豊臣秀吉は、九州平定後に陣を置いた
筥崎宮(はこざきぐう)で、戦乱で荒れ果てた博多の復興を
黒田官兵衛に命じました。
黒田長政により慶長14年(1609年)に建立された筥崎宮の石造一ノ鳥居
小早川隆景により文禄3年(1594年)に建立された楼門
また、博多復興策として、入り江を埋め立てて道をつくる「太閤町割り」と呼ばれる区画整理の他にも、「
博多塀」という戦火による焼け石焼け瓦等を塗り込めた、廃材を利用して土塀を作りました。
今でいうリサイクルですね(^_-)
そして秀吉の出した楽市楽座令は、現在の博多の繁栄に繋がりました。
その博多塀を博多の
妙楽寺で見ることができました。
妙楽寺の博多塀
この時は、博多塀について知らなかったのですが、ちょっと変わった塀だな〜と思い、シャッターを切りました。
ちなみに、博多塀は、櫛田神社、崇福寺などでも見ることができるそうなのですが、見事に見逃しましたorz
櫛田神社境内に復元された博多塀はこんな感じだそうです。
(福岡市HPより)
妙楽寺へのアクセスは、地下鉄「祇園駅」から徒歩5分。
妙楽寺の山門
臨済宗大徳寺派で、山号は石城山。
正和5年(1316)、大応国師(南浦紹明)の法弟・月堂宗規の開基。
「石城」という名は、元寇防塁にちなむ博多の異称で、元々は博多湾岸の沖の浜にあり、遣明使一行が宿泊するなど対外交渉の一拠点になっていました。
天正年間(1573〜1591)に焼失し、初代福岡藩主・
黒田長政の入国後、現在地に移転。
本堂裏の墓地には、三代藩主・
黒田光之の息男「黒田左兵衛」、
黒田家重臣・竹森新右衛門次貞、博多の豪商・神屋宗湛の墓、博多の貿易商、黒田藩の御用商人で、鎖国の禁を破り長崎で処刑された伊藤小左衛門の墓があります。
黒田左兵衛の墓
竹森石見次貞の墓
黒田二十四騎の一人。
父の清原貞俊は播磨国加古郡の日岡神社の社職で、黒田職隆に仕えた。
次貞も幼くして職隆に仕え、16歳の時に官兵衛に仕える。
数々の功績を認められ、秀吉から赤裏の羽織を拝領したこともあった。
しかし、毛利水軍との戦いで、左手の甲から手首までを斬り割られる重傷を負い、左手が不自由になったが、その功績を惜しまれて、旗奉行を命じられ二百石を拝領した。
神屋宗湛
博多の豪商で、太閤町割りに貢献し、博多を復興させた人です。
また、この妙楽寺は、名古屋名物の
「ういろう」の発祥の地でもあります。
元の陳延祐という医者が元滅亡後、妙楽寺を頼って亡命し、彼が調整した「透頂香(とんちんこう)」という万能薬を将軍足利義満に献上したところ、大変苦かったため、口直しに米粉で作った菓子を添えて出していました。その秘法を受け継いだ小田原外郎家が、「外郎(ういろう)」として京都や小田原で売り出して有名になったそうです。
by shizuka
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