下関の
引接寺は、永禄3年(1560)に一徳和尚が豊前国の黒田村より移設した寺院です。
慶長3年(1598)、小早川隆景の遺言で、隆景の菩提寺として再興しました。
慶長12年(1607)から文化8年(1811)の204年間に、12回朝鮮通信使が日本に派遣され、朝鮮通信使の宿泊所となりました。
1769年に長府藩第9代藩主・毛利匡満によって再建された三門は下関市指定文化財となっています。
明治28年(1895)日清講和条約の為に来日した清国全権大使、李鴻章一行の宿舎となりました。
昭和20年(1945)戦災により本堂、庫裡を焼失しますが、三門、鐘楼のみ残りました。
平成8年、本堂、庫裡が再建されました。
本堂
引接寺の墓所には、
入江和作(後の
野村靖)の墓があります。
天保13年(1842年)、長州藩の下級武士(足軽)の次男として生まれ、兄に入江九一、妹にすみ子(伊藤博文の最初の妻)がいます。
兄が、入江氏を継承したため、野村氏を継承。
吉田松陰の松下村塾に入門し、尊王攘夷に傾倒。
老中・間部詮勝の暗殺計画が露見して兄と共に投獄されたり、文久2年(1862年)にはイギリス公使館の焼き討ちに参加。
第二次長州征討でも活躍しました。
和作は、高杉晋作が四国に亡命する際の旅費などを援助したといいます。
三門の天井には、左甚五郎の作といわれる龍の彫刻があります。
この龍には、二つの伝説があります。
その一つは・・・
江戸時代末期、引接寺付近(現在の唐戸地区)は山陽道の起終点でもあったことから、大繁華街でした。その頃のある夜中、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が何者かによって殺されます。番所役人が何度となく調査しても、犯人が見つからないので苦慮しているところ、次々と同じ場所で人が殺されます。奇妙なことに、殺された旅人のふところにはお金が残っており、これは強盗の仕業ではないとすると、鬼か大蛇ではないかとのうわさが広まります。
そんな中、ある勇敢な侍が「それでは拙者がその鬼とやらを退治してやろう」と夜中に引接寺へ出かけます。侍は不意に襲い掛かった怪物を見事早業で切りつけ、怪物はうめき声とともに消え去りました。
翌朝、侍が現場に行ってみると、黒々とした血筋がお寺のほうに向かって流れています。その跡をたどって行くと、ちょうど三門の下で血筋が消えていました。不思議に思った侍が上を見上げると、そこには真っ二つに割れた龍の彫刻が! 旅人達を襲った怪物は、この三門の龍だった、というお話です。(しものせき観光HPより)
もう一つは・・・
「お杉」という萬小間物屋の娘が引接寺の僧「浄然(じょうねん)」という僧に一目ぼれしてしまいます。
お杉は恋文をしたためて浄然に渡しますが、浄然は、仏に仕える身ゆえ、恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。恋文を返されるとお杉はますます浄然に会いたくなり、ある夜、男物の衣裳をつけて引接寺へ出かけ、寺の塀を乗り越えて、浄然の寝所に忍び込み、告白します。浄然も反論しますが、もし一緒になれないならこの場で死ぬといって浄然を説き伏せてしまいます。一方、お杉に熱い想いを寄せていた町奉行は二人のことを知ると、無実の罪をきせて二人を処刑してしまうという話です。
(しものせき観光HPより)
by shizuka
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