萩市土原に
入江九一・野村靖生誕地の碑があります。
入江九一
天保8年(1837年)、長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれ、弟に野村靖(和作)、妹にすみ子(伊藤博文の最初の妻)がいる。
安政3年(1856年)家督を継ぎ、安政4年(1857年)に弟が吉田松陰の松下村塾に入塾するが、九一は家計を支えるため、安政5年(1858年)になって入門した(同年12月に松陰は再投獄されるため、実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎない)。松陰から高く評価され、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。松陰が、老中の間部詮勝暗殺計画を企んだ時、高杉・久坂・稔麿らは猛反対したが、九一・和作兄弟だけは賛成し計画に加担。その際、松陰から、度胸の良さを高く評価されたため、のちに松陰が処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとしたという。
同年、伏見にて藩主拉致して朝廷に誘導し、強引に攘夷を宣言させるという奇策「伏見要駕策」を獄中で思いついた松陰は、無謀な策に反対する久坂玄瑞、高杉晋作ら殆どの門下生に破門状を出し、入江兄弟に実行の指示を出すが、藩に察知されて弟と共に野山獄に投獄された。
翌万延元年、釈放されると、尊皇攘夷活動を開始。下関戦争に参加し、高杉晋作に協力して奇兵隊を結成。
元治元年(1864)7月、禁門の変では久坂玄瑞とともに、参謀として戦ったが、重傷を負い自決した。享年28歳。
(Wikipediaより抜粋)
萩市の
長寿寺に入江家の父母、妻らとともに墓碑が、また木戸孝允・大村益次郎たちによって長州藩内の
桜山招魂場(現在の桜山神社)
京都霊山護国神社、東京招魂社(後の
靖国神社)に護国の英霊として祀られています。
長寿寺(萩市)
桜山神社の桜山招魂場(下関市)
松陰を真ん中に、門下生の墓碑が立ち並ぶ。入江九一(右から三番目)
京都霊山護国神社(京都府)
靖国神社(東京都)
野村靖
兄・九一が入江氏を継承したため、野村氏を継承した。松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒、老中暗殺計画が露見して兄と共に投獄されるが、文久2年(1862年)にはイギリス公使館の焼き討ちに参加。第二次長州征討でも活躍。
明治維新後は、明治政府に出仕し、岩倉使節団の一員として渡欧。各国公使や内務、逓信大臣などを歴任し、明治20年(1887年)に子爵に叙せられ、明治31年(1888年)に枢密顧問官となった。
明治37年(1894年)には第2次伊藤内閣の内務大臣に就任、翌9年(1896年)には第2次松方内閣の逓信大臣に就任している。
晩年は皇室の養育掛長をつとめ、明治42年(1909年)68歳で死去。(Wikipediaより抜粋)
野村靖と夫人の墓碑は、遺言により、東京(世田谷)の
松陰神社にあります。
松陰神社(東京)
野村夫妻の墓
数年前に参拝した東京の靖国神社、松陰神社から先月末に訪ねた萩や下関の神社仏閣、墓所をこの記事で一気に紹介することになりました(^_^;)
by shizuka
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