大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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小倉口の戦い
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慶応元年(1865)4月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、翌2年6月、周防大島を皮切りに、芸州口(広島県)、石州口(島根県)、小倉口(福岡県)の4ヶ所から長州を攻撃しました。

この四境戦争の中でも一番激戦だったのが、高杉晋作率いる小倉口の戦いでした。

小倉城




奇兵隊・報国隊らおよそ1,000人の長州軍は、小倉に陣を構える20,000人という圧倒的多数の幕府軍に戦いを挑み、高杉の戦略と奇兵隊などの活躍により小倉城下を制圧しました。




幕府軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出すると、小倉藩は自ら城に火を放って敗走し、幼少の藩主は熊本藩へと退避しました。




この戦いで幕府の権威は地に落ち、時代は一気に倒幕へと加速しました。
 

 

 


 


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| 福岡 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高杉晋作ゆかりのひょうたん井戸(下関)
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下関市伊崎町のとっくり小路の民家の間に「ひょうたん井戸」と呼ばれる井戸があります。



慶應元年(1864)、藩内の権力抗争に勝利した高杉晋作は、長州藩の軍備を充実させるために下関開港を企てたのですが、反対派から命を狙われることになり、このひょうたん井戸に一日身を隠したと伝えられています。



え〜〜ここに??

どうやって潜んでいたというのでしょうね〜



 by shizuka



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| 山口 | 08:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
下関の旧赤間関稲荷町
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下関の赤間町には、赤間関最古の神社「末廣稲荷神社」があります。




古来、商家の崇敬が厚く、赤間関の繁栄と守護神として信仰されてきました。




神社には、平安時代の大同4年(809)より、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。







そして神社の麓には「赤間関稲荷町」と呼ばれる遊郭がありました。

江戸時代初めの頃から下関は北前船の寄港地として栄え、その隆盛とともに稲荷町も繁栄し、数々の妓楼、名妓の名と共に、稲荷町の名は全国に鳴り響いたといいます。



高杉晋作の愛人「おうの」は、この稲荷町の裏町堺屋の芸妓でした。
源氏名を「此の糸」、本名を「うの」といい、「三味線師匠」という身でした。

20歳の頃、高杉晋作と出会い、東奔西走する晋作を支え続け、晋作の死後も出家して「梅処尼」となって庵を結び、生涯菩提を弔ったといいます。


また坂本龍馬も稲荷町に足繁く通ったと言われます。
「宮尾」の鬼瓦を切ったとか、稲荷町から朝帰りしてお龍さんに責められたとか・・そんな逸話も残ります。


当時の遊郭は、遊行の場であるとともに政治談義の場でもあったようで、「大阪屋」「油屋」など、幕末の志士たちも多く足を運んだ遊郭が軒を連ねていたそうです。

 






 
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| 山口 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍馬は下関を目指した
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関門海峡を見渡す風光明媚なこの地に「青春交響の塔」があります。





維新発祥の地・下関のシンボルとして、平成15年(2003)に建立されました。




新時代を共に夢見た高杉晋作と坂本龍馬の友情が2本の石柱で表現されています。




坂本龍馬が初めて下関に登場するのは文久2年(1862)。
土佐を脱藩した龍馬が訪ねたのは、下関の豪商・白石正一郎宅であったと言われています。

さらに龍馬が、薩長和解の道を探るため下関に来たのが慶応元年(1865)
小田村伊之助の指示で西之端町(現:下関市南部町)の豪商・入江和作宅を訪れました。

そして翌慶応2年(1866)、薩長同盟の成立という大仕事を成し遂げました。








高杉晋作と坂本龍馬の顔出し看板に書かれているように・・





まさに下関には「新しい時代の幕開けを夢見る仲間たちがいた」のですね。



場所は、JR下関からバスで5分「海響館前」下車
海に向かって徒歩すぐです。



      by めりい







 
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| 山口 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
薩長同盟
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再び藩主・毛利敬親の側近として働くようになった小田村伊之助は、1865(慶応元)年5月、三条実美ら尊攘派五卿に会うため、太宰府の延寿王院を訪ねました。



同月下旬、伊之助は薩長同盟画策のためにやって来た坂本龍馬と出会い、龍馬から薩長和解の重要さを伝えられ
桂小五郎との仲介を頼まれます。

伊之助はこれに応じ、桂と龍馬の間を取り持ち、長州と薩摩の歩み寄るための大事な役割を果たしました。



延寿王院
 安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、宝暦4年(1754)桃園天皇より院号を賜った。
 慶応元年(1865)から約3年間、朝廷を追われた三条実美ら尊王攘夷派の五卿がこの延寿王院に滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬、ら大勢の勤皇の志士達が去来して明治維新の策源地となった。


1866(慶応2)年1月、龍馬の仲立ちにより、桂と西郷隆盛の会談が京の二本松の薩摩藩邸で始まりましたが、会議のなかなか進まず、藩邸から少し離れた薩摩藩家老・小松帯刀邸に場所を移して続けられ、慶応2年1月21日(1866年3月7日)についに
薩長同盟が結ばれました。

二本松邸は同志社大学の敷地となり、現在は、同志社大学今出川キャンパス西門前に、薩摩藩邸跡の石碑が立っています。






此付近薩摩藩邸跡

現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩々邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、5805坪(約1万9千平方メートル)、9棟の建物と多くの土蔵が立ちならんでいた。  
薩摩藩は、鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外様(とざま)の雄藩で、石高は約77万石。幕末に藩政改革に成功してから中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開、ついで長州藩と同盟して武力討幕に転じ、幕末、維新の政局の主導権を握った。藩邸はこうした活躍の根拠地であった。


一条戻り橋を渡ってすぐのところに小松帯刀寓居参考地の碑があります。





当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。
「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。
付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。
応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。
そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。
以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。
江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。
同家御用達商人だった古高俊太郎(桝屋喜右衛門)も出入りしたと推定される。
元治元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。
なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があった。
薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされるため、当邸は有力候補地といえる。
慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性がある。
当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。

歴史地理研究者 中村武生


by shizuka



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| 山口 | 12:35 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
東光寺(萩)毛利家廟所
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続いて毛利家墓所に向かいます。



萩藩主3代毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、
側室など近親者20余基があります。







この鳥居は、神仏習合の名残であり、偉大なる藩主を弔った神聖なる霊域である事を示威したかったのではないかと考えられているそうです。





重臣諸家の献上した石灯籠500基が並んでおり、国の史跡に指定されています。

その一基一基に弔う藩主・夫人の法名と寄進者名・年月日が刻んであり、墓の形式は五輪塔形の大照院のとは異なり、
唐破風の笠石付き角柱(位牌)の形に統一され、法名が刻んであります。

法名が赤字で書いてある墓は、生前に立てられた墓ではないかといわれているそうです。





廟所の入り口を越えると、空気がまったく異なるのを感じました。

廟所内は厳かな雰囲気に満ちています。

by shizuka



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| 山口 | 11:11 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
東光寺(萩)総門〜大方丈
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長州藩の内戦を収めるため、萩では吉田松陰や美和の兄・杉梅太郎(杉民治)らが中心となって和平交渉が進められました。

鎮静会議員は、吉田松陰誕生地近くの萩市大字椿東字椎原にある東光寺に集結し、藩に意見書を提出して、政権交代を求め、藩主・毛利敬親はこれを受け入れることになります。

東光寺は、元禄4年(1691年)萩藩3代藩主・毛利吉就が建立しました。

大照院とならぶ毛利家の菩提寺で、中国の明時代の末から清時代の末にかけての黄檗伽藍様式の寺院です。

元禄6年(1693年)頃建立の総門、元禄7年(1694年)頃建立の鐘楼、元禄11年(1698年)建立の大雄宝殿、文化9年(1812年)建立の三門の4棟の建造物が重要文化財に指定されています。

総門


三門












大雌宝殿


大方丈


by shizuka



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| 山口 | 11:33 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
了円寺(下関)
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下関市上新地町にある了円寺は、元治元年(1864)12月15日、長府功山寺で決起した高杉晋作たちが、新地会所襲撃後にたてこもったお寺です。







本堂の柱には、当時の刀傷が残っているそうですが・・・確認できませんでした(:_;)





 
by shizuka



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| 山口 | 22:15 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
姫路藩の幕末(兵庫県)
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8月9日の大河ドラマでは、1864(元治元)年12月の高杉晋作の下関での挙兵が放映され、討幕の気運が一挙に高まりました。

そんな頃、姫路城で有名な姫路藩の幕末はどんなだったのだろうとしずかさん(当ブログの共同ライター)の情報をもとに調べました。

姫路城は、1567(永禄10)年ころは、黒田官兵衛が城主を務めていました。その後、豊臣秀吉の播磨侵攻の拠点となります。
1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦の功績によって、外様の池田輝政が入府して、現在の世界遺産:姫路城をつくりました。
姫路城
2015年春 平成の大修理を終えて公開された白鷺城

その後、徳川譜代の大名が多く城主を務めます。
1749(寛延2)、徳川譜代の名門:酒井家が城主になり明治維新まで続いていきます。

幕政の重要な立場にいた姫路藩では、幕末でも「徳川の臣として徳川家とともに存亡をともにする」として、幕府側にたって行動していました。そんな中、わずかですが尊皇攘夷派がいたようです。

姫路藩の尊皇攘夷派の行動を示す紅粉屋暗殺事件があります。
1863(文久3)年1月、酒井家御用達の豪商:紅粉屋が暗殺されました。この事件に関わった尊攘派の藩士:河合伝十郎ら70名が捕えられ(甲子の獄)、1864(元治元)年12月26日、処刑されました。(同年12月16日に高杉晋作が下関で挙兵しています。)そして、尊皇討幕運動の芽がつまれてしまい、藩としては、戊辰戦争時も幕府側についた行動をしています。

事件のあった場所は、橋之町
(姫路城東 姫路北高校東辺り)

姫路北高校(姫路城東側)
北高

橋之町(北高東)

橋之町


姫路藩勤王志士終焉之地の碑(大蔵前児童公園内)
志士の碑

碑文


志士8名が葬られた本徳寺
8志士の墓
斬首となった2名の墓
河合伝十郎(享年24歳) 江坂栄次郎(享年23歳)
  
その他70名が、自刃、永牢などの処分をされ、多くが景福寺に葬られました。

本徳寺門
本徳寺門

本堂(相当大きいです)
本堂


紅粉屋暗殺事件で処刑された志士の多くが
埋葬された
景福寺



本堂


本堂裏に墓があってそこに志士たちが埋葬されています。


当寺は酒井家の菩提寺で、姫路藩藩主夫人が埋葬されています
城主の墓は、東京にあります


酒井家墓板


本徳寺、景福寺、志士顕彰碑の地図は 
こちらから

 
| 兵庫 | 11:50 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
萩藩新地会所襲撃
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藩政改革を唱える高杉晋作は、1864(元治元)年12月15日、長府功山寺で挙兵し、まずこの萩本藩の出先である萩藩新地会所を襲撃しました。

下関上新地の厳島神社鳥居の横に碑があります。





厳島神社


平家一門が安芸の厳島神社の分霊をいただいて守護神として戦中に祀っていましたが、壇之浦の合戦後、磯辺に漂着していた神霊を寿永4年(1185)に社殿を建立し、祀ったのに始まるといわれています。
高杉晋作は、1866年(慶応2年)の四境戦争に挑むに当たり、厳島神社において戦勝祈願を行ったといわれています。
(山口県観光情報より)



慶応2年(1866)の小倉戦争の戦利品として、奇兵隊が小倉城から持ち帰った大太鼓が、境内に飾られてあります。







 直径110cm、重量390kgのこの大太鼓は、かつて小倉城内(現北九州市)北側の櫓にあって城下に時を告げていたものである。  
 慶応元(1865)年4月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、翌2(1866)年6月、大島口(山口県大島郡)・芸州口(広島県)・石州口(島根県)・小倉口(福島県)の四境で戦いの火ぶたが切られた。この四境戦争での長州軍の勝利は倒幕への重要な契機となったが、中でも高杉晋作が指揮する小倉口の戦闘は最大の激戦となり、長州軍は奇兵隊・報国隊二隊を先鋒として戦い、ついに慶応2年8月1日、幕軍総師小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。攻め入った長州軍は余燼の中から戦利品としてこの太鼓を持ち帰り、戦勝祈願を行なった厳島神社に奉納したのである。
 現在、維新顕彰並びに小倉戦争の記念行事として、ここ厳島陣屋では毎年8月の第一日曜日に「太鼓祭」を催している。

by shizuka



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| 山口 | 10:46 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP