大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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清盛の最期
治承4年(1180)、4月以仁王の反乱
        6月、清盛は福原遷都を決行
        8月、頼朝挙兵
       10月、富士川の合戦で、敗退
       11月、京へ還都

治承5年(1181)、1月高倉上皇崩御、後白河の院政復活

このような背景をもとに、清盛は京を中心に新体制を築こうと、宗盛を惣官に任じ、畿内周辺から兵士・兵糧を徴収する権限でした。これは、畿内を反乱勢力から守るためでした。
宗盛を関東に追討使として派遣しようとした矢先、清盛は病に倒れました。
清盛は、当時流行していたマラリアにかかったといいます。
以前も大病にかかり、生死の境を彷徨いながらも、奇跡的に回復しましたが、今度はそうはいきませんでした。

「平家物語」によると、

入道相国病ひつき給ひし日よりして、水をだに喉へも入れ給はず。身の内の熱き事、火を焚くが如し。
臥し給へる所四五間が内へ入る者は、暑さ耐へ難し。ただ宣ふ事とては、「あたあた」とばかりなり。少しもただ事とは見えざりけり。
比叡山より千手井の水を汲み出し、石の舟に湛へて、それに降りて冷え給へば、水おびただしく沸き上がって、程なく湯にぞなりにける。

(熱病にかかってから、湯水もろくに喉を通らず、まるで体は火を焚いたように熱くなるばかり。比叡山から千手井の名水を汲んできて、石の水槽に満たし、その中で体を冷やしても、逆に水が湯になってしまうほどだった。)

入道相国、さしも日ごろはゆゆしげにおはせしかども、まことに苦しげにて、息の下にのたまひけるは、「われ、保元・平治よりこのかた、度々の朝敵を平らげ、勧賞(けんじやう)身に余り、かたじけなくも帝祖・太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。今生の望み一事も残るところなし。ただし思ひ置くこととては、伊豆の流人、前兵衛佐頼朝が首を見ざりつるこそ安からね。われいかにもなりなんのちは、堂塔をも建て、孝養をもすべからず。やがて討手を遣はし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に掛くべし。それぞ孝養にてあらんずる」とのたまひけるこそ罪深けれ。

(自分は、保元・平治の乱よりこのかた度々朝敵を平らげ、恩賞は身に余るほどで、畏れ多くも天子の外戚として太政大臣にまでなり、栄華は子孫にまで及んでいる。今生の望みとして一つも思い残すことはない。ただ思い残すことは、伊豆の国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見なかったことだ。自分の法事や供養は一切しなくてよい。その代わりに、頼朝の首を刎ね、我が墓前に備えよ」と言い残した。)

熱病に苦しむ清盛を見た妻・時子は、南都焼き討ちの罪によって清盛を無間地獄に沈めるという閻魔大王の使いを夢で見たといいます。

激しい発熱に苦しみながら、治承5年(1181)閏2月4日、清盛は、側近・平盛国の屋敷で死去。享年64。
清盛の願いは届かず、清盛の死から4年後、頼朝の弟・義経によって、平家は滅亡してしまいました。

※「吾妻鏡」では清盛の死去の場所を九条河原口の平盛国邸とありますが、神戸大学の高橋昌明先生の最新の研究により、盛国邸は八条河原口であることが明らかにされました。
清盛の遺体は、六道珍皇寺で荼毘にふされ、遺骨は福原の経島に納められたとも、播磨国山田の法華堂に埋葬されたともいわれています。

六道珍皇寺





清盛の墓所は神戸に、供養塔は神戸にも京都にもあります。

能福寺の平相国廟(神戸兵庫区)





清盛塚(神戸兵庫区)



六波羅蜜寺の供養塔(京都)



今年も一年当ブログを応援してくださりありがとうございましたm(__)m

私は2005年より、源平合戦の史跡を追ってきたので、今年はその集大成の年になりました。

当ブログの仲間、ラメールさん、merryさんと偶然にも同じ史跡に行っていることが度々あり、三者三様の記事になったと思います。

来年もNHK大河ドラマを応援していくつもりですので、皆様の応援よろしくお願い致します。


by shizuka



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| 京都 | 00:07 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
衣川合戦
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」

文治3年(1187)2月、奥州に逃亡した義経は、河越重頼の娘である北の方と、数え年2歳になる娘を伴っていました。
それから2年あまりの日々が過ぎ、文治5年(1189)閏4月30日、衣川館(岩手県平泉町高館)を藤原泰衡が差し向けた軍勢に襲われて、持仏堂に籠りました。
なぜ泰衡は、義経を追い詰めたのでしょうか?

義経をかくまってきた藤原秀衡が、文治3年死去。
義経が奥州に逃れてきて間もなくのことでした。
その際、秀衡は、遺言として、義経を大将に仰ぎ、みな一致団結して、頼朝に対抗するようにと残しました。

しかし、泰衡は、度重なる頼朝の圧力に屈し、ついに義経を襲撃することを決意。

「衣川の戦い」については、記録が残されていませんが、「義経記」には次のようにあります。

弁慶は、片岡八郎、伊勢三郎らと8騎で、2万騎を相手に奮戦。
次々と味方がやられていく中、弁慶は、持仏堂ぬ籠った義経が、自害する時間をかせぐため、自らの体に数十本の矢を受け、仁王立ちしたまま往生。

義経は、22歳の妻と4歳の娘を殺し、自害して果てました。享年31。
義経の首は、黒漆の櫃に納められ、腐敗を防ぐため、美酒に浸し鎌倉に運ばれ、腰越にて梶原景時、和田義盛により首実検が行われました。
その後、首は藤沢に葬られ、白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられています。

 源義経最期の地、岩手県平泉の高館

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高館は、北上川や束稲山(たばしねやま)、衣川を望むことが出来る眺望が素晴らしい所です。 

義経堂

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ここは頼朝に追われ、秀衡を頼って再び平泉に戻ってきた義経の居館があった所といわれ、泰衡に襲われ妻子とともに自害したのもこの地と伝えられています。

義経の死後、約500年後に、仙台藩主・伊達綱村が、義経を偲んで建立しました。

また衣川の流域は、弁慶立ち往生の故事でも知られています。

b_74.jpg

この義経像は、堂創建時に製作されたもので、頭部と兜が別作りである、髻が付いている、鎧の上に衣を装っているなど古い技法を使っているそうです。

この横に小さな資料館があり、義経の兜が展示されています。



1689年、松尾芭蕉は、奥の細道の旅の途中、高館において義経公を思い次の俳句を詠みました。
      
夏草や 兵どもが 夢の跡 

b_77 B

毎年8月のお盆には束稲山に大文字の灯が焚かれ、北上川には灯篭が流され、大文字祭りが行われます。

義経の首が眠る白幡神社(神奈川県藤沢市)



吾妻鏡によると、義経の首は奥州から鎌倉へ送られ、腰越において和田義盛、梶原景時らによって首実験が行われました。
伝承では同時に弁慶の首も送られ、首実験がなされ、夜の間に二つの首がこの神社に飛んできたといいます。このことを頼朝に伝えると、白旗明神としてこの神社に祀るようにとのことで、義経を祭神として後に白旗神社とよばれるようになりました。一方、弁慶の首は八王子社として祀られました。

義経の首は、首実験後、捨てられましたが、その首は金色の亀の背に乗って境川を上り、白旗神社の近くに流れ着き、藤沢の里人によって、この井戸で清められ葬られたといいます。
(この井戸は、白旗交差点近くにあります。)



義経没後810年を記念して建立された義経公鎮霊碑(白幡神社境内)





by shizuka



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| 岩手 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
海の底にも都がございます


大河「平清盛」の最後の場面は、清盛が海の中にある館に入っていった。すると清盛の前に平家一門が笑顔で待っていた。「海の底にも都はありまする」、時子の声に振り向いた清盛は、夢中で遊ぶ子どものような笑みをたたえていた。 

平忠盛(清盛の養父)は、物乞い姿のひとりの女と出会う。その女は、院の御所に出入りする白拍子で、時の最高権力者・白河法皇の子を身ごもっていた。その女を忠盛は自らの屋敷にかくまった矢先、赤子は生まれた。その赤子こそが、のちの平清盛であった。
(NHK「清盛」あらすじより)

この場面から始まった「平清盛」もついに最終回(50回目)の清盛の死亡で終わりました。


[何故、天下をとった清盛一門は破滅したのか]
自分の孫を天皇にして、都を福原に移すほどの力を持った清盛には、自分の考えが正義であると思うほどに傲慢になっていきました。権力と富を平家一門で独占して、「平家にあらずんば人にあらず」とまで豪語した清盛と平家一門は、頂点に立ったときから山を下るように急激に崩れていきます。
原因は、清盛の女性に優しすぎたところでしょう。池禅尼(平忠盛の正室 平清盛の継母)の頼みで頼朝を流罪にして命を助け、常磐御前の美しさにひかれ側室にする代わりに義経を生かしています。そして、この二人によって、清盛が作り上げた平家一門の栄華は、崩れさってゆきました。

[大河清盛を見て思うこと]
画面がきたない、人間関係がわかりにくいなど不評をかい、大河50作目の節目のドラマとしては、平均視聴率は12%で大河ドラマのワースト記録となりました。しかし、オリンピックや新しいネット時代の到来で、大河も高視聴率をとれる時代ではなくなりましたが、極悪人清盛を新しい視点からとらえ、貴族の時代から武家の時代を切り開き、貿易日本の礎をきずいた姿を描いてくれました。松山ケンイチ清盛も歳をとるにしたがって、清盛役にはまってきたようで、1年間ご苦労さまでした。
神戸市の清盛ファンとしては、大満足で1年間楽しませてもらいました。


海の底にも都はあります』は、二位の尼(清盛の妻)が安徳天皇を抱いて身投げするときに安徳天皇に言われた言葉で、「平家物語十一巻 先帝身投」に「波の下にも都がございます」と書かれています。


平家の船団は戦闘能力を失った。二位殿(清盛の妻)は、このありさまをご覧になって、日頃から覚悟しておられたことなので、天皇をお抱き申し上げ「帝のお供に参るのです。帝に忠節を志すものは、後に続きなさい」と言って船端に歩み出られた。このとき、天皇は八歳になられていた。

天皇 「尼ぜ、私をどこへ連れていこうとするのか」
二位の尼 「波の下にも都がございます」
と言われて、神器と天皇を抱かれて、千尋の海底へお入りになった。


赤間神宮
安徳天皇が祀ってあって、海の中にある竜宮城を思わせる建物です。
赤間神宮


安徳天皇陵(赤間神宮の横にあります)
安徳天皇陵


平家の一門の墓(赤間神宮内にあります)
壇ノ浦合戦で亡くなった平家の武将を祀っており七盛塚とも呼ばれています。
平家一門の墓


平家終焉
平家の総帥平宗盛(むねもり 清盛の三男)と子息:清宗(きよむね)の死亡で栄華を誇った平家一門も終焉を向かえました。

平家総帥:宗盛と清宗は、壇ノ浦で捕らえられ、近江の国篠原で斬首されました。その様子が「平家物語巻十一 能登殿最後 大臣殿被斬(きられ)」[杉本圭三郎訳注]に書かれています。


平家が敗れていくなかで、総帥:宗盛は呆然としておられたので、見苦しく思った平家の侍が海へ突き落とした。子息;清宗(きよむね)は後を追ったが両人とも水泳が達者だったため死に切れず捕虜となってしまった。


義経は、宗盛親子を連れて頼朝に会いに行ったが会ってもらえず、1185(元暦2)年6月9日に京に戻って行きました。そして、6月21日、近江の国篠原の宿にお着きになって、そこで、宗盛親子は、斬首されました。宗盛:享年39歳 清宗:享年16歳


宗盛、清宗の墓(滋賀県野洲市)
宗盛清宗墓



平家物語の終わり
建礼門院(安徳天皇の母 清盛の娘)が捕獲された場面が「平家物語 能登殿最後」に、出家された様子が「平家物語巻十二 灌頂の巻(くぁんじょうのまき)」にあり、この話が平家物語の最終章となります。
灌頂とは、頭に水をそそいで行う仏教の儀式のことのようです。


女院は、安徳天皇が二位の尼に抱かれて海に沈んでいかれたのを見て、硯などを左右のふところに入れ、海に身を投げられたところを源氏の侍が誰とは知らずに御髪を熊手にかけて引き上げた。女房たちは「そのかたは、女院でいらっしゃいますぞ」と申されたので、御座船にお移し申し上げた。


建礼門院は、東山の麓の吉田あたり(京都区左京区)にお入りになった。住まいは荒れ果て、草木は茂り、雨風を防ぎようもないありさまである。こうして、女院は、1185(文治元)年5月1日にご出家なさった(御年29歳)。御戎(おんかい)の師は、長楽寺の印西上人であった。御布施として、先帝の御直衣(おのうし)を納められた。上人は、この御衣を幡に縫って、長楽寺の仏門にかけられたということである。その後、建礼門院は、大原の寂光院に住まれ、帝や平家一門のために念仏をとなえる生活をされ、年月が過ぎ、女院はご病気になられ「かならず極楽浄土へお引き取りください」と念仏を唱えられ、1192(建久2)年2月中旬にその生涯を終えられました。享年37歳(58歳説もあります)


安徳天皇御衣幡と建礼門院像がある長楽寺
長楽寺



「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」の書き出しで始まった平家物語も建礼門院の死で終わりとなります。

大河ドラマ「平清盛」の史跡を訪ねながらドラマを楽しんできたこの1年間、お付き合いいただきありがとうございました。
よいお年をお迎えください。



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| 山口 | 00:01 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
壇ノ浦の戦い 平家滅亡
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」
平家と源氏の最後の戦いが壇ノ浦の戦いです。
1185(元暦二)年3月24日正午ごろに始まった。
はじめは西から東に流れる潮流にのった平家が優勢でしたが、午後3時に潮流が逆流しはじめ、形勢が逆転して義経軍が押しまくり源氏の勝利となりました。
「平家物語巻十一 鶏合わせ 壇ノ浦合戦」にその様子が書かれています。

熊野別当湛増(たんぞう)が200余艘、伊予の河野四郎道信(みちのぶ)が150余艘が源氏と合流した。源氏の船は3000余艘、平家の船は、1000余艘で、源氏の勢力は増してゆき、平家の勢いは衰退してゆきました。関門海峡の西:彦島に平家、東:満珠島に源氏の船団が到着しいよいよ壇ノ浦の合戦が繰り広げられることになるのです。


知盛 「戦いは今日が最後だ。者ども、一歩も退く心をもってはならない」
越中次郎兵衛 「同じ戦うなら大将軍九郎義経と戦おう。九郎は、色白でせいの低い男だが、前歯が差し出していてはっきりわかるぞ」


九郎義経は、まっさきに進んで戦ったがさんざんに射まくられ、平家は、味方が勝ったと太鼓を打って、歓びの鬨の声をあげた。


平家優勢の戦いも、阿波民部重能(しげよし)が息子を生捕りにされたため、助けようと源氏に味方した。そして、平家の策略であった、高貴の人を兵船に乗せ、唐船に雑兵を乗せていることを源氏方に通報したので、形勢が逆転した。四国、九州の軍兵は、平家に背いて源氏についたので、源平の制覇をかける戦いも、今日が最後と思われた。


壇ノ浦合戦図
壇ノ浦対決 

壇ノ浦古戦場


合戦場所:関門海峡
壇ノ浦海


源氏が集結した場所:満珠、千珠島
萬千島


源氏勝利祈願した大歳神社
大歳神社


平家が勝利祈願した和布刈神社(めかり)
和布刈神社


両軍総大将 義経対知盛対決像
義経知盛像


義経像  知盛像


惨敗していく平家軍のなかでも知盛(清盛の四男)の戦いは、別格です。「平家物語巻十一内侍所 都入(ないしどころのみやこいり)」に知盛の最後が書かれています。

新中納言知盛 「見届けるべきものは皆見た、今は自害しよう」
鎧二領を着て伊賀の家長と手をとりあって海に入ったのであった。これを見て、侍どもも後に続いた。海上には、平家の赤旗や赤印が投げ出され、竜田川の紅葉を嵐が吹き散らしたようです。主人のいなくなった空船が、どこへともなく揺られて行くさまは、まことに悲しいことであった。

甲宗神社に知盛の墓があります。
甲宗神社 知盛墓


平家の赤旗 源氏の白旗

ここから赤勝て、白勝て。紅白歌合戦、紅白まんじゅうなどの言葉がでてきました。
赤白旗



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| 山口 | 02:07 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大河最終回 清盛死す

大河「清盛」もついに最終回を迎えました。孫を天皇に就かせ、福原に都を移し、望むものは全て手に入れた平清盛もついに死期を迎えました。そして、「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と言って清盛は、熱病(あっちち病)によって死んでいきました。

清盛の最後について「平家物語巻六 入道死去」では次のように書いています。

入道相国jは、発病されたその日から水も喉を通らず、体は火をたいているように熱かった。寝ておられる所から四〜五間の内にいる者は、熱さに耐えられなかった。比叡山から水をくみおろして、石の槽に入れ、その中に体をいれられて冷やそうとしたが水は激しく沸き上がって湯となった。体に水を流しても焼け石や鉄にあたるように、水はほとばしり、炎となって燃えたので黒煙は、御殿の中に満ち、炎は渦を巻いて燃え上がった。・・・・・
1181(治承5)年2月4日、病苦に責められ、悶え苦しみ転び倒れて、ついに死んでいかれた。(享年64歳)・・・・・7日、愛宕(おたき 京都左京区にあった火葬場)にて火葬し、遺骨を円実法源が首にかけ摂津国経が島(兵庫県神戸市 大輪田の泊)に納めた。

能福寺にある清盛の墓
清盛墓


一の谷の戦いで敗れた平家は、屋島に逃れた。屋島の戦いについては、大河では、ストリーになかったですが、平家滅亡については必要な話ですので、ここで紹介します。 
(平家物語巻十一 逆艪、勝浦、嗣信最後、那須与一、弓流、志度合戦) 

1185(元暦二)年2月、義経は、都を立って、摂津国渡辺(大阪市東区)から屋島へ攻めようと、又、範頼は摂津国神崎(兵庫県尼崎市)から山陽道に向おうと船揃えをした。・・・・・・義経軍は、16日午前2時ごろに渡辺を出発し、翌朝6時ころに阿波の地に到着した。

義経が船出した渡辺の津
八軒屋船着場 渡辺の津


平家が陣を構えた屋島(香川県)
屋島


屋島の安徳天皇社
安徳天皇社1 安徳天皇社2


屋島の戦いで有名な話が、那須与一が平家がかざした扇の的を射落とす場面です。

的との距離が遠かったので、海へ馬を乗り入れたが、それでも7段ばかりあった。時は、2月18日の午後6時ごろのことであった。北風が激しく波は高く、船は上下へと揺れ竿の先の的も止まることなくひらめいていた。与一は「南無八幡大菩薩・・・・・この矢をはずさせないでください」と祈念して、弓に矢をつがえひょうと放った。扇は空に舞い上がり空中にひらめいて海へ落ちたのであった。沖では、平家が感嘆し、陸では源氏が歓声をあげた。

その場所が残されています。今は、埋め立てられており、当時の海の上で平家の船が浮かんでいる感じはありません。

駒立て岩               祈り岩
駒たて岩 祈り岩


扇の的位置
扇の岩



那須与一の墓が兵庫県神戸市にあります。

与一墓1 与一墓2

与一は、晩年、この地にお礼参りに訪れますが、病のためここで亡くなったと伝えられています。この墓にお参りすると、年老いてもシモの世話にならないと言い伝えられています。又、弓の名人であった与一にあやかろうと弓道者やアーチェリーの関係者も訪れます。
道路を隔てた東側に那須神社があります。


平家が屋島の戦いで敗れていく様子を「平家物語巻十一 志度合戦」では次のように書いています。

平家は、船に乗って讃岐国志度の浦(香川県大川郡志度町)に退いた。そして、「源氏の大軍が来たぞ」と言って、潮にひかれかぜにまかせて、どこにむかうともなく落ちて行った。四国は、義経によって平定され、平家は、ただ死後、次の生を受けるまで宙に迷っている人の霊のようなありさまであった。

惨敗して、軍の体制もなくなって、ただ波任せで漂って逃げていく平家の様子を表しています。

屋島の地図はこちらから



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| 香川 | 01:43 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大河ドラマ「平清盛」総集編 放送予定
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」

本編は終了しましたが、総集編が放送されます。

見逃した方も、毎週見ていた方も、清盛の一年をまとめて楽しみましょう!

【BSプレミアム】

12/30(日)一挙放送!
午後6:00〜 第1回「武士の世」
午後7:00〜 第2回「保元平治の乱」
午後8:00〜 第3回「海の都」

【総合】

1/2(水)
午後5:00〜 第1回「武士の世」

1/3(木)
午後4:00〜 第2回「保元・平治の乱」
午後5:00〜 第3回「海の都」


by shizuka



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| ドラマ | 11:35 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
平家の武将の最後  
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」
いよいよ、清盛もあと一回となりました。
清盛が死に際に言った遺言は
「自分が死んだ後は、仏事などはしてはならない。ただちに追手を差し向け、頼朝の首をはね、我が墓の前に供えよ。それがなによりの供養だ。」
と言い残しました。命を助けてやった頼朝がその恩を忘れて、歯向かってきたのがよほどくやしかったのでしょう。

i今回は、平家の武将が一の谷の合戦で死んでいった様子を「平家物語巻九」の記述から紹介します。


越中前司盛俊最後

清盛の信任のあつい平家の武将。山の手の侍大将。
源氏の猪俣小平六則綱と組合になり取り押さえたが、源氏の武者がかけよってきたすきに、猪俣は、越中前司を取り押さえ、三度刺して首をとった。
越中前司は、ちょっとした隙をつかれて首をはねられました。


平盛俊の墓
盛俊の墓2 盛俊墓3


別の場所にある盛俊供養塔
盛俊の墓



薩摩守忠度最後

平清盛の異母弟。歌人としても有名。西(一の谷)の陣の大将軍
源氏の六野太忠純が追いかけてきた。忠度は六野太に太刀をあびせたが六野太の家来が駆けつけ、薩摩守忠度の右腕の肘のもとから切り落とした。

神戸にある忠度胴塚
忠度胴塚神戸2 忠度胴塚神戸1


神戸の腕塚
忠度腕塚神戸1 忠度腕塚神戸22


忠度は、明石にも同じような史跡があります。

http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?eid=1065



本三位中将重衡(しげひら)生捕り

清盛の五男  生田の森の副将軍
源氏の梶原源太景季(げんたかげすえ)と庄の四郎高家が中将重衡を追ってきた。重衡は、湊川、刈藻川を馬を走らせ蓮の池を右手に、駒の林を左手に、板宿、須磨を通り西に向かって逃げた。源太景季は、もしや当たるかと弓をしぼって放つと馬の尻のほうに当たった。
庄四郎高家によって生け捕りになった。(重衡が馬を走らせた地名は、現在もあります)

重衡碑2 重衡碑1


敦盛最期
平清盛の弟である平経盛の末子。笛の名手で鳥羽院から青葉の笛を賜った。
源氏の熊谷次郎直実が磯の方に行くと武者が一騎、沖にいる船を目指して、海に乗り入れていたので、声をかけた。武者が渚にあがろうとしたところ組みあい、取り押さえて首を斬ろうと甲をあげると、年は一六、七の薄化粧をして、歯を染めているまことに美しい若者であった。自分の息子と同じくらいの歳であったので、助けようとしたら、源氏軍の土居、梶原の軍50騎ほどが現れた。
直実  「お助けしたいが、我が軍勢は雲霞のごとくいます。人手におかけするなら、直実の手にかけ、後に供養をいたしましょう」
敦盛  「ただすみやかに首をとれ」
直実は、泣く泣く首を斬った。

敦盛と直実の対決の像(須磨寺)
敦盛直実像


敦盛像(須磨寺)      敦盛塚
敦盛像 敦盛塚



知章最後(としあきら)
清盛の四男:知盛(とももり)の息子
知盛は、生田の森の大将軍であったが、味方の軍勢は皆逃げ、息子:知章と侍大将監物太郎頼方(けんもつたろうよりかた)の主従三騎となった。そこへ、源氏の児玉党の者十騎ばかりが追っかけてきた。その中の大将が知盛を捉えようとしたので、知章が間に入って取っ組み合い、馬からどーと落ちて取っ組み合い、首を斬って立ち上がろうとしたところを敵の家来が知章の首を斬った。それを見た監物太郎が知章を討った源氏の兵を討った。弓の名手監物は、矢のある限り撃ちつくしたが最後は、左の膝を射たれ、すわったまま討ち死にしてしまった。この間に、知盛は海上を二十余町馬を泳がせ大臣(清盛の三男:宗盛)の船にお着きになった。
(父をかばい、知章が身代わりに討ち死にした親孝行な息子の話です。)

知章の墓  墓のある明泉寺
知章の墓 知章名泉寺


監物太郎の墓
監物墓1 監物墓2



神戸には、一の谷の合戦で亡くなった源氏平家の武将の墓、供養塔があります。地元の人は、源氏、平家を敵味方なく、同じように扱っています。



左は源氏方の猪俣小平六則、中央は源氏の木村源吾重章、右は平通盛(みちもり)の墓
 
武将墓




落足
東西の城門での合戦は、二時間をこえるほど続き、源平ともに無数の者が亡くなった。源氏の側で斬って首をさらした者は二千余人である。平家方で討たれた主な者は、越前三位通盛、蔵人大夫業盛、備中守師盛(もろもり)など十人以上である。


越前三位通盛(清盛の弟:教盛の息子)と
妻:小宰相の墓   願成寺

通盛墓 通盛願成寺



蔵人大夫業盛(上の通盛の弟)の墓 善光寺別院
業盛墓 業盛善光寺


 


源平供養塔
源平供養塔



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源平藤戸合戦
倉敷の藤戸合戦の舞台を訪ねました。

昔、倉敷市藤戸周辺は小さな島が点在する海でした。

寿永2年(1183年)10月には、玉島で水島合戦、寿永3年(1184年)12月には藤戸合戦がありました。
藤戸合戦(児島合戦ともいう)は、備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸町)で源氏の源範頼軍と、平家の平行盛(平清盛の次男である平基盛の長男)軍の間で行われ、源氏の勝利に終わりました。

藤戸寺

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奈良時代に行基菩薩が開基。平家滅亡後、源平藤戸合戦の功によりこの地域を拝領した佐々木盛綱が、両軍戦没者、自分が殺した漁夫の霊を弔うための供養に、大法会を催し、建物の修復をしました。
謡曲「藤戸」の寺としても知られています。 

謡曲藤戸と藤戸寺

佐々木盛綱は、藤戸の渡しの先陣の功を立てた恩賞で備前国児島を賜り入国した時に訴訟あるものは申し立てよと触れると、一人の老女が、盛綱に亡き者にされたわが子を返してくれと歎き訴える。
盛綱は藤戸の戦いに、この老婆の子の漁夫に海の浅瀬を教えられて、先陣の功を立てたのであるが、この事が他に漏れるのを恐れて、かの若者を亡き者にしたのである。
盛綱は今、その母の歎きを見て、さすが哀れに思い、慰さめ、又その亡き子の為に仏事を行うと、やがてその漁師の亡霊が現れて、自分が亡き者にされた時の様を語り、供養を受けたお蔭で恨みもはれ、成仏することが出来たと喜んで消え失せるという筋である。
藤戸寺は源氏の武将佐々木盛綱が源平両軍の戦没者の霊を慰め敵陣一番乗りの手引きをしてくれた若者の霊を杷るために大法要を営んだ寺である。
                      謡曲史跡保存会(案内板より)


藤戸寺近くに、源平藤戸合戦八百年記念碑があります。

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源平藤戸合戦略記

寿永3年(1184)旧暦12月(東鑑ーあずまかがみ) 源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙したが源氏には水軍が無かったので渡海出来ず平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対してもただ切歯扼腕悔しがるだけであった。
時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、夜半、男を伴って厳寒の海に入って瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流した。翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、目印の笹をたよりにまっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りを上げるや敵陣目指して突入し、源氏大勝の端を開いた。盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜った。海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世を驚嘆させ永く後世に名声を伝えられる事となった。
(案内板より)

藤戸寺から「もりつな橋」へ

この赤い橋の途中に馬に跨った佐々木盛綱像があります。

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佐々木盛綱

近江国(滋賀県)佐々木庄を地盤とする佐々木秀義と源為義の娘の子。
平治の乱(1159)後、関東へ落ち延び、父や兄弟と共に相模国の渋谷重国の許に身を寄せました。
仁安1(1166)年より源頼朝に仕え、治承4(1180)年の挙兵にも参加。
藤戸合戦などで活躍し、頼朝の死後は出家して西念と名乗りました。
しかし、源頼家に所領を没収され、上野国磯部に隠居しましたが、建仁1(1201)年の越後の城氏の反乱の鎮圧や、元久2(1205)年の京都守護平賀朝雅誅殺などで活躍しました。

この近くに、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のロケ地に使われた藤戸饅頭本店があります。

IMG_8270 藤戸饅頭 B

平家物語によると、1184年(寿永三年)、佐々木盛綱が、藤戸村の村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の軍に勝利しましたが、口封じのため、村人を斬り殺したといいます。その村人の供養が村人たちにより、藤戸寺で行われ、近くの民家から饅頭が供えられ、この饅頭が藤戸饅頭の起源とされています。

また、この近くに経ヶ島があります。

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藤戸寺で大法要を催した盛綱は、もとは藤戸寺の境内であったこの小島に、お経を埋めて経塚を建てたことから経ヶ島と呼ばれるようになったといいます。
経ヶ島内には、源平藤戸合戦八百年忌の石碑、島の頂上には二基の宝篋印塔があり、小さい方が漁夫の供養塔といわれています。

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経ヶ島

経ヶ島 秋の下闇 深かりし 高濱年尾
寿永3年(西暦1184年)冬12月、源平両軍はこの藤戸海峡をはさみ布陣した。
源氏の将佐々木盛綱は漁夫に浅瀬を教えられ、馬を躍らせて一番に海を渡り、味方を勝利に導いた。この時盛綱は浅瀬の秘密をまもるためこの漁夫を亡きものにしたという。
次の年、児島郡の領主となった盛綱は、哀れな漁夫の追福のため、大供養を藤戸寺で行い写経をこの島に埋めたので経ヶ島と呼ばれるようになった。
頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔があるが、小さい方が漁夫の供養塔と伝えられている。
麓の弁財天社は藤戸寺の鎮守で、寛永9年(西暦1632年)岡山藩家老池田氏が天城に陣屋を設けた際、祀られたものである。


by shizuka



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| 岡山 | 00:47 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
一の谷の合戦(鵯越)
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」

平家の陣は、東は生田の森から西は須磨の鉄拐山、そして北は鵯越のあたりまでの広い地域であった。


[平家物語巻九老馬]に、平家陣地の様子、源氏の攻め方が書かれています。

越中前司盛俊、能登守教経、越前三位通盛など一万余騎で山の手を固められた。山の手とは、鵯越のふもとである。・・・・・・・義経自身は、3千余騎で一の谷の背後の鵯越を攻めようとした。

五日の夕方、源氏は昆陽野を出発して、生田の森に近づいた。生田の森に陣取った平家軍は、今攻めてくるか、今せめて来るかと、安らかな心もなかった。

六日の明け方に義経は、一万余騎を二軍に分けて、土肥二郎の七千余騎を与え一の谷の西の方面に向かわせた。(平家物語 老馬)・・・・・・・熊谷二郎は子息の小次郎と攻め落とす予定の谷を左手に見て、右の方に馬を進めて行く、田井の畑の古道を経て、一の谷の波打ち際に出た。一の谷の塩屋というところに土肥二郎は7千余騎でひかえていた。熊谷は、波打ち際から夜に紛れて通りぬけ、一の谷の城門へ押し寄せた。(平家物語 一二之懸)


一の谷合戦図

(地図)


鵯越の碑(兵庫区)
鵯越碑


鵯越一帯(正面は海、右に一の谷)
逆落し兵庫区説の場所

鵯越


東の砦:生田の森
生田の森




一の谷逆落しの地(須磨区 この下に天皇内裏があった)
一の谷


安徳天皇内裏跡
安徳天皇内裏跡




義経は、逆落しで攻めるのを、地元の漁師である18歳の鷲尾三郎義久を道案内とした。後に、義久は、奥州で義経が討たれた時、一緒に死にました。(平家物語 老馬)
鷲尾家屋敷跡

鷲尾家標識


神戸では、逆落しの場所が須磨区説と兵庫区説の二つがあります。


[平家物語巻九 逆落]に次のように記述されています。

義経は、七日の明け方に一の谷の後方、鵯越に上がり、平家の城郭を見下ろして、
「馬共を駆け下ろさせてみよう」と言われた。そして、鞍を置いた馬三匹が、越中前司の館の上に下りた。
「それ、駆け下りよ、義経を手本にせよ」
まず30騎ばかりが先頭をきって駆け下りた。小石混じりの砂土の崖なので、流れ落ちるように2町ばかり下って、壇になっているところで馬をとめた。そこから、下を見下ろすと、苔むした大岩壁が、一四五丈も垂直にきりたっている。そのとき、佐原十郎義連が先頭をきって駆け下りたので、軍兵は皆続いた。あまりの恐ろしさに眼をふさいで駆け下りた。全く人間わざとは思えす、ただの鬼神のしわざかと思われた。

平家側は、あわてて、助かるかと思い前の海に多くのものが駆け入った。また、岸辺に船が用意されていたので、我先にと船に五〇〇人が乗ろうとしたので、大船三艘が沈んでしまった。その後は、「身分の高い人は乗せても、雑兵は乗せるな」と乗ろうとしたした兵を刀で切り払った。ソの血で一の谷の岸辺は朱に染まっていった。
能登守教経は、播磨の明石の浦から船に乗って、讃岐の八島に渡られた。


一の谷の岸辺は、JR須磨駅の西辺りで「戦の浜碑」と「源平合戦800年記念碑」があります。
戦の浜


戦の浜碑         源平合戦800年記念碑
戦の浜碑 800年記念碑



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三草合戦
 大河ドラマでは、清盛は、熱病に冒されたところまででしたが、その後の展開が、いよいよ義経登場で源平の合戦が始まりますので、一足早く、記事をのせました。

【平家物語巻九 三草勢揃】
源氏は、1184(寿永3)年2月4日に 攻めるはずであったが、故人入道相国の命日にあたると聞いて、仏事を行わせるために攻めなかった。4日は吉日だというので、大手、搦手(からめて)と大将軍、軍兵が二手にわかれて都を出発した。

 大手の大将軍は、源範頼(のりより)、これに従うもの総勢5万余騎が2月4日午前8時半頃都を出発してその日の午後4時〜6時ごろに摂津国昆陽野(こやの 伊丹市)に陣をしいた。
 搦手の大将軍は九郎義経、武蔵坊弁慶をはじめとして、総勢一万余騎、同じ時に都を出発して丹波路にすすみ、二日かかる道のりを一日で越え、播磨と丹波の境にある三草山の東の山口、小野原(兵庫県加東市)に到着した。
(平家物語九 杉本圭三郎訳注)



地図上の初戦の地:三草山から決戦場:一の谷までの直線で約30Kの義経軍が行進した道にある史跡を紹介をします。


(参考資料:Wikipedia、 野村貴郎著;源義経 鵯越の坂落し)


義経行軍道map

 訪問史跡 地図

 三草山(4)
 薬師堂(3)
 五輪塔(3)
 佐保神社(2)
 山氏神社(2)
 義経腰掛石(1)
 夜泣きの白拍子さん(1)
 国位田の碑(1)
 こくい坂・亀井が淵(1)
 弁慶の重ね石(1)
 弁慶の足跡(1)
 
 一の谷合戦場
 福原京
 生田の森

 清水寺(4)



初戦の地:三草山
 (地図
2月5日、義経軍は、平資盛(たいらのすけもり)らが守る三草山(兵庫県加東市)で決戦に挑んだ。

「平家物語 三草合戦」の段によると、
義経は土肥実平
(どいさねひら)を呼び、今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦とすべきかを問う。田代冠者信綱が進み出て「明日の合戦となれば、平家の軍勢は増すので、数の上で有利な今、夜討ちをかけるべきです」と進言。義経はそれを受け入れ、夜討ちを決行するべく民家に火を放って進撃した。

平家の側では、重盛の子息らを大将軍として三草山の西に布陣する。そして、「戦いはきっと明日のことであろう。よく眠って戦いに備えよ」といって、前後不覚に寝入っていた。夜半頃に、源氏の一万騎がどっと鬨の声をあげた。平家の側では、あわてふためき、弓を取るものは矢をもたず、矢をとるものは弓を忘れ、源氏に攻められ、平家の兵500余騎が討たれた。大将軍小松の新三位中将、同少将は、面目ないと、播磨の国高砂から船に乗って、讃岐国の八島に渡られた。備中守などは、一の谷に参られた。

三草山


三草合戦の碑
三草合戦碑


義経夜襲
三草夜討ち絵



三草山で勝利した義経軍は、平家の本陣:一の谷に向かって進軍しました。
その途中に、義経行軍の史跡があります。


薬師堂
平家一門の菩提を弔うための堂ですが、
今は、荒れ果てて今にも朽ち果てそうです。
(三草山からすぐのところにあります。) 
 薬師堂


五輪塔
鎌倉時代前期の作と言われており中村家先祖の塔、
一説によれば、三草山合戦の戦死者の供養塔とも言われています。
(三草山からすぐのところにあります)
五輪塔  


佐保神社(さほじんじゃ) (地図
三草山で勝利した義経は、佐保神社に兵を集結させ休息を取り、土肥実平(どいさねひら)に主力軍を預け、一の谷西木戸を攻撃するように命じ、自らは少数の兵をひきいて、朝光寺から埼鹿寺(はしかでら)へ、そして、鵯越えに向かった。
 




埼鹿寺本堂
合戦の後、義経軍は五日、この寺で戦勝の宴を開き、翌六日に軍を二手に分けて、土肥軍を一ノ谷向かわせ、自らは、鵯越に向かったと伝えられています。
埼鹿寺本堂


埼鹿寺の横にある義経道
義経道


※佐保神社と埼鹿寺に義経戦勝後の進軍について、『土肥軍を一ノ谷西の砦へ、義経軍は、少数で鵯越に向かった』と同じような話が残っています。



義経手植えの松地図
佐保神社の近くにある山氏神社(やまうじじんじゃ)にあります。
  


義経腰掛け石
義経腰掛け石 義経腰掛け石2


国位田
国威田


一に谷を目指した義経一行がこの付近で休養したしたとき、地元のおばあさんからハッタイ粉を食べさせてもらった。義経は、その御礼に年貢を免除しました。この近くにその田があって、明治9年まで年貢の免除がありました。

国位田痛



弁慶の重石
弁慶の重石2 弁慶の重石




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