熊本バンドは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治のプロテスタント派の1つです。
1871年、肥後実学党の献策によって熊本洋学校が設立され、アメリカ人教師
L.L.ジェーンズが招かれました。授業は英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物を行い、すべて英語で行われました。
L.L.ジェーンズ
熊本用学校に招かれたアメリカ人教師ジェーンズが居住していたジェーンズ邸
ジェーンズが、希望する生徒に自宅で聖書を教えるようになると、参加者の生徒がキリスト教を信仰し始め、1876年(明治9年)1月、洋学校の生徒35名は花岡山で集会を開催し、「奉教趣意書」に誓約し、キリスト教結社を組織しました。(花岡山事件)
このように契約によって結ばれた人々をバンドといい、後に彼らは熊本バンドと呼ばれるようになります。
当時の日本はまだキリスト教を受け入れる時代でなく、保守派から大きな批判を浴び、熊本洋学校は廃校、ジェーンズは解雇されてしまいました。
ジェーンズは、襄に手紙で生徒の受け入れを依頼すると、襄は新たに神学科を創設し、彼らを受け入れることにしました。
そして同志社英学校の新校舎が完成した頃、熊本バンドの生徒がやってきました。
その中には、後にジャーナリストとなる
徳富蘇峰こと徳富猪一郎がいました。
しかし、同志社の宣教師デイビスの日本語での授業は、誤訳が多く、また襄の授業も満足のいく内容とはいえなかったそうです。
それに対して、熊本バンドの学力のレベルは高く、同志社の授業への不満が募り、生徒が教師を軽んじるようになりました。
熊本バンドは、同志社を辞めて、東京に向かおうと、当時、大阪洋学校で教師をしていたジェーンズに相談しました。
すると、ジェーンズは、「不満があるならば、まず校長である襄に改革案を出しなさい。」とアドバイスしました。
そう諭された熊本バンドは、同志社に戻り、襄に改革案を示しました。
すると、襄はその案を絶賛し、取り入れてくれることに。
そして、熊本バンド同志社に残ることになりました。
by しずか
お城・史跡 ブログランキングへ
FC2ブログランキング
応援のクリックお願いします。m(__)m