大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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佐久間象山塾跡
JUGEMテーマ:八重の桜

三日間、東京に出かけて来ましたので、東京の史跡を紹介していきます。

 東京の東銀座の采女橋を渡り、






 采女橋

このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
区では平成2年度に、幻のホテル”築地ホテル館”(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と”銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。

  東京都中央区


「みゆき通り」を有楽町方面に向かって歩いていくと、「でんぱつビル」の脇に、佐久間象山塾跡の案内板があります。

IMG_0282 B

 佐久間象山塾跡

この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811〜1864)の私塾がありました。
象山は初め儒学を修め、天保十年(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永四年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に兵学塾を開きました。嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十〜四十人が学んでいたといいます。
その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。
木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命じられて塾も閉鎖されました。


昔から銀座はよく遊びに来るエリアなのに、これは見逃していました

by しずか

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| 東京 | 12:17 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
江戸東京博物館特別展「八重の桜」
JUGEMテーマ:八重の桜

先日、江戸東京博物館で開催中の特別展「八重の桜」に出かけて来ました。





展示会は、五部構成になっており、

一章は、八重の育った城下町の様子や、会津藩の教えを示す多彩な資料を紹介。

二章は、会津藩上洛、鳥羽・伏見の戦いなど幕末京都の動乱を物語る資料を紹介。

三章は、八重が戦った会津における戊辰戦争の激戦を物語る数々の資料を紹介。

四章は、京都の衰退と近代化の過程で登場した覚馬と襄、そして八重のゆかりの品々を通じて、変革の時代を生きた3人の姿。

五章は、八重の後半生の資料

かなり膨大な資料が展示されていますが、中でも印象深かったのが、孝明天皇が生前、松平容保へ信頼の証として授けた書簡と御製(ぎょせい)、容保が生涯片時も離さなかったという錦の筒です。

21日の放送で、孝明天皇が崩御されたばかりなので、ドラマの内容とオーバーラップしました。

最後に、エピローグとして、容保の孫にあたる勢津子さまの秩父宮殿下への入輿は、旧会津藩の士族の復権に繋がり、朝敵と言われ続けてきた会津の人々を喜ばせたというエピソードが紹介されています。
GW中、ご家族でお出かけになってみてはいかがでしょうか?

平成25年3月12日(火)〜5月6日(月・休)   

江戸東京博物館 1階展示室 (東京都墨田区横網1-4-1) 
 
開館時間 午前9時30分〜午後5時30分
(土曜日は午後7時30分まで) 
*入館は閉館の30分前まで   
休館日 毎週月曜日
※ただし、3月25日(月)、4月29日(月・祝)、5月6日(月・休)は開館 

詳細は↓
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/special/2012/03/index.html

 

by しずか

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| イベント | 00:19 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
京都御苑の疑華洞跡
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江戸時代、京都御所の建礼門の近くに、第111代後西(こさい)天皇退位後の仙洞御所があったといわれています。
 
建礼門


元治元年(1864)禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もあり、ここを仮宿舎としました。


丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち、南には池がありました。


その後、大正大礼前の改良で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。



             by merry





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| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
岩倉具視幽棲旧宅
JUGEMテーマ:八重の桜

 
京都大原まで出かけたので、少し足を伸ばして岩倉まで行ってみました。
岩倉には岩倉具視が幽棲した岩倉邸が保存されています。



岩倉具視は、都の中心より離れたこの場所で薩摩などの諸藩と維新の密議をこらしたといわれています。


ところが・・・


5月末まで休館・・
そう言えば、「八重の桜」の紀行で紹介された時、画面の下にそう書いてあったっけ〜
せっかく遠くまで来たのに・・残念(T_T)

でも諦めずに盗撮しました(笑)






岩倉具視幽棲旧宅
ここは文久2年(1862)9月から慶応3年(1867)までの5年間、明治維新に功績のあった岩倉具視が幽棲したところである。
昭和7年3月「史跡」に指定された。
岩倉具視は幕末の騒乱に際して、公武合体を進め、皇女和宮の将軍家降嫁に尽力したが、倒幕急進派の弾劾を受け、文久2年9月に官職を辞し、西賀茂霊源寺で剃髪し、ここに蟄居した。
慶応3年には維新運動の中心となって活躍し、のち明治新政府の右大臣となった。
現在、幽棲旧宅、文庫、管理人宅の3つの建物がある。
旧宅は西北にあって平屋建茅葺と瓦葺の2棟からなる。
茅葺は玄関座敷で約60平方メートル、瓦葺1棟は居間勝手等で約74平方メートル、具視幽棲時の旧態をしのぶことができる。
旧宅に東側にある文庫には維新志士の遺墨を陳列している。
庭前には具視の遺髪塚とお手植の松がある。



ここは、「床紅葉」で有名な実相院のすぐ近くです。
また秋に紅葉を見がてら、もう一度来る必要がありそうです(笑)



                                              by merry





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| 京都 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
泉涌寺
JUGEMテーマ:八重の桜


幕末、幕府と諸藩、そして公卿の権力闘争のさなか、孝明天皇が突然崩御されました。
病名は疱瘡だったとされていますが、発病からわずか13日の急死は、毒殺ではないかとも言われています。
孝明天皇の葬礼は泉涌寺で執り行われ、御陵も営まれました。

総門
 



泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室とのかかわり深く、「御寺(みてら)」として親しまれています。
仁治3年(1242)の四条天皇をはじめ歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、寺内に御陵が営まれて皇室の香華院(菩提所)として厚い崇敬を受けてきました。

大門



大門を入ると、すぐ左手に楊貴妃観音があります。



仏殿・・応仁の乱で焼失したため、寛文8年(1668)徳川4代将軍家綱公によって再建されました。
本尊は運慶作の「三世三尊仏」と呼ばれ、左の阿弥陀如来は現在、中央の釈迦如来は過去、右の弥勒如来は未来の守護尊として、三世にわたって人類の平安と幸福を祈念しています。
天井の雲龍図、壁画の飛天図、裏堂の白衣観音図は狩野探幽により奉納されたものです。




舎利殿・・内裏の御殿を移築し、上層部を付け足し重層にしています。
天井には狩野山雪による勇猛な鳴き竜が描かれています。





泉涌水屋形



その横に「四条天皇外二十四方御陵参道」と書いた石標があります。


おそらくこの道を行けば、光明天皇の御陵があるのでしょうね。
しかし私はここをパスして雲龍院へ行きました(T_T)


泉涌寺派 別格本山雲龍院 境内中庭



霊明殿 唐門
霊明殿は皇族の位牌堂で、明治元年に孝明天皇や皇女和宮などの援助で建立されました。
内陣には歴代天皇や江戸時代の皇子・皇女の位牌が並び、その中に光明天皇の位牌も安置されています。
但し公開されていません。



徳川慶喜が寄進した石塔



悟りの窓


迷いの窓


次回行く時には、迷わず孝明天皇の御陵へ向かいたいと思います。

反省〜〜〜


                 merry
 




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| 京都 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
京都府庁の桜と京都守護職上屋敷跡の碑
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京都府庁の正門を入ると右側に京都守護職上屋敷跡の碑があります。







「京都守護職上屋敷跡」
幕末京都の警備を命じられた京都守護職は、市中に数ヶ所の広大な屋敷を構えました。
現在の府庁にあたる敷地もその1つで、この敷地は「上屋敷」跡にあたり、度重なる増改築を経て慶応元年(1865)に完成しました。
規模は現在の敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等はたいへん豪華なものだったといわれています。
     
    京都府



ヨーロッパで見るような建築物ですね。

さて、お目当ての松平容保の名のついた「容保桜」は・・・



京都府庁の敷地にはかつて京都守護職上屋敷があったことから、当時の守護職であった、會津藩主 松平容保(まつだいらかたもり)の名を取って「容保桜」(かたもりざくら)と命名されました。
命名は造園家の佐野藤右衛門さん。



が〜ん(@_@;)既に終わっていましたorz



案内板によると

「容保桜(かたもりざくら)」

京都府庁旧本館中庭に、ひときわ異彩を放つ山桜があり、調査を行うと山桜の変異と思われる。特徴として、花弁は五枚であるが通常の山桜より大輪である。花梗が長く、一文字状に咲き、芽出しも茶芽山桜の遺伝子を持ちながら大島桜系の花の要素も出ている。この様に変異し、現状の場所で気品を保ちながら成長したのも何かの因縁かと思われる。現地の京都府庁は、元京都守護職上屋敷の跡地であり、今昔の京都を見続けた場所に、この様な桜が偶然とは言えあるのが面白い。今後も永く府の行政を見続ける様、守り育てたいものである。これらの事情を踏まえて、新しい個体であることが判明したこの桜を、当時守護職の任に当った、松平容保の名を継承し、容保桜と命名する。

  平成22年 春  佐野藤右衛門


気を取り直して、しだれ桜を見に行きましょう!





このしだれ桜は見事ですね!

建物の中に入ると、桜の鑑賞スポットがあり、窓を開けた状態にしてくれてありました。

そこから撮ったのが、このショットです。

しかし、桜の見頃に旅の日程を合わせるのは難しいですね。

来年こそは、容保桜が見たいものです。

撮影日 2013.4.5

※merryさんが取材された京都府庁の記事はコチラをご覧ください!

by しずか

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| 京都 | 10:46 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
京都守護職屋敷正門と橋本左内寓居跡
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京都国際ホテルに京都守護職屋敷正門が残されていると聞き、見に行って来ました。

正面にはそれらしきものはなく・・・

まず目に飛び込んできたのは、「橋本左内寓居跡」の石碑でした。





橋本左内(さない)は福井藩士で幕末の志士。安政5年(1858)2月から4月まで、この地にあった福井藩邸に居住して、活躍した。  左内の号は景岳(けいがく)。福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、医学を学び、藩主松平慶永(よしなが)に認められて藩学明道館の幹事となった。  1857年の藩政改革には由利公正らと手腕を振るった。折から幕府の将軍継嗣(けいし)問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を立てる運動を展開。左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎又は桃井伊織の変名の下に、ここを根拠にして盛んに活躍した。しかし、井伊大老の就任によってこの運動は失敗し、それのみか、左内は牢舎に入れられ、1859年安政の大獄によって死刑に処せられた。時に年26才。

肝心な門の場所がわからないので、ホテルの人に尋ねてみると、裏の駐車場にあるとのこと。
ロビーを通って裏側に出ると、京都守護職屋敷から移築された門がありました。







ホテルの一部として使われているのは、歴史を残すという点で、良いことですね。
ただ、ここにも案内板が欲しいものです。
何だか知らずに、駐車場を通り過ぎる人も多いのでは?




by しずか

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| 京都 | 01:21 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
舎密局跡(京都)
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市バス河原町二条より200メートルほどのところに、舎密局跡があります。



明治2年(1869年)に大阪、翌明治3年(1870年)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」といいます。
京都府顧問となった山本覚馬は、理化学・工業技術の研究・普及を目的とした施設を立ち上げるため、自分の洋学所に通っていた明石博高(ひろたか)を迎え、京都の近代産業を担う人材を育成しました。
ビール・ガラス・石けんなどの製造研究、多くの技術者を養成しましたが、1881年(明治14)勧業政策転換で廃止されました。

現在は、銅駝工芸高校になっており、駒札が立てられています。



「舎密」とはオランダ語シェミーの訳語で化学のこと。東京遷都により沈滞した京都の産業を振興する目的で、京都府が設立した理化学研究所である。明治三年(一八七〇)明石博高の建議により府知事槙村正直が仮設立、同六年本建築が落成した。広く受講生を募集し、ドイツ人ワグネルら外人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)、ビール等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及につとめた。また、本格的な理化学の講義は島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果した。明治一四年、槙村知事の転任によって閉鎖、建物も同二八年に焼失し、その後に銅駝校が建てられた。(案内板より)
(:_;)


by しずか

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| 京都 | 12:03 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
木戸孝允邸跡(京都)
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河原町丸太町バス停から約5分のところに、お宿「いしちょう」と旅館・石長松菊園があります。

お宿「いしちょう」



お宿「いしちょう」前の石碑



同じ石碑がこちらにも

石長松菊園前の石碑





この一帯に木戸孝允が亡くなった家がありました。

元々は、近衛家の河原御殿だったのを、孝允が譲り受けて別邸としたのだそうです。

木戸孝允は天保4年(1833年6月26日)長州藩医・和田昌直の子として生まれ、幼少時に長州藩士・桂九郎兵衛の養子となり、桂小五郎と称しました。
「石長松菊園」命名由来の「松菊」は、彼の雅号で、その後幕府の長州征伐令が出た時、長州藩主毛利敬親が孝允を参政に任ずるとともに姓を桂準一郎と改めました。

命を特に狙われ続けた幕末には、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用し、明治になってからさらに孝允と改名しました。
孝允は明治10年西南の役のころ、明治天皇に供奉して京都にやってきました。
現在、木戸屋敷跡に「石長松菊園・お宿いしちょう」が建てられています。

お宿いしちょうHP参照
http://www.ishicho.co.jp/kido.html

後で知ったのですが、邸は隣接する市職員会館の敷地内に移築されたとか・・・

そこは見逃してしまいましたorz

ここは急な思い付きで行ったため、下調べが不十分でした(:_;)


by しずか

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| 京都 | 10:19 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
禁門の変ゆかりの地〜離宮八幡宮
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JR山崎駅を降りると、徒歩1分の所に離宮八幡宮があります。



離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社にあたる神社で、嵯峨天皇の離宮跡にあることから「離宮」の名前がついています。

日本における製油発祥地とされ、現在も全国の製油業者から油が奉納されています。

 

 

幕末「禁門の変」の際、長州藩の屯所となっていたため、敗走兵を一掃しようと幕府軍が山崎の町に火を放ち、町の多くが被害をうけました。

 

荏胡麻油の専売権で隆盛を極め、その財力を背景に流麗な社殿を誇っていた離宮八幡宮もまた、一屋も残さず焼失しました。

 

現在の社殿は明治時代になって再建されたものです。


 

兵火をのがれ、現存する建築物は「惣門」と「東門」のみです。
いづれも
大山崎町指定文化財となっています。

惣門



                      by merry


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| 京都 | 00:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP