嘉永6年(1853年)、マシュー・
ペリーが浦賀に来航すると、
吉田松陰は、師の
佐久間象山と黒船を視察し、衝撃を受け、象山のもとに頻繁に通うようになり、海外事業や西洋兵学を熱心に研究。その結果辿り着いた結論は、国禁を冒してでも自らの目で西洋を見るということでした。
同年、足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込んで密航しようとしましたが、イギリスがクリミア戦争に参戦した事から出航が早くなり、密航計画は失敗。
翌年、安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際、松陰は、金子と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に乗船しましたが、渡航は拒否されました。二人の荷物を乗せた小舟が流されたため、松陰は幕府に自首しました。
松陰は、江戸の伝馬町獄へ護送される途中で、高輪
泉岳寺の門前を通り、ここに埋葬されている
赤穂義士に想いを馳せて、
「
かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
という詩を詠んでいます。
(こうすれば、こうなることはわかっているのだが、日本のことを考えたら、やむを得なかった。)
中門
山門
伝馬町獄に投じられた松陰は、死罪を覚悟していましたが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されました。
実家での蟄居を命じられ、萩へ送り返されたのですが、長州藩の意向で、自宅謹慎ではなく、士分の身分を収容する野山獄に幽囚されました。
足軽の金子は、百姓牢の岩倉獄に投獄され、苛酷な獄中生活の中、翌安政2年に病死しました。
その悲報を聞いた松陰は、「渋木生を哭(こく)す」(渋木は当時の金子の変名)と題する詩を作り、金子の死を悼んだといいます。
by shizuka
お城・史跡 ブログランキングへ
FC2ブログランキング
応援のクリックお願いします。m(__)m