大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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円通寺〜斗南藩
JUGEMテーマ:八重の桜


次に行ったのは、斗南藩の藩庁が置かれた「円通寺」です。


円通寺。むつ市新町4-11





斗南藩史蹟地 円通寺
明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、全国唯一の移封処分を受け最花の地へ挙藩、流罪となったのです。
ここ円通寺は明治4年2月18日、数え年3歳の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。
現在も容大公愛玩の布袋像などが保存されています。
また同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に開設中の藩学校日新館もここに移されました。
明治33年8月容大公揮ごうによる会津藩士の招魂碑が建てられました。
碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。



容大公揮ごうによる会津藩士の招魂碑
戊辰戦争の33回忌に建立されました。


裏側には碑文が書かれています。



これはこれは〜〜。癒されるキャラですね。


それにしても、藩主である容大公は3歳だったのですね。
その無邪気な藩主を心の支えとして、斗南藩士達は苦しい生活に耐えたのです。


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| 青森 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
斗南藩士上陸の地〜斗南藩
JUGEMテーマ:八重の桜


会津若松城を開城して降伏した松平容保は、死一等を減じられたものの永禁錮となり、家名は断絶、領地も没収となりました。
しかし明治2年(1869)11月には容保の実子・容大(かたはる)のお家再興が許され、陸奥国(青森県)下北半島の斗南藩3万石に移封されました。


青森県下北半島には、今も斗南藩の史蹟が点在しています。



まず最初は「斗南藩士上陸の地」

青森県むつ市の陸奥湾沿いには、旧会津藩士の一団が斗南に上陸して第一歩を記したという場所に「斗南藩士上陸の地」の記念碑が建てられています。




記念碑
碑石は鶴ケ城の石垣にも使われている慶山石で、会津若松市より寄贈されたものです
また周りには、会津若松市の木「アカマツ」が植えられています。




斗南藩士上陸の地
明治2年斗南藩士として再興を許された旧会津藩士の一団が、新潟から海路をたどり見も知らぬ新天地の未来の生活に夢を抱きここに第一歩を記しました。
この史跡はむつ市市政施行30周年記念事業として会津人の心を偲んで設置されたものであります。<案内板より抜粋>






また記念碑は、遠い故郷を懐かしんだ人々の気持ちを慮って、会津若松市を望む方向に設置されています










             by merry




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| 青森 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
五稜郭〜箱館戦争
JUGEMテーマ:八重の桜


鷲ノ木の上陸した榎本艦隊は、人見勝太郎を先発隊として、大鳥圭介、土方歳三らも箱館(現:函館)に向かって進撃を開始し、わずか6日後の10月26日には五稜郭を占領しました。
11月1日に榎本武揚は五稜郭に入城しました。

その後、松前藩攻防も終えて蝦夷地全島が平定されると「蝦夷共和国」が樹立され、12月15日、選挙により榎本武揚は総裁に選ばれました。


五稜郭は「西洋流土塁」と呼ばれる洋式城郭で、城郭の中には和式の奉行所(正式名は箱館御役所)の建物がありました。

私が数年前行った時には奉行所の玄関が保存展示されていましたが、平成22年には箱館奉行所が復元されたそうです。

奉行所の玄関


井戸跡


当時の銃


五稜郭が築城された元治元年(1864)当時より、唯一残っている兵糧庫。
戦災、解体を免れ、平成13〜14にかけて復元工事されました。



五稜郭タワーに上ると、その全景が見られます。


国内では珍しい城郭ですね。


タワー内にある土方歳三の胸像。


しかし「蝦夷共和国」はラスト・サムライの束の間の夢。

翌年の明治2年4月より新政府軍の反撃が開始され、5月11日には土方歳三が戦死しました。

戦死した土方歳三を埋葬したと伝わる五稜郭城内の土塁



そして駐車場の近くには土方歳三の像


5月18日には榎本武揚が新政府に降伏し、箱館戦争は終結しました。

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いより始まった戊辰戦争が、一年半もの月日を経て、ここに幕を閉じたのです。


ちなみに、西郷頼母も箱館戦争に参戦し、捕らえられて釈放された後は各地で強く生き抜き、最後には会津に戻って妻・千重子とともに善龍寺で眠りました。

また松平容保の弟である桑名藩主・松平定敬は、箱館戦争の終結直前にアメリカ船に乗り上海に逃亡しました。しかし路銀が無くなったため横浜へ戻り降伏したそうです。









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| 北海道 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
榎本軍鷲ノ木上陸地〜箱館戦争
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北海道茅部郡森町に「鷲ノ木史跡公園」があります。



明治元年(1868)10月20日、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、旗艦・開陽丸を始め、回天、幡龍、長鯨、神速、鳳凰、回春、大江の合計8艦を率いこの地に上陸しました。

10月とは言え旧暦の事。辺りにには雪が30cmも積り、北西の強風で波は荒れ、暴風雪であったと言われています。


「史跡 榎本軍鷲ノ木上陸地」の石標。かろうじて読めました(笑)




榎本は、江戸城開城後、旧幕臣たちを蝦夷地と呼ばれた北海道に移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策し朝廷に願い出ましたが、それも叶わず、結局、抗戦派の旧幕臣や不満分子たちを乗せ、旧幕府軍の軍艦を率いて江戸を脱出しました。

途中、仙台沖に停泊して東北戦線の支援に当たりましたが、米沢藩、仙台藩、会津藩など主だった藩が次々降伏すると、会津で戦った大鳥圭介、土方歳三、そして松平容保の弟である桑名藩主・松平定敬などと合流して10月12日に仙台を出港し、蝦夷地の箱館(現:函館)を目指しました。

しかし当時箱館は国際貿易港となっていたので、そこでの戦闘を避けるために箱館の北方・内浦湾の鷲ノ木に上陸したのです。

艦隊に乗っていた人数は2000人以上。その中には、会津を追放され、米沢から仙台に駆けつけて乗船した西郷頼母もいました。



そしてここより五稜郭を目指し、人見勝太郎、大鳥圭介、土方歳三が進撃を開始。
わずか6日後には五稜郭を占領することになります。




内浦湾の南には大沼公園があり、駒ケ岳がそびえています。
私がこの地に立ったのは数年前の10月11日の夕方。
もう晩秋の気配が漂っていました。

         
         


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| 北海道 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
会津藩主松平家墓所
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会津藩主松平家の墓所は、初代保科正之公の墓所である猪苗代の見禰山と、二代目保科政経公から九代目松平容保公にわたる墓所がある会津若松市の院内山との2箇所に分かれています。

松平容保公の墓所がある院内山は、会津若松市東山にあり、通称「院内御廟」と言われています。



東山温泉に行く街道沿いに、松平容保公の解説板がありました。



解説板から奥に入ると、墓所へと続く長い参道があります。山一帯が松平家の墓所となってるので、途中いくつかの墓所を見ながら、一番上にある容保公の墓所を目指しました。



急な石段を登り切った所に入峰墓所と呼ばれる所があり、神式埋葬された三代・正容公、五代・容頌公、六代・容住公、七代・容衆公の碑石が並んでいます。
うっそうとした森の中に整然と並ぶ碑石は、荘厳な雰囲気を漂わせています。



そのすぐ左に、九代・容保公の碑石があります。
神式に則って碑石の奥には対の石灯籠、そしてさらに奥には表石が建っています。





松平容保公は、明治維新において幕府側の責めを一身に背負い、最後まで戦った悲運の藩主です。
落城の後は謹慎生活を送り、その後日光東照宮などの宮司を務め、失意と沈黙の日々を過ごして58歳の生涯を閉じました。



院内山の眼下には、会津の町並みが広がっていました。





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| 福島 | 00:00 | comments(10) | - |- pookmark↑PAGE TOP
阿弥陀寺〜会津戦争
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会津若松市七日町には、会津戊辰戦争後の悲惨さを伝えるお寺「阿弥陀寺」があります。



戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺
<前略>明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。
幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には千三百柱にものぼる遺骸が埋葬されました。
春、秋の彼岸には手厚い供養会が行われます。<後略>


心痛む話です・・



会津戊辰戦争で阿弥陀寺の堂宇が消失し、明治3年に会津若松城本丸にあった小天守「御三階」が移築され仮本堂として使われたそうです。
現在も境内南に保存されているそうですが・・残念ながらこの時、知らずにパスしています(T_T)

そして現在の本堂の写真を撮るのも忘れています(T_T)

また昭和初期には大仏様があったそうですが、太平洋戦争で供出され、いまでは台座だけが残っていいるそうです。
すみません・・これもパスしています(T_T)

大仏様があった時代の写真。昔なつかしの光景ですね。




そして境内には、会津戦争で活躍した新選組隊士・斎藤一のお墓があります。
斎藤一は「山口次郎」「藤田五郎」など何度も名前を変え、大正4年(1915)72歳で逝去。
本人の希望により、会津に埋葬されました。

斎藤一(藤田五郎)の墓。妻・時尾もともに眠っています。



死後は会津で眠りたい・・そんな斎藤一の会津を思う気持ちに深い感銘を受けました。


                by merry









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| 福島 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
如来堂の戦い〜会津戦争
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斎藤一は京都で新選組の三番組長として活躍し、その腕は沖田総司、永倉新八と並ぶ剣豪であったと伝わります。

京都での鳥羽伏見の戦いに敗れて後は会津城下に入り、負傷している土方歳三に代わり隊長として新選組を率い会津戦争を戦いました。

会津藩が危機的な状況になっても「今、会津を見捨てるのは義にあらず」として、仙台へ向かう土方歳三ら旧幕府軍と袂を分かち、会津で戦い続けました。

慶応4年(1868)9月4日、斎藤一(山口次郎)が、十数名の隊士とともに如来堂に宿陣していたところ、新政府軍から襲撃を受け、ここで壮絶な戦いが繰り広げられました。



激戦の末、新選組隊士達は全滅したとされていたのですが、奇跡的に斎藤一(山口次郎)をはじめ数名の隊士が乱戦の中を脱出し、生存していたのです。






斎藤一(山口次郎)は、会津藩が降伏開城した後も会津藩士として越後高田に幽閉され、その後も会津藩士らとともに青森に移り、斗南藩士となって苦渋をともにしました。

その後上京して警視庁へ入り、警察官として西南戦争に参戦。
新聞で報道されるくらい活躍したそうです。

また松平容保の仲人で八重の幼馴染の高木時尾と結婚し、3人の子どもをもうけました。





如来堂は、会津若松市神指町にあり、近くに上杉景勝ゆかりの神指城址もあります。



            merry






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| 福島 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
母成峠古戦場〜会津戦争
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猪苗代湖の北東にある母成グリーンラインを走っていると、頂上付近に「母成峠古戦場」の碑が見えてきます。



慶応4年(1868)8月21日、会津若松城総攻撃を決めた新政府軍は、大軍でこの峠に押し寄せてきました。
会津藩は、郡山から会津に入る中山峠や勢至堂峠に主力部隊を置き防御を固めていましたが、攻められたのは一番防御が手薄な母成峠でした。



母成峠の防御に当たっていた会津藩の主力部隊は、会津藩士を始め、旧幕府の大鳥圭介率いる伝習隊や土方歳三率いる新選組などで、その数はわずか800名。
それに対して新政府軍は、板垣退助、伊地知正治率いる主力部隊と土佐藩の谷干城など、合計3000名の大軍でした。
兵力を集中させ、一挙に会津国境を突破しようと攻めてきたのです。



それでも怯まず、濃霧の中、終日戦いが繰り広げられましたが、午後4時過ぎには勝敗は決し、会津藩は猪苗代に向かって敗走することになります。


この時、新選組の土方歳三は仙台に向かい、旧幕臣の榎本武揚率いる艦隊に加わって箱館(現:函館)を目指しました。

一方新選組の斎藤一(会津では山口次郎を名乗っています)は会津に戻り、この後、会津で壮絶な戦を展開することになります。


その記事は次回に・・


       
             by merry







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鶴ケ城(若松城)と荒城の月 (会津若松紀行18)
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 名曲「荒城の月」を知らない日本人はいないくらいに有名な歌ですが、それが若松城で作られたのを今回の会津若松旅行で知りました。歌の意味が分かっていたわけでもないのに、メロデーは自然に出てくる名曲です。

1901(明治34)年に発表され、土井晩翆が作詞、滝廉太郎が作曲しました。



荒城の月碑(鶴ケ城内)
月碑

歌詞
歌詞


碑板

荒城の月の意味が分からずに歌っていましたが、鶴ケ城に来て、そしてこの歌詞を読むと意味が分かったような気になりました。
『栄えていた鶴ヶ城も戊辰戦争で荒れはて、そんなお城を照らす月は、昔も今も変わらない。秋陣営とは、会津藩が城に籠って新政府軍に抵抗したことなんでしょう。』こんな意味だろうと思って歌詞を読んでいました。



土井晩翆像
晩翆



鶴ケ城(若松城)
城




「荒城の月」
1.春高楼(こうろう)の花の宴(えん)  巡(めぐ)る盃(さかずき)かげさして
 千代(ちよ)の松が枝(え)わけ出(い)でし  昔の光いまいずこ

2.秋陣営(じんえい)の霜の色  鳴きゆく雁(かり)の数見せて
 植うる剣(つるぎ)に照りそいし  昔の光いまいずこ

3.いま荒城の夜半(よわ)の月  替(かわ)らぬ光たがためぞ
 垣に残るはただ葛(かずら)  松に歌うはただ嵐(あらし)

4.天上影(てんじょうかげ)は替(かわ)らねど  栄枯は移る世の姿
 写さんとてか今もなお  嗚呼(ああ)荒城の夜半の月

【歌詞の意味】
1.春には、花の下で宴が開かれ、盃が酌み交わされたであろう、しかし、その華やかな様子はなくなってしまった。
2.秋には、城に陣取った軍が剣をかざしていたが、その面影はない。
3.今は、荒れ果てた城に月影がさし、石垣には葛が生えて、松に風が吹きつけるだけ
4.空に輝く月影は変わらないけど人の世の栄枯盛衰は移り変わる、荒れた果てたお城に変わらぬ月影がさす。


作詞作曲の背景
宮城県仙台市出身の土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、そして、
大分県竹田市に住んでいた瀧廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。

このように、晩翆も廉太郎も自分が見聞きした城のイメージからこのような名曲ができたのでしょう。

(参考資料:ウイキペディア)

この名曲も今では、教科書に採用されていません。歌詞が難しくてわからないがその理由のようです。


荒城の月(華之将さん ユーチューブ)
こちらを
クリック


会津若松市観光公社HPは こちらから



会津若松紀行もこの記事で最後です。読んでくださた皆さまありがとうございました。書き手は変わりますが引き続き「八重の桜」の史跡を紹介していきます。よろしくお願いします。 

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| 福島 | 02:55 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鶴ケ城落城 (会津若松紀行17)
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1168年秋、頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。籠城戦で1ヶ月持ちこたえた鶴ヶ城も小田山からの大砲の攻撃でついに落城、1168年11月6日(明治元年9月22日)、会津藩は、新政府軍に降伏した。
そして、降伏調印式が行われたのが城の北側西郷頼母邸と内藤邸に挟まれた道路上でした。 


降伏式が行われた場所
地図降伏式


天守閣から見た右:小田山の西軍砲台
展望



降伏式
中央立っているのが松平容保公 座っているのが中村半次郎(薩摩)
終結絵

終結板



この道路の先、左;西郷頼母邸、右:内藤邸があり、その奥に鶴ケ城があります。西郷、内藤邸の間くらいで降伏式が行われました。
終結道路



最後まで城内で戦った八重は、お城の壁に歌を残しています。

明日よりは いづくの誰かながむらん
    なれしお城に 残す月影

八重鉄砲 八重ポスター

会津は、負けられねえ
ならぬことはならぬ

ならぬ石碑




松平容保の弔歌が飯盛山にあります

幾人の 涙は石にそそぐとも
  その名は世々に 朽ちしとぞ思う

容保絵 容保弔歌

容保歌板



武士道を貫いた会津も敗戦の結果
家老萱野権兵衛(柳沢慎吾)の切腹によって会津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子容大
かたはる 11代目)斗南藩3万石(となみ 青森県むつ市)が与えられました。北辺の過酷な地を目指し、沢山の会津藩士とその家族が会津を去りました。容保は、謹慎生活の後、日光東照宮の宮司となり、失意の日々を過ごして58歳で生涯を閉じました。

(参考資料:Wikipedia 会津若松観光公社HP)


会津若松市観光公社HPは こちらから



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