安国寺恵瓊は安芸国(広島県)武田氏の一族の出身。
毛利元就に安芸竹田氏が滅ぼされた後、出家し、安芸国安国寺に入りました。
安芸国安国寺、備後国・鞆の安国寺の住持を兼ね、使僧として京都と毛利氏の調停にも当たり、天正1(1573)年には足利義昭と織田信長の争いの中、義昭のため奔走し、信長の天下の短いこと。豊臣秀吉の有望さを予言しました。
秀吉の備中(岡山県)高松城攻めの際には毛利と秀吉の講和を進め、その働きから秀吉の信頼を得て、四国平定後は、伊予国(愛媛県)に2万3000石の所領を与えられ、のちに6万石を有する大名となりました。
慶長5年の関ケ原の戦では、石田三成と通じて西軍に与し、毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出しましたが、吉川広家らの裏切りを受け、西軍の敗北となり、石田三成、小西行長と共に京都の六条河原で斬首されました。
六条河原にほど近い下京区の
蓮光寺には、「
駒止地蔵」と呼ばれる地蔵尊が安置されています。
ある時、平清盛が馬に乗って六条河原に辺りに来たところ、急に馬がとどまって進もうとしなくなりました。不審に思った清盛が、土の中を掘ったところ、地蔵尊が出てきました。そのことから「駒止地蔵」と呼ばれるようになりました。
この駒止地蔵は、もとは六条河原の刑場に祀られていたと伝えられ、別名「首斬地蔵」とも呼ばれています。
六条河原は、現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺りの鴨川沿いの河原一帯で、処刑場、首級の受け渡しの場であり、平治の乱の決戦地にもなったところです。
保元の乱における源為義(処刑場所については船岡山、七条朱雀説もあり)、平忠正、平治の乱における源義平・藤原信頼、治承・寿永の乱(源平合戦)では平能宗、本能寺の変における斎藤利三、関ヶ原の戦いにおける石田三成・小西行長・
安国寺恵瓊、大坂の役における長宗我部盛親(蓮光寺の墓地に盛親の墓があります。)・豊臣秀頼の子・国松らがここで処刑され、首級が三条大橋のたもとに晒されました。
負別山と号し、浄土宗の寺である。天台宗真盛派の祖、真盛上人の開基にかかり、もと新町通松原にあったが、のち玉譽和尚がここに移して浄土宗に改めた。本堂の本尊は仏師安阿弥作と伝える阿弥陀如来である。その昔、安阿弥が東国の一僧の求めに応じ、阿弥陀如来を作った。安阿弥自らその会心の作なるを惜しみ、この像を取り戻そうとして僧のあとを追って山科のあたりまで行くと、僧の護持した仏像が自ら二体に分かれたので、二人はその各像を背負って東西に別れたと伝えられる。この本尊はその一体であるといわれ、山号もこれに因んだものである。
境内には平清盛の駒を止めたという駒止地蔵や長曽我部盛親の墓がある。(案内板より)