大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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長政ゆかりの水鏡天満宮

水鏡天満宮は、繁華街・天神のオフィスビルの谷間に建ち、学問の神様・菅原道真を祀っています。



道真が大宰府に左遷される道中、博多に上陸した際、 今泉にある四十川(現在の薬院新川)の水面に自分の姿を映し、憔悴した自分の姿を見て、嘆き悲しんだとされ、名がついたと言われています。

「天神」とは菅原道真のことを指し、福岡の「天神」の地名は、この天満宮の移転に由来します。



慶長17年(1612年)福岡藩初代藩主・黒田長政によって「水鏡天満宮」として福岡城の鬼門にあたる現在の地に移転されました。



ここに着いた時、すでに日が暮れ、↑のような怖い写真になっています(^_^;)

by shizuka



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| 福岡 | 22:52 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
彦根のゆるキャラ



彦根のゆるキャラと言えば、「ひこにゃん」が有名ですが・・





石田三成をキャラクターにした「いしだみつにゃん」もありますよ。






また、島左近をキャラクターとした「しまさこにゃん」も・・







そして、石田三成の朋友「大谷吉継」をイメージした「大谷にゃんぶ」も。






「大谷にゃんぶ」は後ろ姿なので、正面から撮ると・・・・

お目々をつむってますね。目が見えないようです。







ゆるキャラは、しぐさが可愛いですね。







関ヶ原で敗れた武将たちも、今ではこんなゆるキャラとなって皆から愛されています。










 

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| 滋賀 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
宗安寺の赤門



彦根城大手橋から夢京橋キャッスルロードへと歩くと、朱塗りの山門が見えてきます。

この宗安寺の山門は通称「赤門」と呼ばれ、佐和山城表門を移築したものと伝わります。





騎馬のままでくぐれるように高く、また駆け込めるように敷居もなく、たしかに城門の名残があります。

元禄時代の彦根大火でも唯一焼け残り、移築した当時のままの姿を留めていたのですが、平成8年に道路拡張のため390年ぶりに移動したそうです。






移動した赤門の下にあった当時の礎石も、このように保存されています。






宗安寺は、彦根藩初代・直政が上野国から移した浄土宗のお寺で、本尊の阿弥陀如来は大阪夏の陣の際に大阪城から持ち出された淀殿の念持仏とされています。

また三成が、亡き母の菩提を弔うために建立した瑞岳寺に祀ってあった地蔵尊と千体仏も安置されています。



本堂は彦根大火で焼失の後、長浜城御殿を移築・改造して、元禄15年(1702)に再建されました。





平成9年(1997)の大改修の時に、再建当時の鬼瓦が本堂から降ろされ、境内に展示しています。







境内墓地には、大阪夏の陣で井伊軍と激戦の末に戦死した木村重成の首塚があります。




木村重成の母が豊臣秀頼の乳母であったことから、重成は幼少の頃から秀頼の小姓として仕え、長じて豊臣家の重臣となりました。

大阪冬の陣では後藤又兵衛とともに勇猛果敢に戦って全国にその名を広めました。

夏の陣でも圧倒的多数の敵陣に向かって突撃したのですが、奮戦むなしく井伊軍に破れ戦死しました。

首実検のあと、井伊家家臣の安藤重勝が密かに彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたと伝わります。








 


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| 滋賀 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
清凉寺の七不思議


佐和山の西側麓には、初代彦根藩主井伊直政公の墓所として開基され、以来、井伊家代々の菩提寺となった「清凉寺」があります。


石田三成の時代、ここには三成の家老・島左近の屋敷がありました。

左近・佐和山城と並び、三成に過ぎたるものとして謡われた百間橋は、この左近の屋敷前から松原内湖に架けられていました。





本堂




客殿





禅堂




禅堂内部




清凉寺には「七不思議」があります(清涼寺のパンフレットより引用)

●うなる門・・・大みそかの晩にうなる門
●晒しの井戸・・・裏山の井戸で、この水に汚れものを漬けておくと美しく洗われる
●血の池・・・佐和山落城の時、生首を洗った池
●黒雲の怪・・・彦根城で武具の虫干しをすると佐和山から黒雲が走り雨を降らす
●ひとり鳴る太鼓・・・不吉な事があると、本堂の太鼓がひとり鳴る
●小姓の出現・・・書院の手洗石は三成時代のもので、暗闇の中から小姓が出てきて水を汲んでくれる
●木娘・・・本堂前にある五百年余りのタブの大木が娘に化ける


娘に化けるという樹齢五百年余りのタブの木がこれです。

島左近邸の頃からここにあったのですね。







井伊家の菩提寺「清凉寺」には、このように佐和山落城にまつわる七不思議が、今も語り継がれています。


 






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| 滋賀 | 00:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
石田三成の佐和山城



彦根市街の北東に位置する佐和山城は、鎌倉時代初期、佐々木定綱の六男・時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりとされています。

佐々木氏が六角氏と京極氏に分かれて対立するとその境目の城として攻防が繰り返され、また京極氏に代わって浅井氏が台頭すると、やはり六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されました。

佐和山城は近江の要衝を守る城として重要視され、信長は重臣の丹羽長秀を配し、また秀吉も堀秀政、堀尾吉晴を配し、天正18年(1950)には石田三成が湖北4郡・19万石を領して佐和山城主となりました。




佐和山城大手口

佐和山城の東側には東山道が通り、東山麓側が城の大手(正面)であったと考えられています。

江戸時代に作成された古地図には、「侍屋敷跡」「町屋跡」「寺屋敷跡」「足軽町跡」などの記載があり、家臣団屋敷や町家が大手に広がっていたと想定されています。

普通は、この大手に城主の居館があるのですが、石田三成の屋敷跡と伝えられる場所は、佐和山の西側にあります。

それについては後述します。





 





佐和山城本丸跡

佐和山城に入城した三成は、当時荒廃していた城を大改修し、山頂に五層の天守を築いたと伝わります。

「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言わしめた城は、果たして五層の天守だったのかどうか、今も謎です。










千貫井戸跡

本丸の東南の方に井戸跡が残っています。

千貫目のお金にも値する貴重な飲水であったので、千貫井戸と呼ばれたそうです。








女郎谷へ。




関ヶ原合戦の二日後、小早川秀明らに包囲され、留守居を守る三成の父・兄らが孤軍奮闘しました。

しかし硝煙櫓に火がかけられ、本丸もろとも炎上。

籠城していた多くの女性が亡くなったと言われています。





このあたりは火の海だったのでしょうね。







関ヶ原合戦後は、井伊直政が藩主となって佐和山城に入りましたが、佐和山城に代わる新たな城郭として彦根城が築城されました。

善政をしいた三成への領民の思慕を断ち切るために佐和山城は徹底的に破壊されたため、遺跡のようなものはほとんど残っていません。


本丸東の隅石








山を越えて西側からみた佐和山城址




麓の龍潭寺に三成像があります。






また三成の屋敷跡の石標もあります。




前述した江戸時代の古地図には、西側に「居館跡」「御殿跡」といった石田三成の屋敷と伝えられる記載があり、また「屋敷跡」「城米蔵跡」「元侍屋敷跡」などの記載もあるそうです。

つまり、東側だけでなく、西側にも
家臣団屋敷や町家があったようです。

これらのことから、佐和山城の大手がある時期に東側から西側に移ったと考えられています。

しかしその時期については諸説の意見があるようです。











 
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| 滋賀 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
観音寺


滋賀県米原市に、「三献の茶」の舞台となった「観音寺」があります。
ここで秀吉と石田三成が出会いました。


観音寺惣門
観音寺




観音寺の住所は米原市ですが、三成の生家・長浜市石田町からは大変近い所にあります。
この観音寺で学問修行をしていた佐吉少年(三成)は、秀吉に見出されて側近として仕えるようになります。



石田三成 水汲みの井戸
案内板


覗いてみたら、今も水がありました。
井戸




観音寺本堂
天台宗の寺院で、この本堂は1715年に再建されたそうです。
観音寺本堂



頭脳優秀な三成は秀吉の下で頭角を現し、行政や外交政策にすぐれた手腕を発揮していきますが、秀吉の没後は黒田長政ら武闘派と反目。

やがて関ヶ原で、徳川家康を相手に天下分け目の大戦へ挑むこととなります。










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| 滋賀 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
官兵衛の最終回 延期へ

NHKは21日、衆院選の投開票日が12月14日に決まったことを受け、同日に予定していたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(総合 日曜 後8・00)の最終回の放送を休止し、1週間後の同21日に延期すると発表した。
BSプレミアムの放送も同日の午後6時からに変更となる。平成以降、大河ドラマの最終回が延期となるのは初めてという。

 過去に大河ドラマが、国政選挙の投開票日と重なった際は、開票特番の放送のため、午後8時からの放送枠を午後7時15分に前倒して放送したケースがある。だが、今回は最終回で通常の45分から拡大版の60分の放送とあって、午後7時からの枠への移動は「ニュース7」があるため難しく、翌週への延期を決めたという。
(デイリースポーツより)

衆院選の投開票日と官兵衛最終回が重なったと聞いて、放送はどうなるのか気になっていましたが、視聴率の問題もあるし、時間をずらすよりも、これが一番良い選択だと思います。
せっかくの名場面に選挙速報のテロップが流れたりすると、興ざめですしね(^_^;)

記事全文

http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/11/21/0007522121.shtml

by shizuka



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| ドラマ | 14:32 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
博多塀と妙楽寺

豊臣秀吉は、九州平定後に陣を置いた筥崎宮(はこざきぐう)で、戦乱で荒れ果てた博多の復興を黒田官兵衛に命じました。

黒田長政により慶長14年(1609年)に建立された筥崎宮の石造一ノ鳥居


小早川隆景により文禄3年(1594年)に建立された楼門

また、博多復興策として、入り江を埋め立てて道をつくる「太閤町割り」と呼ばれる区画整理の他にも、「博多塀」という戦火による焼け石焼け瓦等を塗り込めた、廃材を利用して土塀を作りました。

今でいうリサイクルですね(^_-)

そして秀吉の出した楽市楽座令は、現在の博多の繁栄に繋がりました。

その博多塀を博多の妙楽寺で見ることができました。

妙楽寺の博多塀


この時は、博多塀について知らなかったのですが、ちょっと変わった塀だな〜と思い、シャッターを切りました。

ちなみに、博多塀は、櫛田神社、崇福寺などでも見ることができるそうなのですが、見事に見逃しましたorz

櫛田神社境内に復元された博多塀はこんな感じだそうです。


(福岡市HPより)

妙楽寺へのアクセスは、地下鉄「祇園駅」から徒歩5分。

妙楽寺の山門


臨済宗大徳寺派で、山号は石城山。
正和5年(1316)、大応国師(南浦紹明)の法弟・月堂宗規の開基。
「石城」という名は、元寇防塁にちなむ博多の異称で、元々は博多湾岸の沖の浜にあり、遣明使一行が宿泊するなど対外交渉の一拠点になっていました。
天正年間(1573〜1591)に焼失し、初代福岡藩主・黒田長政の入国後、現在地に移転。




本堂裏の墓地には、三代藩主・黒田光之の息男「黒田左兵衛」、黒田家重臣・竹森新右衛門次貞、博多の豪商・神屋宗湛の墓、博多の貿易商、黒田藩の御用商人で、鎖国の禁を破り長崎で処刑された伊藤小左衛門の墓があります。

黒田左兵衛の墓




竹森石見次貞の墓


黒田二十四騎の一人。
父の清原貞俊は播磨国加古郡の日岡神社の社職で、黒田職隆に仕えた。
次貞も幼くして職隆に仕え、16歳の時に官兵衛に仕える。
数々の功績を認められ、秀吉から赤裏の羽織を拝領したこともあった。
しかし、毛利水軍との戦いで、左手の甲から手首までを斬り割られる重傷を負い、左手が不自由になったが、その功績を惜しまれて、旗奉行を命じられ二百石を拝領した。

神屋宗湛


博多の豪商で、太閤町割りに貢献し、博多を復興させた人です。

また、この妙楽寺は、名古屋名物の「ういろう」の発祥の地でもあります。
元の陳延祐という医者が元滅亡後、妙楽寺を頼って亡命し、彼が調整した「透頂香(とんちんこう)」という万能薬を将軍足利義満に献上したところ、大変苦かったため、口直しに米粉で作った菓子を添えて出していました。その秘法を受け継いだ小田原外郎家が、「外郎(ういろう)」として京都や小田原で売り出して有名になったそうです。



by shizuka



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| 福岡 | 00:00 | comments(9) | - |- pookmark↑PAGE TOP
太宰府天満宮(2)

筑前国に入った黒田官兵衛(如水)は、福岡城内の居館が完成するまでの間、太宰府に移り、太宰府天満宮の境内に隠棲。
草庵をつくり、2年ほどの隠棲生活を妻の光と送りました。

官兵衛の天神様への信仰は深く、戦乱で荒廃した天満宮の境内を造営するなど、太宰府天満宮の復興に尽力します。

如水の井戸




官兵衛が太宰府で過ごしていた際、茶の湯などに使っていたといわれる井戸。
太宰府天満宮の境内、宝物殿の傍にあります。

井戸の裏には黒田家のシンボルともいえる「目薬の木」が植えられています。



如水社


官兵衛を祀った社で別名「山の井社」とも。
昭和63年、太宰府天満宮御神忌1085年御縁祭の齋行を記念して社殿を造営しました。

夢想之連歌(太宰府天満宮所蔵)


慶長7年(1602年)、官兵衛が太宰府天満宮に奉納した連歌。
梅の花が描かれた懐紙に、光、長政、家臣、天満宮の社人とともに詠んでいます。

「松梅や末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡」

14歳で母を亡くし、歌の世界に没頭した経験のある官兵衛は、官兵衛は、文化人を招いて連歌会を開き、太宰府天満宮に連歌を奉納するなど、和歌や連歌に興じるのんびりとした日々を送ったといいます。 

太宰府での日々は、わずかな時とはいえ、戦乱の日々から解放された官兵衛夫婦にとって至福の時だったのないでしょうか。 

参道には、梅にちなんだ焼餅梅ヶ枝餅と呼ばれる餡入りの焼き餅を販売している店が軒を連ねています。







小豆餡を薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼く焼餅で、どのお店も均一料金で販売されています。
どのお店にしようか迷ったあげく、天満宮に一番近いお店にしました。





あっさりした甘さの餡で美味しかったですよ!
お店によって微妙に味が異なるとのことです。時間があれば、食べ比べするのも良いですね(#^.^#)

by shizuka



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| 福岡 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
太宰府天満宮(1)

博多滞在の最終日に宰府天満宮へ行って来ました。

今では、バス1本で乗り換えなしで行けるのですね。

JR博多駅より西鉄太宰府駅まで、1日14便(7往復)の走行があり、運賃は600円です。

途中、福岡空港、太宰府政庁跡を経由して行きます。



約42分で太宰府駅に到着。



ここから太宰府天満宮の表参道を歩いて行きます。



歩いていて目を惹いたのが、木組み構造のスタバ



これも天満宮に合わせたデザインなのですね。

鳥居が見えてきました。





太宰府天満宮は、福岡県太宰府市にある菅原道真を祀る天満宮の一つです。
菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の太宰府に左遷され、延喜3年(903年)にこの地で死去しました。道真がこの地に左遷された時、京都から飛んできたとされる飛び梅の木があるほか、196種、6000本もの梅があり、梅の名所としても知られています。道真が学問に秀でていたことから学問の神様として崇敬を集め、今も大勢の受験生が参拝します。



神牛


道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、その地に遺骸を葬って墓を造ったと伝えられます。
神牛と自分の身体の同じ部分を撫でると病気全快し、神牛の頭を撫でると頭がよくなるそうです。

心字池と神橋


心の字の形をした池に、三つの橋(太鼓橋・平橋・太鼓橋)が架かっていて、過去、現在、未来を表しているそうです。





IMG_8699 dazaifu



手水舎
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楼門


入母屋造り、檜皮葺の二重門。慶長年間(1596〜1615年)に石田三成が再興しましたが明治時代に焼失、1914年に再建されました。

本殿




道真の墓所の上に立っています。



天正15年(1587)年、小早川隆景は、豊臣秀吉から筑前など九州北部に所領を得て、戦乱で荒れ果てていた太宰府天満宮の再興にも尽力し、天正19 (1591) 年に豊臣秀吉の命を受け、本殿を再建しました。

飛梅


本殿に向かって右にある梅の木は、道真を慕って京の都から一夜にして飛んで来たといわれています。

大楠


次に続きます!

by shizuka



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| 福岡 | 01:28 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP