騎打ちの碑



武田家・上杉両家の石を配置した「懐古の碑」



        by  めりい







 
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| 長野 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
川中島古戦場〜長野市
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北信濃の支配権をめぐって、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、計5回12年にわたって戦闘に及んだのが川中島の合戦です。
中でも永禄4年(1561)9月9日〜10日に行われた4回目の戦いが戦国史上最大の激戦でした。

この時真田昌幸は15歳。
初陣が許され、足軽大将として武田家奉行人に加わったと言われています。




謙信は、8月15日に信州善光寺に着陣すると荷駄隊と兵5000を残し、13,000の兵を率いて妻女山に陣取りました。

信玄はその知らせを受けると、16日に兵20,000を率いて甲府を進発し、24日、茶臼山(塩崎城説もあり)に陣取って上杉軍と対峙しました。

しばらく睨み合いが続きましたが、士気の低下を恐れた武田軍は別動隊を編成し、妻女山に陣する上杉軍を攻撃して山から降ろさせ、これを平野部に布陣した武田本隊が待ち伏せして挟撃する(啄木鳥戦法)作戦をたてました。
昌幸の父・真田幸綱(幸隆)、長兄・真田信綱もこの別動隊に加わっていました。



妻女山山頂


しかし9日、謙信は妻女山から眼下を見下ろし、海津城から立ち上る煙で武田方の戦いの準備を察知しました。



その夜上杉軍は、物音もたてずに、ひっそりと雨宮の渡しから千曲川を渡り、八幡原の信玄本陣を目指しました。

雨宮の渡の石碑


つまり、武田軍別動隊が妻女山に到着した頃には、もぬけの殻だったのです。


10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、武田本隊の目前に迫っていたのは上杉軍13000。
猛将・柿崎景家を先鋒に「車懸かりの陣」で武田軍に襲い掛かってきました。

これには武田軍も驚愕。
本隊8000だけで必死に戦いましたが、信玄の弟信繁や山本勘助など多数の武将が討ち死にしました。


八幡原史跡公園にある「八幡社」


激戦のさなか、手薄となった信玄の本陣に単騎で斬り込みをかけてきたのが謙信です。
放生月毛に跨り、名刀「小豆長光」を振り上げ、床几に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけました。
信玄は太刀を抜く余裕もなく、軍配で凌ぎましたが、腕と肩に傷を負ったといいます。


信玄・謙信一騎打ちの像


謙信に出し抜かれた武田別動隊は、急いで山を下り、上杉軍の攻撃に耐えている武田本隊と合流。

挟み撃ちにされた上杉軍は形勢不利となり、兵を引いて善光寺へ敗走し、越後へと引き上げていきました。

この戦いによる死者は、上杉軍が3000余り、武田軍が4000余りと伝えられます。
どちらも大きな犠牲者を出しながら、明確な勝敗がつかない戦いでした。



ところで一説には、真田昌幸は信玄の奥小姓として14歳ながら初陣を許され、乱戦中、信玄の側を離れなかったとも言われています。
だとすると、昌幸はこの一騎打ちを目の当たりに見たのでしょうか?
はて?史実はどうなのでしょうね?


      by めりい







 


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| 長野 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP