天正10年(1582年)5月29日、
織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の
本能寺に入ります。
その頃、信長の嫡男・
織田信忠は5月21日にすでに京都の
妙覚寺に入っていました。
妙覚寺
京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用するようになっていました。
当時の本能寺は、単なる寺ではなく、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていたといいます。
6月1日、信長は本能寺別院に京都の公家たちを招いて、安土から秘蔵の名物茶器を持ち込んで披露するという盛大な茶会を開催。
同日、1万3000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣、京に向かった
明智光秀は、翌2日未明、桂川を渡ったところで、「
敵は本能寺にあり」と、自軍に本能寺と妙覚寺への攻撃命令を下したといいます。
これには後世に創作された言葉とする説もあり、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされず、信長の命で徳川家康を討つのだと思っていたのだとも。
光秀軍は明智秀満隊と斎藤利三隊の二手に分かれ、明智軍が信長が宿泊していた本能寺を急襲して包囲。光秀軍1万3000人に対し、わずかな近習とともに奮戦した信長は、やがて脱出は不可能と悟り、屋敷に火を放ち自害。
しかし、信長の死体は発見されませんでした。
嫡男・信忠は、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つために二条御所に移動し、善戦しましたが、やがて追い詰められ自害。二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように家臣に命じ、父同様、その首が明智方に発見されることはなかったといいます。(Wikipedia、日本の100人「織田信長」参照)
室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。
しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。
本能寺
信長公廟
本能寺の変戦死没之諸霊塔
森蘭丸の名前も見えます。
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