大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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新島襄と耶蘇教
JUGEMテーマ:八重の桜

新島襄は、22才の時、脱藩し、密かに出国。

渡米の際、乗り込んだ船の持ち主のハーディー夫妻らに支えられ、英語、理学を学んだ後、牧師の資格を取得。

そして、キリスト教を徳育の基本とする学校設立の夢を抱いて明治7年11月帰国しました。

その頃、襄は伝統的な考え方の日本女性には見向きもしなかったといいます。

明治8年4月、京都に滞在していたゴードン夫妻の宿を訪ね、覚馬や槇村正直と対面。槇村が、結婚相手について聞いたところ、「容貌の美しさは好みません。亭主が東を向けといったら、三年でも東を向いているような女性はごめんです。」と襄は答えました。すると、槇村は、「ならば」と八重の名を出したそうです。

当時、キリスト教の教えを理解し、西洋の学問に通じる女性を自分の力だけで、見つけることは難しかったでしょうね。
その後、ゴードン夫人が間に入り、二人の交際がスタート。

同年6月から覚馬宅で同居、10月15日に婚約、明治9年1月2日にデイヴィス邸でキリスト教による結婚式をあげました。プロテスタントとして、京都で初のことでした。

ところで、明治初期のキリスト教は、耶蘇(やそ)教と呼ばれていたのですね。
耶蘇は、中国語のイエスを意味するそうです。


 

by しずか

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| ドラマ | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
良心碑
JUGEMテーマ:八重の桜

京都市営地下鉄烏丸線の今出川駅を降りると、京都御苑の向かい側に同志社大学があります。

正門
IMG_9627 B


もとは二本松薩摩邸の跡地で、明治維新後に山本覚馬が購入しました。

IMG_9650 B

IMG_9649 B

明治8年(1875)11月新島襄が旧公家屋敷を仮校舎として同志社英学校を開校。
翌年、この地に校舎を新築して移転しました。

正門を入ってすぐ同志社のシンボルとされる「良心碑」が建っています。
IMG_9629 B

IMG_9628 B

良心碑

「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」
新島襄が最晩年(1889年11月23日)、療養に励む東京から同志社普通学校5年生の横田安止に送った手紙の一節
で、自筆の書体を拡大して刻まれています。

原文は「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ望テ止マサルナリ」。

同志社教育の真髄を示す「良心教育」という言葉はこれに由来するそうです。

1940年11月29日(同志社創立65周年記念)新島襄永眠50周年にあたり、記念事業の一環として建立されました。

裏面には、徳富蘇峰による由来文「新島先生同志社大学運動中東京ヨリ在校の一学生ニ与ヘタル書簡中ノ一節ヲ録ス先生 永眠五十周年ニ際し追慕ノ余門生胥議シテ之ヲ先生故郷ノ産碓氷石ニ勒ス」と刻まれています。(同志社大学HP参照) 


 by しずか

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| 京都 | 23:07 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
同志社英学校開校
JUGEMテーマ:八重の桜

1875年(明治8年)11月、 新島襄が京都の寺町に同志社英学校(後の同志社大学)を開校する。

同志社大学 


教員は、襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒8人。襄初代社長に就任。

J.D.デイヴィス 


1876年(明治9年)1月、洗礼を受け、襄と八重がキリスト教式の結婚。

八重30歳、襄32歳 


襄の両親が京都に移住し、生活を共にする。

同年(明治9年)9月、 山本覚馬から寄贈された今出川校地(相国寺二本松の旧薩摩藩邸跡地)に移転。
この時、熊本バンド約35人が入学。この中に徳富蘇峰もいた。

同年、八重はスタークウェザーと女子塾を京都御苑内のJ.D.デイヴィス邸(旧柳原邸、現京都迎賓館の位置)に開設。 



八重はスタークウェザーは、共に厳格な教師でしたが、互いに真面目過ぎたため、後に衝突することになります。

スタークウェザー 


1877年(明治10年)4月に「同志社分校女紅場」、9月に「同志社女学校」(後の同志社女子大)となり、二条邸跡(現在の今出川キャンパス)に校舎を設けた。

同志社女子大 


八重は、礼法等の教員となり、母・佐久は同校の舎監となった。

同年、覚馬が京都府顧問を解任される。
これは、覚馬が同志社設立に奔走したことを、槇村正直が反感を抱いたからでないかといいます。


 by しずか

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| 京都 | 00:03 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
新島襄の生誕地
JUGEMテーマ:八重の桜

東京都千代田区神田錦町三丁目の学士会館の南側に新島襄生誕地記念の碑があります。



新島襄は、天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれ、七五三太(しめた)と名づけられました。
祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説があります。





新島襄先生 生誕地記念の碑
 京都同志社の創立者 新島襄先生は天保14年(1843)上州安中藩主・板倉伊豫守の江戸藩邸に誕生せられた。先生は幕末における国家多難の際、わが国の前途をうれいキリスト教の信仰と海外事情研究を志して21才(1864年)函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本を体得せられた。母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が『知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め』うるものであり『良心の全身に充満したる丈夫(ますらを)』となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた。留学10年、明治7年(1874)帰朝、翌75年11月29日、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。
 この碑は新島襄先生生誕100年を記念して建てられたが、神田錦町出身の偉大な先覚者をしのび、この解説を掲示するものである。
                         昭和40年11月 
同志社創立90周年を記念して
             錦町三丁目町会 錦華小学校 小川小学校

この学士会館は、昭和3年5月20日建造、国の登録有形文化財で、我が国の大学発祥地の碑もあります。


東京大学は明治10年(1877)、東京開成学校と東京医学校が合併して、この一帯に開設され、明治18年(1885)までに本郷に移転しました。





我が国の大学発祥地
 当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治10年(1877)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。
 創立当所は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は 神田錦町3丁目の当地に設けられていた。
 明治18年(1885)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。
 従って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。
 明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後 東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の 6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名づけられた。
 更に、明治30年(1897)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。
 爾後明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州帝国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。
 昭和22年(1947)に至って、右の7帝国大学はそれそれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。
 明治19年7月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され。その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。
                           平成3年(1991)11月
                                学士会

また、この地は日本野球発祥の地でもあります。


日本野球発祥の地
 この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治5年(1872)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843〜1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌73年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本の野球の始まり」といわれている。76年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。
 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州 ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、71年9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日。77年7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。
 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。
 2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。
 まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。
                  2003年12月 財団法人 野球体育博物館
今まで何回となく神保町には本を買いに来ましたが、これら碑の存在はまったく知りませんでした。
同じ建物の周りに、これだけの碑を見つけると、得した気分になります(#^.^#)


 by しずか

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| 東京 | 11:12 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
八重と襄の出会い
JUGEMテーマ:八重の桜

明治8年(1875年)、前年にアメリカより帰国した新島襄は、大阪の宣教師ゴードン宅に移住。
京都を訪れた襄は、ゴードンを通じて知り合った覚馬と教育論で意気投合します。 



一方、八重は、英語と聖書を学ぶため、京都の木屋町に逗留していたゴードンの元を訪ね、ここで、新島襄と知り合います。 



しかし、最初は、襄が靴磨きをしていたのを見て、ゴードンの使用人と勘違いしていたと。
ある夏の日、八重は兄の屋敷の庭で、井戸の上に戸板を渡し、縫物をしていました。この大胆な八重の姿に惹かれ、襄のアプローチが始まります。

覚馬は、襄の知徳並行主義に共鳴し、京都で学校を開くことを勧め、自分の土地、かつて幽閉されていた二本松屋敷跡(現在の同志社大学今出川キャンパス)校地として斡旋します。
襄は、同志社創立を目指し、ゴードン宅から覚馬宅に移ります。

同年10月に八重と襄は婚約。

しかし、当時、襄のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていたため、京都府は婚約直後に八重は、女紅場を解雇されてしまいます。女紅場にキリストの教えを持ち込もうとする八重を警戒したためでした。


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| 京都 | 00:00 | comments(9) | - |- pookmark↑PAGE TOP
女紅場跡
JUGEMテーマ:八重の桜

明治4(1871)年、八重、母の佐久、みね(覚馬とうらの娘はともに米沢から京都の覚馬のもとに移住します。
覚馬は、妻のうらと離婚。小田時栄の間に久栄が生まれ、覚馬と時栄は結婚します。
同年、京都では日本最初の博覧会が西本願寺で行われました。

明治5年3月(1872年)には、西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会「内国勧業博覧会を開催。外国人観光客もたくさん訪れました。覚馬は、日本で最初の英文ガイドブックを著しました。そして、印刷の際、英語の印字を拾ったのが八重だったそうです。
しかし、覚馬は、この頃脊髄を損傷し、目の不自由に加え、体の自由も利かなくなってしまうのでした。
同年4月、八重は、覚馬の推挙で、出頭女(しゅっとうめ)に任ぜられ、九条家河原町別邸内に設けられた京都府立鴨沂高校前身の「新英学校及女紅場」(後の京都府立京都第一高等女学校、現在の鴨沂高校)で、機織りの先生として働きました。

「出頭女」とは、当時の女性教師のことです。のちに「権舎長兼教導試補」と改称されます。
当学校は、新政府からの産業基立金をもとに設立され、英語を学ぶ英学校と女工(手芸・手工)の二科を置きました。

英学校は、主に男子生徒を対象にし、女紅場では、機織り、裁縫、養蚕、紡績、料理、礼儀作法を学ぶ場でした。
八重は、寄宿生を寝泊まりして監督し、昼間は機織りを教え、自らも英語を学んでいたそうです。
そして、学校でトラブルが起きると、府庁へ行き、槇村正直に直接訴えたとか(^_^;)
こういうところがハンサムウーマンといわれる所以なのでしょう。

河原町丸太町のバス停で降りて、鴨川の方に歩いて行くと、女紅場跡の碑があります。



この碑を訪ねたのは、4月の上旬。

この碑の横を通り、鴨川に降りて行くと、綺麗な景色が広がっていました。



柳、桜、雪柳の組み合わせ!



鴨川散策のついでに立ち寄られてはいかがでしょうか?


 by しずか

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| 京都 | 00:20 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
舎密局跡
JUGEMテーマ:八重の桜

京都市バス河原町二条より200メートルほどのところに、舎密局跡があります。





明治2年(1869年)に大阪、翌明治3年(1870年)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」といいます。
京都府顧問となった山本覚馬は、理化学・工業技術の研究・普及を目的とした施設を立ち上げるため、自分の洋学所に通っていた明石博高(ひろたか)を迎え、京都の近代産業を担う人材を育成しました。
ビール・ガラス・石けんなどの製造研究、多くの技術者を養成しましたが、1881年(明治14)勧業政策転換で廃止されました。
現在は、銅駝工芸高校になっており、駒札が立てられています。

舎密局とはオランダ語の「シエミストリ」(化学)のあて字です。

「舎密」とはオランダ語シェミーの訳語で化学のこと。東京遷都により沈滞した京都の産業を振興する目的で、京都府が設立した理化学研究所である。明治三年(一八七〇)明石博高の建議により府知事槙村正直が仮設立、同六年本建築が落成した。広く受講生を募集し、ドイツ人ワグネルら外人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)、ビール等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及につとめた。また、本格的な理化学の講義は島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果した。明治一四年、槙村知事の転任によって閉鎖、建物も同二八年に焼失し、その後に銅駝校が建てられた。(案内板より)



 by しずか

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| 京都 | 00:50 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
薩摩藩邸跡
JUGEMテーマ:八重の桜

薩摩藩は、京都における藩邸を、錦小路と伏見に持っていましたが、三番目の藩邸として、相国寺南に二本松藩邸を建てました。
明治維新後は、山本覚馬のものとなり、同志社英学校に譲られました。

二本松邸は同志社大学の敷地となり、同大学の今出川キャンパスの門の横に石碑あります。
慶応4年(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦争が勃発。これにより、覚馬は捕えられ、薩摩藩邸にて幽閉されます。覚馬は、この頃、既に失明していたといわれています。
薩摩藩首脳部は、覚馬の優秀さを知っており、決して粗末に扱わなかったといいます。
この幽閉中、覚馬は、同年6月、薩摩藩主に「管見」をを口述筆記して提出。
これを読んだ小松帯刀、西郷隆盛らはますます敬服、一層待遇を良くしたそうです。
明治元年(1868年)、仙台藩邸の病院に移され、岩倉具視の訪問を受け、翌年釈放されました。
現在、同志社大学正門前に、薩摩藩邸跡の石碑が立っています。







此付近薩摩藩邸跡

現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩々邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、5805坪(約1万9千平方メートル)、9棟の建物と多くの土蔵が立ちならんでいた。  
薩摩藩は、鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外様(とざま)の雄藩で、石高は約77万石。幕末に藩政改革に成功してから中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開、ついで長州藩と同盟して武力討幕に転じ、幕末、維新の政局の主導権を握った。藩邸はこうした活躍の根拠地であった。(案内板より)
 


 by しずか

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| 京都 | 00:00 | comments(12) | - |- pookmark↑PAGE TOP
山本覚馬屋敷跡
JUGEMテーマ:八重の桜

「八重の桜」舞台は東北から京都へ。
ドラマに合わせて、今日から京都編をスタートします。

薩摩藩邸に幽閉されていた山本覚馬は、新政府首脳陣・西郷隆盛や岩倉具視らにより建白書「管見」を高く評価され、釈放。明治3年(1870年)、京都府顧問として登用されました。

この頃、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直の顧問として、小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に尽力し、京都鉄道の敷設願書を当局に提出するなど、京都の近代化に貢献しました。

当時、覚馬は、槇村正直の屋敷の隣りに住んでいたとされ、その場所は、今の河原町交差点辺りといわれています。
明治4年には、覚馬の邸に八重、母の佐久、娘のみねが米沢からやって来て、覚馬の側女の小田時栄も同居するという奇妙な生活が始まりました。この時、覚馬は44歳、八重は26歳、そして時栄はなんと18歳だったといいます(@_@;)



向かい側には、京都ホテルオークラがあります。


残念ながら、覚馬屋敷跡の碑などはありませんが、今の京都の姿があるのは、覚馬たちの尽力があったことを忘れずにいたいですね。


 by しずか

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| 京都 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
斗南藩記念観光村〜斗南藩
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青森県三沢市に「斗南藩記念観光村」(道の駅みさわ)があります。

 

明治4年(1871)、新政府によって廃藩置県が行われ、斗南藩は斗南県となり、やがて青森県に合併しました。

翌年の明治5年(1872)、旧斗南藩士・廣澤安任(ひろさわやすとう)と旧八戸藩士・太田広城(おおたひろき)は、イギリス人のルセ−とマキノンを招いて開牧社という会社を作り、牧場を開きました。

これが日本初の近代洋式牧場の始まりで、我が国の畜産業界に大きく貢献しました。

「斗南藩記念観光村」のオープンフィールドには、当時の牧場の様子を再現した馬と人間の像があります。









また、近代洋式牧場を開設した廣澤安任(ひろさわやすとう)と、それを支えた斗南藩士らの偉業をたたえた「先人記念館」があります。










先人記念館の前には「開祖堂」もあります。






「斗南藩記念観光村」には「道の駅みさわ」が併設されていて、広い駐車場と休憩所、トイレなどがあります。

またパターゴルフ場、ちびっこ動物ランド、わんぱく広場など遊戯施設も多くあり、あまりに広すぎたため、目的の「開墾村」が何処なのかが分からず、結局タイムアウトとなってしましました(T_T)

開墾村の外側の写真だけ撮りました。



開墾村は、移住当時の旧藩士の暮らしぶりや当時の開墾の様子をリアルな人形で再現した施設です。



建物の中に入って説明を聞くことも出来たのに・・残念でした(T_T)






同じ斗南藩でも、このように成功した例もあったのですね。





        

                by merry




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| 青森 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP