青蓮院は、三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされます。
「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことです。
青蓮院は比叡山東塔の青蓮坊が起源であり、平安時代末期の行玄大僧正の時に門跡寺院となって山下に移りました。
久安6年(1150年)
美福門院が、青蓮院を祈願所とし、また、鳥羽上皇の第7皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、青蓮院は、皇族や摂関家の子弟が門主を務めてきました。
山下へ移転した当初は三条白川にありましたが、鎌倉時代に現在地へ移りました。
江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」も呼ばれ、日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られています。
3代門主の慈円は、藤原忠通の子で、歌人としても知られ、『愚管抄』の著者としても有名です。
17代門主の尊円法親王は、伏見天皇の第6皇子で、尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれました。
室町時代に門主を務めた義円は、後に室町幕府第6代将軍・足利義教となりました。
青蓮院
三千院、妙法院と並ぶ天台宗三門跡の一つで、天明の大火(一七八八)の際に仮の御所となったことから、粟田御所とも呼ばれる。
最澄(伝教大師)が比叡山に建てた僧侶の住居の一つ「青蓮坊」に始まるとされ、平安時代末期の行玄のときに三条白川(現在地のやや北西)に移り、鳥羽法皇の第七皇子が行玄の弟子として入寺して以来、皇族や摂関家の子弟が門主(住職)を務める「門跡寺院」となった。
歴代門主のうち、三代の慈円は歴史書『愚管抄』の著者として有名で、十七代の尊円入道親王は和風と唐風を融合した青蓮院流(のちの御家流)と呼ばれる書風で知られる名筆家であった。 境内全域が国の史跡に指定されており、粟田山の山裾を利用した庭園は、龍心池を中心とした優美な池泉回遊式庭園で、主庭は相阿弥の、霧島の庭は小堀遠州の作と伝えられている。また、神宮道沿いの門前には、この寺で出家した親鸞聖人のお手植えと伝わる巨大な五本の楠(京都市登録天然記念物)がある
。 寺宝として、青黒く描かれていることから「青不動」の名で知られる「不動明王二童子画像」(国宝)をはじめ、多数の文化財を蔵する。円山公園東の山頂に、飛び地の境内である将軍塚大日堂を有し、そこからの京都市外の眺めは格別である。(案内板より)
青蓮院は、夜のライトアップでも有名です。
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