大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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崇徳院御廟
 

讃岐に配流となった崇徳上皇は、自分の指の血で三年がかりで写経を書き、鳥羽か八幡辺りに納めたいと嘆願しましたが、願いは叶わず、経文を「三悪道に投げ込み、その力で大魔王となり、天皇家をひっくり返して民を皇となさん!」と舌を噛み切り、その血で署名して海底に沈めさせ、生きながら天狗の姿になったといいます。

祟りを怖れた後白河天皇は、崇徳上皇の冥福を祈り、白河北殿の跡に神社を建てましたが、水害や火災で消失を繰り返し、管理者も度々変わったといいます。

現在、祇園甲部歌舞伎場の裏にひっそりと建つ崇徳院御廟は、阿波内侍によって建てられました。





阿波内侍は、藤原信西の娘で、母親の朝子は後白河法皇の乳母です。

崇徳天皇は、かつて藤寺と呼ばれ、藤の名所であった安居金毘羅宮の藤を愛し、寵愛した阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸しました。

崇徳上皇が保元の乱後、讃岐に配流された後、阿波内侍に自筆の尊影を下賜しました。
内侍は、崇徳上皇が亡くなった後、出家して御廟を建て、平家滅亡後、晩年は大原で建礼門院に仕え、最期を看取ったといいます。



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| 京都 | 00:20 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
安井金比羅宮
 

4月のある日、京都の市バスに乗り、六波羅蜜寺に向かっていました。

東大路通りに入り、そのうち「六波羅蜜寺におこしの方はここでお降りください」とアナウンスがあるものと思って、のんびり構えていました。

 

しかし、ハッと気がつけば「東山安井」

 

これは行き過ぎたと急いでバスを降り、東大路通りを南に向かって戻りました。

 

ふとみると「安井金毘羅宮」


 

先を急ぐわけでもないので、ちょっと寄っていこうかと思って駒札を見てビックリ!

 

え〜〜っ!ここも御祭神が崇徳天皇なのですか〜

 

祭神として崇徳天皇、大物主神、源頼政の三神を祀る

社伝によれば、保元の乱に敗れて讃岐で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(1275~1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こりといわれている。後略<案内板より>

 

またしても、崇徳天皇に呼び止められました〜

前回呼び止められた「白峰神宮」の記事は⇒http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?day=20120325

 



拝殿

 

崇徳天皇を祀る本殿



 
拝殿の前に藤棚があり、藤が綺麗に咲いていました。






そういえば、これはしずかさんの記事で見たことがあります。

ここを通り抜けると、悪縁を断ち切って、良縁が得られるとか。

 

安井金比羅宮の主祭神・崇徳天皇自ら国家安泰を祈られ、もろもろの一切を断って祈願されたという故事に習い、江戸時代より縁切り祈願が生まれました。後略<案内板より>

 

そうですか・・崇徳天皇と縁切り祈願

意外なところでつながっていたのですね。


 

そういえば、確かこのあたりに、「崇徳天皇廟」もあったのでは?と思ってキョロキョロ探してみたのですが、それらしきものは見つかりません。

前もってしっかり下調べをした訳でもないので、人に聞くわけにもいかず、後ろ髪を惹かれながらも諦めることにしました。

 

このあと六波羅蜜寺や六道皇珍寺に行ったのですが、頭の中は「崇徳」「崇徳」状態。

家に帰ってから調べたら、やっぱり安井金毘羅宮の北にあったのです(;_;)


 

「崇徳天皇廟」には、しずかさんが行かれたので、記事をバトンタッチします。

       by merry


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| 京都 | 12:50 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大吉寺
 

 

平治の乱でひとりはぐれて敗走していた頼朝は、滋賀県長浜市野瀬にある大吉寺(だいきちじ)にも匿われていたとされます。


後に鎌倉幕府を開いた頼朝は、堂宇を再建し、寺領を寄進しました。

 

当時の大吉寺は、天吉寺山(750m)の山頂付近にあり、鎌倉時代には隆盛をきわめましたが、戦国時代に兵火を受け焼失しています。

 

現在は山麓に一子院のみが残っています。

山門


 

本堂

 


 

 大吉寺跡

大吉寺は暦応元年(1338)の勧進帳によると、貞観7年(865)の草創と伝え、「吾妻鏡」「平治物語」には平治の乱のあと源頼朝が大吉寺にかくまわれた事を記している。

室町時代には幕府の祈祷寺として保護を受けていたが、大永5年(1525)の六角定頼の兵火や元亀3年(1572)の織田信長の破却などにより寺院は衰退の一途をたどり、現在、天台山麓の天台宗寂寥山大吉寺の一子院が遺存するのみである。

創建当時の堂宇は、天吉寺山の山頂付近に造営されており、本堂跡、門跡、塔跡、鐘楼跡や覚道上人入定窟、閼伽池などと石階をみることができ、さらに本堂に至る山道の所々に堂宇が建立されていたと推定される平坦部がある<案内板より>

 

そして頼朝は、平頼盛の家人平宗清に捕らえられますが、清盛の母・池禅尼の嘆願などにより助命され、伊豆に流刑となります。

 

しかしこれが後に平家にとって災いになるとは、清盛も気が付かなかったのですね。

        by merry

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| 滋賀 | 11:11 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
源内塚
 

 

滋賀県守山市には、もう1つ源頼朝にまつわる伝承があります。

 

薬師堂



 

平治元年1227日、当時13歳の源頼朝は、平治の乱に敗れて京から東国へ敗走する

途中、野路(草津市)あたりから馬乗で居眠りをし、父義朝一行からはぐれて一騎で守山へ入りました。

その時、源内兵衛真弘らが頼朝の首を獲ろうと襲いかかりましたが、頼朝は「髭切り」と呼ばれる名刀で源内を一刀両断にしました。

村人たちは源内を哀れんで埋葬し、塚をつくったのが、この首塚です。

<案内板より>

 

案内板にある絵は、保元・平治物語(江戸時代の写本)の挿絵です。


 

源内塚は、薬師堂の中にあります。
いくつかの石仏がありますが、源内の首塚は・・?

 

この案内板では、頼朝は草津で父義朝一行にはぐれたと書いています。

いずれにしても、頼朝はひとりでこのあたりをさまよっていたということですね。

 

そしてさらに湖北の長浜市にも伝承があります。

それは次回に。

 

 

源内塚の住所:守山二丁目11-13

 

詳しい地図は⇒みらいもりやま21のページに載っています。

     by merry


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| 滋賀 | 16:32 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
世野山観音寺
 

 

頼朝は、平治の乱に敗れた父義朝に従って東国を目指して敗走していましたが、途中一行とはぐれてしまいます。

しかし、はぐれた事で結果的に頼朝の命は助かり、やがて源氏再興の時が訪れる事にもなります。

運命とは皮肉なものですね。

 

ところで、いったい頼朝はどこではぐれてしまったのでしょうね。

物語などによると、一行は八瀬を越え、堅田から舟に乗り、びわ湖の対岸にある野洲川付近に降りたとされます。
(敗走ルートは諸説あります)

びわ湖をはさんで、堅田の対岸といえば守山市です。

頼朝は、守山までは父たちと行動を共にしていて、ここから運命の分かれ道になったようです。

 

滋賀県守山市水保町「世野山観音寺」に頼朝にまつわる伝承が残っています。

 

世野山観音寺

 





平治の乱で父義朝が敗北し、逃亡中だった源頼朝は、平氏打倒を祈願して馬の鞭(藤鞭)を地に挿したところ、藤が茂生して心願成就の瑞兆を得たとされます。

後に頼朝は鎌倉幕府を開き、祈願が満願成就したとして、観音寺に広大土地を寄付し大伽藍を建てました。

当時の建物は兵火に遭って焼失しましたが、天文5(1536)再興され、現在の寺号に改められました。<世野山観音寺HPより引用>

 

観音寺の門の前に、その伝承の藤があります。

 

「淡海録名藤」(大正時代のもの)の石碑

 

850年余りも昔の事なので、当時の藤は残っていないでしょうが、今でも伝承の藤として大切にされているようです。

庭に、ハスが綺麗に咲いていました。


水保バス停の近くに町内案内図があります。

 

さて、守山市にはもう一つ頼朝にちなんだ伝承があります。

それは次回に。


      by merry


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| 滋賀 | 15:47 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
須賀神社
 

京都市左京区聖護院の須賀神社は、元は鳥羽天皇の中宮である美福門院・藤原得子の御願寺・歓喜光院の鎮守社でしたが、歓喜光院は、鎌倉時代に焼失。



須賀神社は、もとの社地は平安神宮蒼竜楼(そうりゅうろう)の東北にある西天王塚で、岡崎の東天王社に対して古くは西天王社と呼ばれました。



境内にある交通神社は、交通や旅行の安全、旅館業の守り神として信仰されています。また節分の日には烏帽子を被った水干姿の懸想文売りが現れます。その日に売られる懸想文を鏡台や箪笥に入れておくと美人になり良縁があるといいます。

懸想文売り

懸想文は思う人にやる文のこと。
昔京都で正月初めに,頭を白布でおおい,文を結びつけた梅の小枝を手に持って売り歩き,未婚の女などがこれを買い良縁を占った。のちには畳紙(たとうがみ)に米2,3粒を包んで渡し,望むままに夫婦や商売の祝言をのべた。(コトバンクより)



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| 京都 | 00:19 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
青蓮院

青蓮院は、三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされます。



「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことです。
青蓮院は比叡山東塔の青蓮坊が起源であり、平安時代末期の行玄大僧正の時に門跡寺院となって山下に移りました。

久安6年(1150年)美福門院が、青蓮院を祈願所とし、また、鳥羽上皇の第7皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、青蓮院は、皇族や摂関家の子弟が門主を務めてきました。
山下へ移転した当初は三条白川にありましたが、鎌倉時代に現在地へ移りました。
江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」も呼ばれ、日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られています。





3代門主の慈円は、藤原忠通の子で、歌人としても知られ、『愚管抄』の著者としても有名です。
17代門主の尊円法親王は、伏見天皇の第6皇子で、尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれました。
室町時代に門主を務めた義円は、後に室町幕府第6代将軍・足利義教となりました。

青蓮院

三千院、妙法院と並ぶ天台宗三門跡の一つで、天明の大火(一七八八)の際に仮の御所となったことから、粟田御所とも呼ばれる。
最澄(伝教大師)が比叡山に建てた僧侶の住居の一つ「青蓮坊」に始まるとされ、平安時代末期の行玄のときに三条白川(現在地のやや北西)に移り、鳥羽法皇の第七皇子が行玄の弟子として入寺して以来、皇族や摂関家の子弟が門主(住職)を務める「門跡寺院」となった。
歴代門主のうち、三代の慈円は歴史書『愚管抄』の著者として有名で、十七代の尊円入道親王は和風と唐風を融合した青蓮院流(のちの御家流)と呼ばれる書風で知られる名筆家であった。 境内全域が国の史跡に指定されており、粟田山の山裾を利用した庭園は、龍心池を中心とした優美な池泉回遊式庭園で、主庭は相阿弥の、霧島の庭は小堀遠州の作と伝えられている。また、神宮道沿いの門前には、この寺で出家した親鸞聖人のお手植えと伝わる巨大な五本の楠(京都市登録天然記念物)がある
。 寺宝として、青黒く描かれていることから「青不動」の名で知られる「不動明王二童子画像」(国宝)をはじめ、多数の文化財を蔵する。円山公園東の山頂に、飛び地の境内である将軍塚大日堂を有し、そこからの京都市外の眺めは格別である。(案内板より)

青蓮院は、夜のライトアップでも有名です。













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| 京都 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
常盤井の井筒
 
京都・伏見にある御香宮神社常盤御前がのどを潤したという常盤井の井筒があり、今は御香宮神社の末社弁天社前の石橋になっています。



元は伏見砲兵工廠(こうしょう)の中にありましたが、埋め立てられたため、井戸枠だけがここに納められたそうです。
(境内をぐるっと歩いただけではどこかわからなかったので、受付の方に教えていただきました。)



また御香宮神社の表門は、元和8年に徳川頼房が伏見城の大手門を拝領し、寄進したものです。

本殿は徳川家康が造営したもので、正面には極彩色の彫刻が施され、華やかな桃山建築の特色が表れています。





本殿の手前の左側には御香水が湧き、水を汲みに来ている人の姿を見かけました。



社殿を修造した862年に、境内より良い香りの水が湧き出して、その水を飲むと病気が治ったよいうことで、清和天皇より御香宮の名を賜ったとされています。



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| 京都 | 00:37 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
常盤御前就捕処

数年前のことですが、京都の伏見にある常盤御前が捕らえられたところに建つ石碑を訪ねました。

近鉄「桃山御陵駅」から徒歩で数分という情報を頼りに歩いて回ったのですが、この石碑をご存じの方が見つからず、最終的にバイクで配達していた郵便屋さんに教えていただきました。

敷地内は、工事中で立ち入り禁止になっていたため、離れたところから、ビデオをズームにして撮影しました。

こちらが裏側
 


こちらが表側

「常盤御前就捕処」の文字が見えます。

 

平治の乱で夫の義朝を殺され、今若、乙若、幼い牛若たちを連れて逃避行していた常盤は、自分の母親が平家に拘束され、拷問を受けていることを知り、自ら六波羅へ出頭しようとする。
しかし、奈良から戻る途中にこの場で平家に捕まってしまったという。

この地はかつて陸軍第十六師団の工兵第十六大隊の衛戍地で、明治44年、大隊長藤正武がここに「常盤御前就捕処」という石碑を建てたとのことです。
 
京都市歴史資料館の方のお話では、常盤御前が六波羅まで無事に辿り着いたとの説とこの地での捕縛の説、真偽のほどはわからないそうですが・・・


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| 京都 | 23:50 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
柴ヶ森

名古屋の弥富市柴ヶ森にある史跡「柴ヶ森」を訪ねました。


 
平治元年(1159)12月の「平治の乱」で平家に敗れた源義朝らは、青墓の宿(現大垣市)まで逃れてきたが、平家の追及が厳しいため、舟に積んだ柴の下にかくれて、知多の野間へ落ちていくことにした。
途中、平家の検問を逃れ、松田(現立田村)で粥をごちそうになり、この地、二之江まできて、もう大丈夫だろうと舟荷の柴を川岸に上げた。
このことから「二之江村」が「荷之上村」と改められた。
また、川辺の柴は、芽を出し年々大きな森となった。これが「柴ヶ森」である。
記念碑の題字「柴ヶ森」は、佐屋町出身の元内閣総理大臣加藤高明の書である。
 (弥富市教育委員会)

柴ヶ森には八幡神社があります。







近隣の人々によって大切に守られている歴史を感じるお社でした。



駅を降りると、辺りはのどかな田園風景です。

バスやタクシーなどは見かけませんでした(^_^;)



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| 愛知 | 00:31 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP