治承4年(1180)、4月以仁王の反乱
6月、清盛は福原遷都を決行
8月、頼朝挙兵
10月、富士川の合戦で、敗退
11月、京へ還都
治承5年(1181)、1月高倉上皇崩御、後白河の院政復活
このような背景をもとに、清盛は京を中心に新体制を築こうと、宗盛を惣官に任じ、畿内周辺から兵士・兵糧を徴収する権限でした。これは、畿内を反乱勢力から守るためでした。
宗盛を関東に追討使として派遣しようとした矢先、清盛は病に倒れました。
清盛は、当時流行していたマラリアにかかったといいます。
以前も大病にかかり、生死の境を彷徨いながらも、奇跡的に回復しましたが、今度はそうはいきませんでした。
「平家物語」によると、
入道相国病ひつき給ひし日よりして、水をだに喉へも入れ給はず。身の内の熱き事、火を焚くが如し。
臥し給へる所四五間が内へ入る者は、暑さ耐へ難し。ただ宣ふ事とては、「あたあた」とばかりなり。少しもただ事とは見えざりけり。
比叡山より千手井の水を汲み出し、石の舟に湛へて、それに降りて冷え給へば、水おびただしく沸き上がって、程なく湯にぞなりにける。
(熱病にかかってから、湯水もろくに喉を通らず、まるで体は火を焚いたように熱くなるばかり。比叡山から千手井の名水を汲んできて、石の水槽に満たし、その中で体を冷やしても、逆に水が湯になってしまうほどだった。)
入道相国、さしも日ごろはゆゆしげにおはせしかども、まことに苦しげにて、息の下にのたまひけるは、「われ、保元・平治よりこのかた、度々の朝敵を平らげ、勧賞(けんじやう)身に余り、かたじけなくも帝祖・太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。今生の望み一事も残るところなし。ただし思ひ置くこととては、伊豆の流人、前兵衛佐頼朝が首を見ざりつるこそ安からね。われいかにもなりなんのちは、堂塔をも建て、孝養をもすべからず。やがて討手を遣はし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に掛くべし。それぞ孝養にてあらんずる」とのたまひけるこそ罪深けれ。
(自分は、保元・平治の乱よりこのかた度々朝敵を平らげ、恩賞は身に余るほどで、畏れ多くも天子の外戚として太政大臣にまでなり、栄華は子孫にまで及んでいる。今生の望みとして一つも思い残すことはない。ただ思い残すことは、伊豆の国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見なかったことだ。自分の法事や供養は一切しなくてよい。その代わりに、頼朝の首を刎ね、我が墓前に備えよ」と言い残した。)
熱病に苦しむ清盛を見た妻・時子は、南都焼き討ちの罪によって清盛を無間地獄に沈めるという閻魔大王の使いを夢で見たといいます。
激しい発熱に苦しみながら、治承5年(1181)閏2月4日、清盛は、側近・平盛国の屋敷で死去。享年64。
清盛の願いは届かず、清盛の死から4年後、頼朝の弟・義経によって、平家は滅亡してしまいました。
※「吾妻鏡」では清盛の死去の場所を九条河原口の平盛国邸とありますが、神戸大学の高橋昌明先生の最新の研究により、盛国邸は八条河原口であることが明らかにされました。
清盛の遺体は、六道珍皇寺で荼毘にふされ、遺骨は福原の経島に納められたとも、播磨国山田の法華堂に埋葬されたともいわれています。
六道珍皇寺
清盛の墓所は神戸に、供養塔は神戸にも京都にもあります。
能福寺の平相国廟(神戸兵庫区)
清盛塚(神戸兵庫区)
六波羅蜜寺の供養塔(京都)
今年も一年当ブログを応援してくださりありがとうございましたm(__)m
私は2005年より、源平合戦の史跡を追ってきたので、今年はその集大成の年になりました。
当ブログの仲間、ラメールさん、merryさんと偶然にも同じ史跡に行っていることが度々あり、三者三様の記事になったと思います。
来年もNHK大河ドラマを応援していくつもりですので、皆様の応援よろしくお願い致します。
by shizuka
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