大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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山崎の合戦
 



天王山は摂津国と山城国の境をなし、また西国と東国を結ぶ重要なポイントです。

「天王山」と言えば、「天下分け目の大決戦」の代名詞となっていますが、実際は、天王山の東側の麓・山崎(現:京都府乙訓郡大山崎町)で両軍が激突しました。



 


天正10613日(新暦では1582712日)午後4時半頃、天王山の東側に展開した明智勢が、秀吉軍の先手・中川清秀、高山右近らの諸隊に攻めかかりました。
 

しかし、このあたりには沼地が広がっていたため、斉藤利三、並河掃部ら精鋭を連ねた明智勢の猛攻でも、秀吉軍の先手を崩す事は出来ませんでした。
 

その間、兵力に勝る秀吉軍の池田恒興らが淀川沿いを進撃し、ここを守る明智軍は手薄だったため、伊勢・諏訪氏らは、たちまち苦戦に陥りました。

勝負を決したのはこの淀川沿いの戦いでした。

(天王山案内版より引用)


眼下に広がる両軍の激突地・山崎




当時の陣営図







中腹には「秀吉の旗立松」があります。

 天王山合戦の時に、秀吉は山へ駆け登り、味方の士気を高めるために松の樹上高く軍旗を掲げました。
これを見た羽柴軍は一気に敵陣内に攻め入り、明智軍はその結果、防戦一方になり総崩れになってしまいました。
 人心掌握に長けていた秀吉ならではのエピソードです。
その初代と伝えられる松も明治中頃に朽ちてしまい、今は5代目です。
 (旗立松案内板より抜粋) 


 



三重の塔(一夜の塔)

天王山の麓には、秀吉が本陣としていた宝積寺に建てたという三重の塔(一夜の塔)があります。

これは合戦で亡くなった人の霊を弔うために一夜にして建てたという逸話が残ります。
 





また秀吉は合戦の後、天王山山頂にに天守閣をそなえた居城を築きました。
今もその礎石・土塁・井戸跡などの遺構が残されています。






大阪城へ移るまでの一年間、秀吉はここ「天王山城」を天下取りの足がかりとしました。






 
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| 京都 | 16:43 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
明智軍を阻んだ山岡景隆

近江の瀬田城は、瀬田川東側に軍事上の目的で築城された城で、急がば回れ」の語源ともなったという瀬田川に架かる瀬田橋は、戦国時代は交通・軍事上の重要戦略拠点であり、その瀬田橋のたもとにあった瀬田城も重要な位置を占めていました。

瀬田の唐橋

瀬田城は、永享年間(1429〜1441年)の山岡資広(すけひろ)から、代々山岡氏が城主を務め、山岡景隆は、瀬田橋を守る城主として織田信長からの信頼が厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていたといいます。

天正10年(1582年)本能寺の変で信長を討った明智光秀は、信長・信忠父子の残党追捕を行いました。
さらに、安土城を占拠するため、瀬田橋に軍を進め、山岡景隆・景佐兄弟を誘降しようとしましたが、山岡兄弟はこれを拒否し、瀬田橋と居城を焼き落として明智軍を阻み、居城を焼いて甲賀に退転ました。
これにより明智光秀はいったん兵を引かざるを得なくなりました。

現在は、マンションの前にひっそりと瀬田城址の石碑が立つのみです。





瀬田城跡
壬申の乱以来、源平の戦いなどで重要な地点として瀬田川畔に戦国時代に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房である。
織田信長の命によって、瀬田橋をかけた当時の城主山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と瀬田川で対戦したが力つき自ら城に火を放って甲賀へ引きあげそれ以来廃城となり、今はわずかに石垣を残すばかりである。その後膳所藩の別邸となり禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名づけた。
昭和四十九年 大津市教育委員会
(現地説明板より)


山岡 景隆
大永5年(1525年)、山岡景之の子として誕生。
山岡氏は勢多城を中心とする南近江国を領する豪族。景隆ははじめ六角氏および足利義輝に属していた。なお、浪人していた山内一豊を家臣として召し抱えたこともある。

永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し、近江南部の豪族の旗頭として抵抗した。しかし、永禄12年(1569年)には織田軍の攻撃を受けて大和国柳生氏の領内へ逃亡、一時は松永久秀に人質を差し出しこれに属したが(『柳生文書』)、後に信長に降伏し、その家臣となる。織田家では佐久間信盛隊に配属された。

景隆の信長に対する忠誠心は厚く、また信長も先祖が甲賀出身である景隆の家柄などを顧慮して、甲賀衆の指揮権を与えていたという。元亀4年(1573年)からの信長と足利義昭との戦いでは信長側に付き、槇島城攻めなどで戦功を挙げた。

天正3年(1575年)頃には、上洛の行き帰りに信長・信忠親子が度々、勢多に宿泊するなど、かなりの信用を受けていた様子である(『信長公記』)。天正5年(1577年)の雑賀攻め、天正9年(1581年)の伊賀攻めにも従軍した。

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が死去すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智軍の進軍路を妨害するなど抵抗し、山岡一族は山中へ逃走。羽柴秀吉方に逐一光秀軍の行動を報告し、このために明智軍は安土城に進軍するまでに手痛い被害を受け、また時間的余裕を失ったとまでいわれている。

その後は織田氏擁護の立場から柴田勝家に与して、台頭していた羽柴秀吉と敵対する。
しかし天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると秀吉に降伏。命は助けられたが弟の景佐と共に所領を没収され、以後は甲賀に隠遁した。

天正13年(1585年)正月14日に死去。享年60。墓所は京都市東山智恩寺の養源院。
(Wikipediaより)


山岡氏(山岡隆景の弟)が私の母方のご先祖様だということを知り、ブロガーさん仲間に同行していただき、この城跡に辿り着くことができました。その節はありがとうございました。m(__)m

光秀は6月4日までに近江をほぼ平定し、安土城に入り、信長の金銀財宝を奪い、自分の家臣たち分け与えました。
そして、多くの武将に書状を認め、味方になるよう勧誘しました。

6月7日、安土で勅使の吉田兼和(兼見)と面会し、6月8日に安土を発って京都に帰還しました。

しかし、光秀に味方するだろうと思っていた縁戚の細川幽斎・忠興父子は、誘いを拒絶し、光秀の娘で忠興の正室・珠(細川ガラシャ)を幽閉。
また、友人であった筒井順慶も従うことなく、光秀は孤立無援の戦いになってしまいました。


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| 滋賀 | 00:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
中国大返し
7月27日の官兵衛ドラマは、「中国大返し」でした。

1582(天正10)年6月3日、光秀の放った毛利方への密使を捕らえ、「信長死す」の報を知った官兵衛の頭脳はコンピューターのごとく動き出した。毛利との和睦を急ぎ、「高松城主:清水宗治の首を差し出すだけで、毛利領はそのまま、城兵の命は助ける」と条件をだした。そして6月4日、宗治 湖上で切腹する。
ここからが、秀吉が天下を取るために、官兵衛が仕掛けた大博打です。
主君:信長の弔い合戦を大儀にかかげ、
合戦地の山崎まで200Kを5日間で駆け抜けた 
「秀吉の中国大返し」
のはじまりです。官兵衛軍は殿(しんがり)を務めました。 
ジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギング

中国大返し図


6日、毛利軍が引くのを確認した秀吉は、25,000の兵の撤退を開始する。


7日、姫路城に到着、全ての金銀は武将に、米は足軽に与える。
官兵衛の父:職隆も官兵衛からの連絡を受け、大返しの準備を整える。
姫路城


9日、明石城に到着 
当時の明石の城は、枝吉城で、官兵衛の母:岩の出身城です。


現在の↓明石城(JR明石駅北側)は、江戸時代に建立されたものです。
明石城



11日、尼崎城着、池田恒興、中川清秀、高山右近軍が合流する

尼崎城

12日、富田着、織田信孝(信長三男)参陣で光秀討伐の大儀を得る

13日、秀吉軍36,000対光秀軍16,000が山崎(天王山)で対決する 
 

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| 岡山 | 02:06 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
富田の秀吉本陣・上宮天満宮〜高槻市
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」



JR高槻駅から北に向かって10分ほど歩くと、上宮(じょうぐう)天満宮の石鳥居が見えてきます。
 



この参道にはかつて松並木があり、参道付近にあった「天神の馬場」は、山崎の合戦に向かう秀吉が本陣を置いたところとされています。





天正10年(1582)6月3日、本能寺の変を知った秀吉は、すぐさま毛利との和睦を結び、3日後の6月6日には明智光秀を討つため、2万の兵を引き連れて備中高松を出発しました。

備前沼を経て姫路までの80kmの道のりを1日で駆け抜け、姫路城で準備されていた炊き出しの接待を受けてしばし休息。
しかし早くも2日後の9日には姫路を出発し、11日には尼崎まで進軍し、12日に富田(高槻市)に着きました。




この時秀吉の軍勢は、小早川隆景から借用した毛利家の旗20本と宇喜多家の旗10本をなびかせていたと伝わります。

これは、毛利・宇喜多両家が秀吉に味方して軍勢に加わったと見せかけ、明智方に威圧を与えるとともに、去就を決めかねる周辺の諸大名に対する示威行動でもありました。

これは黒田官兵衛の進言であったと言われています。




また「信長様は生きている」という噂を流し、織田家の武将たちが秀吉に与するように仕掛けました。




これにより高山右近・池田恒興・中川清秀ら摂津衆を取り込み、秀吉軍は総勢4万近くに膨れ上がりました。

備中高松を出発してからわずか7日後の6月13日、秀吉はこの大軍を引き連れて、山崎の合戦に挑みました。


本殿




後、秀吉はこの時の戦勝に感謝して社殿を寄進しました。
しかし残念ながら、平成8年に少年5人による放火で焼失しました。

現在は、日本で初めてといわれる「竹」で造られた本殿が建てられています。










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| 大阪 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高松城主:清水宗治 自刃地 首塚 胴塚
20日「天下の秘策」、信長の死を知った官兵衛は、信長の死をふせて毛利方との和睦を急いだ。

水攻めに合い食料の搬入の道も絶たれた宗治は、秀吉の和議の条件「すぐに和議を結べば宗治の首だけで、毛利領は安泰、城兵5000の命は助ける」を承諾した。
そして、1582(天正10)年6月4日、宗治は小船を浮かべ秀吉から送られた酒肴で最後の盃を交し誓願寺の曲を舞って辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に 残して」
と詠んで46歳の人生を見事に自刃して締めくくった。

官兵衛は、当時36歳。秀吉の軍師として、堤防を築き水攻めをする案、信長の死を知ってからは秀吉に天下への道が開けたと進言して、光秀との決戦のため中国おお返しにとりかかりました。


高松城主:清水宗治公
宗治
 


宗治公自刃地(自刃地塚の後方の山に秀吉の本陣がありました)
自刃地
 
 
宗治辞世の句
浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に 残して
辞世句

 
 
宗治公首塚
首塚

宗治公胴塚
胴塚

胴板

宗治絵


自刃の地
包囲網



ごうやぶ
ごうやぶ

ごうやぶ板

 
| - | 00:37 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
阿弥陀寺

京都市上京区寺町通今出川にある阿弥陀寺は、1555年(天文24年)、清玉上人が近江坂本に創建したのが始まりとされています。
その後清玉上人が織田信長の帰依を得、上京今出川大宮に移転。
本能寺の変の後、信長・信忠の遺骸を持ち帰り、阿弥陀寺に葬ったといいます。
1587年(天正15年)現在地に移転。





 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(1532〜1554)、清玉上人の開創になり、当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭十一ケ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
 清玉上人は織田家と深い親交があり、天正十年(1582)6月2日の本能寺変の折、本能寺等にかけつけ、織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。
 本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等がある。京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもある当寺は、天正15年(1587)、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。         京都市

本堂


信長・信忠・討死衆墓所


信長、信忠父子の墓は同じ場所に並んでいます。

向かって右側が信長、左側が嫡男・信忠の墓

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| 京都 | 11:12 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
京都の南蛮寺跡の碑

京都市中京区蛸薬師通りのビルの一角ある南蛮寺跡の石碑。





織田信長の時代に、耶蘇会(イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町の辺りにあったといわれている。
 戦国末期、京都でのキリスト教布教は永禄二年(1559)から本格化し、永禄四年(1561)にこの付近にも礼拝堂が設けられた。数々の迫害に遭いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。天正四年(1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、七月十六日に献堂式のミサが行なわれた。これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亜上人の寺とも呼ばれた。
 しかし、天正十五年(1587)六月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放例を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されることはなかった。        京都市

現在、ここはビルの駐輪場となっているため、自転車やバイクに埋もれ、撮影しづらい状態にあります。



京都におけるキリスト教の歴史を残す上で貴重な石碑なのですから、石碑の周囲を囲むとか駒札の位置を少しずらすとか何か手立てを考えて欲しいです。

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| 京都 | 12:04 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
本能寺址

実際、信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺は、現在地の寺町御池の本能寺ではなく、当時1582年(天正10)の本能寺は堀川四条の近くにあり、寺地は北を五条坊門小路(現・仏光寺通)、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であったといいます。
その後、本能小学校となりましたが廃校となり、現在は老人福祉施設に。

油小路通蛸薬師に本能寺址の碑があります。











現在、この一帯は宅地化しており、歴史を揺るがす大事件の舞台となった寺の面影はありません。

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| 京都 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
本能寺の変

天正10年(1582年)5月29日、織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の本能寺に入ります。

その頃、信長の嫡男・織田信忠は5月21日にすでに京都の妙覚寺に入っていました。

妙覚寺


京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用するようになっていました。
当時の本能寺は、単なる寺ではなく、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていたといいます。

6月1日、信長は本能寺別院に京都の公家たちを招いて、安土から秘蔵の名物茶器を持ち込んで披露するという盛大な茶会を開催。

同日、1万3000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣、京に向かった明智光秀は、翌2日未明、桂川を渡ったところで、「敵は本能寺にあり」と、自軍に本能寺と妙覚寺への攻撃命令を下したといいます。
これには後世に創作された言葉とする説もあり、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされず、信長の命で徳川家康を討つのだと思っていたのだとも。

光秀軍は明智秀満隊と斎藤利三隊の二手に分かれ、明智軍が信長が宿泊していた本能寺を急襲して包囲。光秀軍1万3000人に対し、わずかな近習とともに奮戦した信長は、やがて脱出は不可能と悟り、屋敷に火を放ち自害。
しかし、信長の死体は発見されませんでした。

嫡男・信忠は、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つために二条御所に移動し、善戦しましたが、やがて追い詰められ自害。二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように家臣に命じ、父同様、その首が明智方に発見されることはなかったといいます。(Wikipedia、日本の100人「織田信長」参照)

室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。
しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。

本能寺




信長公廟






本能寺の変戦死没之諸霊塔


森蘭丸の名前も見えます。



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| 京都 | 00:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
秀吉も参拝した吉備津神社(岡山県)
7月6日の「高松城水攻め」の中で、

信長 「日の本に二つの国王はいらぬ」

この言葉を聞いた光秀の心が大きく動きました。

光秀 「ときは今 天が下知る 五月哉」
   (ときはいま あめがしたしる さつきかな)
   (今こそ土岐(明智)が天下を取る時だ)

光秀 「敵は本能寺にあり」


紀行で紹介された、吉備津神社。高松城攻略のために、秀吉、官兵衛も参拝しただろうと思われます。寺の古文書によれば、城攻めの時の天候は、雨であったと記されています。

吉備津神社(きびつじんじゃ)
吉備津神社

板

階段

本殿
本殿

全景

回廊
回廊



神社には、桃太郎伝説が伝わっています。


矢置岩
鬼退治をするために、大吉備津彦命(桃太郎)が矢を置いた岩。
矢岩

矢岩板


桃太郎伝説通り鬼が住んでいた城があります。

鬼ノ城(きのじょう)
鬼ノ城は、岡山市総社市の鬼城山(きのじょうざん 標高397m)にある山城です。しかし、どの歴史書にも一切記されておらず、その真相は未だに解明されていません。鬼城山にあるため、吉備津神社の桃太郎伝説の鬼の城として伝わっています。
砦

砦

鬼ノ城全景図
鬼が城図

鬼ノ城から吉備津神社方面の景色
合成

矢喰神社(やぐい)
吉備津彦命(きびつひこのみこと 桃太郎)が放った矢と鬼神温羅(きしんうら 鬼)が投げた岩が空中でぶつかり、落ちところと言われています。境内に5個の岩があります。
神社

大食い岩
岩


吉備津神社 鬼ノ城の地図はこちらから
(左上鬼ノ城 中央高松城 右下吉備津神社)
 

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| 岡山 | 02:15 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP