下関市長府にある
乃木希典将軍を祀っている
乃木神社を参拝しました。
地元では学問の神様として知られています。
大正3年(1914年)、希典の郷里の長府に乃木記念会が結成され、希典が幼少時代を過ごした旧家を復元し、幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館としました。
大正8年(1920年)、乃木記念館に隣設して、希典を祀る乃木神社が建てられました。
拝殿
本殿
乃木将軍御夫婦銅像
乃木 希典(のぎ まれすけ)は、日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで知られています。
幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時、文蔵、希典と名を改めました。
嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次の三男として、江戸の長府藩上屋敷(現・東京都港区六本木)に生まれました。
父・希次は江戸詰の藩士であったため、無人は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活し、父に厳しく養育されました。
安政5年11月(1858年12月)、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府(現・山口県下関市)へ下向するよう藩から命じられ、無人もこれに同行し、同年12月(1859年1月)、長府へ転居しました。
元治元年3月(1864年4月)、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、山口県の長府から70km以上離れたおじの
玉木文之進への弟子入りするため、萩まで徒歩で向かったといいます。(玉木家は乃木家の親戚筋でした。)
これは、父が厳しすぎて、父から逃げたかったためともいわれています。
しかし、文之進は、源三が父の許可なく出奔したことを許さず、「武士にならないのであれば農民になれ」と源三の弟子入りを拒絶しました。
しかし結局、源三は玉木家に居候することを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。
元治元年9月(1864年10月)から、源三は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなりました。
慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、、萩から長府へ呼び戻され、源三は長府藩報国隊に属し、小倉戦争に加わり、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げました。
明治3年、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官となり、明治4年、大日本帝国陸軍の少佐に任官されます。
明治4年12月、正七位に叙された源三は、名を希典と改めました。
明治8年、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉に赴任。不平士族の反乱に呼応する可能性があった山田頴太郎(
前原一誠の実弟)が連隊長を解任されたことを受けての人事でした。
連隊長心得就任後、実弟の
玉木正誼(たまき まさよし。文之進の実子・玉木正弘が御楯隊員として功山寺挙兵に参加し、元治2年1月21日絵堂の戦いにて戦死したため玉木家の宗家である乃木家から分流の玉木家へ養子に出された)が、しばしば乃木の下を訪問し、前原に同調するよう説得を試みましたが、乃木はこれに賛同せず、山縣にこれを通報しました。
1876年(明治9年)、福岡県で秋月の乱が起きると、乃木は、乱を鎮圧。
この直後、山口県で
萩の乱が起こり、弟の正誼(明治7年、文之進の甥であり、吉田松陰の兄にあたる杉民治の長女豊子の婿養子となる)は反乱軍に与して戦死し、玉木文之進は自らの門弟の多くが反乱軍に参加したことに対する責任をとるため自刃。
萩の乱に際し、乃木が麾下の第14連隊を動かさなかったことに対し、陸軍大佐・福原和勝は、乃木に書簡を送り、秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず、大阪鎮台に援軍を要請した乃木の行為を非難しましたが、乃木は、小倉でも反乱の気配があったことなどを挙げて連隊を動かさなかったことの正当性を説明したといいます。(Wikipediaより抜粋)
乃木将軍愛馬「壽号」像
乃木旧邸
乃木邸
梅井
宝物館
by shizuka
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