池田屋事件から10日経った1864年(元治元年)6月15日、
来島又兵衛は遊撃隊を率いて先発し、翌日には、
久坂玄瑞も、真木和泉、入江九一らと御所を目指し、24日に天王山を占拠、別働隊は、伏見と嵯峨野に布陣しました。
久坂の目的は、幕府と戦うことではなく、冤罪を晴らすことでした。久坂は、嘆願書を起草し、朝廷、幕府に差し出しましたが、朝廷も幕府も聞く耳持たずで、一ツ橋慶喜は、7月18日、長州軍に退去を命じました。
これを受けて、筆頭家老の益田右衛門介が陣取る
男山八幡宮の本営で、長州藩の会議が開かれ、幹部およそ20人ほどが集結。
来島又兵衛、真木和泉らは、全軍で御所に進撃し、帝への目通りを願うべしと主張。
久坂をはじめ、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作らは慎重な姿勢を取るべきと主張しました。
久坂は、一旦兵庫まで退き、毛利元徳と三条実美らの到着を待ち、あくまで戦いでなく、話し合いでの解決をすべきと主張。
対する来島は、「医者坊主の分際で何をぬかす!臆病者は、東寺の塔でも上がって眺めていればよい。」と久坂を罵倒。真木も来島に同意し、「進撃」と決定しました。
軍議後、久坂は、入江九一らと淀川の谷水で、別れの水杯を交わしまし、天王山の陣に戻りました。
数年前、
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を訪れました。
石清水八幡宮は京都府八幡市の男山山頂に鎮座する神社で、京都の鬼門(北東)にある延暦寺と対峙して京都の裏鬼門(南西)を守護する神社です。
源氏の
源義家は、石清水八幡宮で元服し、自らを八幡太郎義家と名乗りました。
義家の父である源頼義が石清水八幡宮を河内源氏の本拠地・河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に勧請したのが
壺井八幡宮であり、後に鎌倉由比郷鶴岡(由井若宮)にも勧請し、1180年に源頼朝が現在地に移したのが鶴岡八幡宮です。
また、後白河上皇もたびたび当社に参詣しています。
八幡神は、源氏の氏神として知られ、源氏は全国各地に八幡大神を勧請しました。
明治の初めには官幣大社に列せられ、「男山八幡宮」と改称されましたが、「石清水」の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と改称されました。を勧請しました。
男山の頂まで行きはロープウェイで上がりました。
わずか3分ほどで、頂上に到着。
そこからは徒歩で坂道を登ります。
参道を進み、本殿へ向かいます。
まず目を引くのが参道沿いにある石灯籠です。
形がまちまちで、不揃いなのは初めて見ました。
現在の社殿は、徳川三代将軍・家光によって寛永11年(1634)に造営されました。本殿は八幡造りで、その前には幣殿・舞殿・楼門と続き、周囲を18回廊が囲んでいます。
この時は、本殿は修復中で、仮本殿にお参りすることになりました。
帰りは、数々の史跡を見ながら徒歩で下山。
そして、表参道にある八幡宮の門前名物・
走井餅(はしりいもち)のお店に入ってみました。
元々は、大津で江戸時代に創業した店で、大津の走井という名水を使い、餅や餡を作ったそうです。
それが、大津名物となり、歌川広重の錦絵「東海道五十三次」にも茶店として登場しました。
明治の終わりには、京都の八幡にも支店を出し、八幡名物となったそうです。
こし餡をお餅で包んだお菓子で、お餅がとってもやわらかく、餡はあっさり目でした。
八幡宮にお参りした後は、ここで一服が良いですね
by shizuka
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