大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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河内源氏三代の墓
 

 

大阪羽曳野市の通法寺には、河内源氏三代(頼信⇒頼義⇒義家)のお墓があります。

 

通法寺は、河内源氏初代・源頼信が小堂を建てたことから始まり、二代目頼義が阿弥陀仏を本尊として河内源氏の菩提寺としました。

その後、南北朝時代に焼失して江戸時代に再建されましたが、明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となりました。

 

現在は山門と鐘楼などが残っているだけです。

 

山門をくぐってすぐに二代目・頼義のお墓があります。

頼義は88歳で亡くなり、この通法寺境内に埋葬されたといわれています。

 

 

この横に鐘楼があったようですが、パスしてしまいました()

 

道なりに進んで行くと三代目・義家のお墓があります。

義家は京の邸宅で死去し、この地に埋葬されました。享年68歳。

 

さらに奥に進むと、初代・頼信のお墓があります。

頼信は81歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られました。


 

源為義が61歳で斬首され、義朝が38歳で謀殺されたことから思えば、初代、二代目は長寿ですね。

為義・義朝父子は、それだけ激動の時代に生きていたということです。

 

なお、このあたりは人通りも少ないので、歴女の一人歩きは危険かと思います。

幸い私はしずかさんと一緒に行ったので、心強かったです。

   by merry 


      

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| 大阪 | 11:52 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
壺井八幡宮〜河内源氏発祥の地
 

 

源為義、義朝は河内源氏ですが、さて河内源氏とは何なのでしょう?

知っているつもりで知らないので、改めて調べてみることにしました。

 

源氏のルーツは清和天皇にありますが、初めて武士団を形成したのは、天皇の孫にあたる満仲であったと云われています。

その満仲の長子である源頼光が、父の摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を継ぎ、摂津源氏の祖となりました。

そして次男の源頼親が大和源氏の祖となり、三男の源頼信が河内源氏の祖となりました。

 

長子・源頼光といえば、酒天童子討伐や土蜘蛛退治の武勇で有名ですが、意外にも後に源氏の主流となったのは三男・源頼信の河内源氏でした。

鎌倉幕府を開いた源頼朝はもとより、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏の子孫です。

また新田氏、細川氏などの多くの名門を輩出しています。

 

 

大阪府羽曳野市は、その河内源氏発祥の地です。

 

壺井八幡宮



 

この台地は1020年に源頼信が河内守赴任直後、河内源氏の本拠と定めた香炉峰の一角に当たるが、その後1064年、前九年の役を平定した源頼義が岩清水の神を勧請し、守護神として創建したのが始まりである。

現八幡宮及び権現社は元禄期に綱吉の命で再建されたものを平成に復元修理されたものです。

 

壺井権現社

 

 

源義家公の歌碑


吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな

 

 

戦よ、もう起こってくれるな。桜の花が散るように、人の命も散るではないか

 

これは千載和歌集に載せられている義家公の和歌です。

 

源義家は河内源氏三代目で、初代・頼信の孫にあたります。

八幡太郎義家とも呼ばれ、武勇に秀で源氏の中でも花形の英雄と崇められています。

 

簡単に河内源氏の系図を書くと

頼信⇒頼義⇒義家⇒義親⇒為義⇒義朝⇒頼朝・・となります。

 

ちなみに為義は、義家の孫とも、子であるとも云われています。

 

樹齢1,000年の楠


 

壺井八幡宮から続く通法寺には、河内源氏三代(頼信⇒頼義⇒義家)のお墓があります。

それは次の記事にします。

           by merry


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| 大阪 | 11:37 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
義経誕生の地
 

京都市北区紫竹牛若町は源義朝の別邸があった所です。

平治の乱があった年にここで義経が生まれたとされ、あたり一帯には常盤御前や牛若丸ゆかりのお寺や碑がたくさんあります。

 

まずは紫竹東栗栖町にある「常徳寺」です。

ここには常盤御前が牛若丸の誕生に際し、安産を祈願したという「地蔵菩薩坐像」があります。しかし一般公開はされていません。

 

また紫野上野町にある「光念寺」には常盤御前の守り本尊「腹帯地蔵」がありますが、ここも一般公開はされていません。


 

そして少し歩くと、畑の中に、牛若丸誕生井と胞衣塚があります。

 





また少し離れた場所にも牛若丸産湯井の跡があります。


 

誕生井と産湯井・・ふたつも井戸跡がある?

どっちが本物?

 

いやそうではなくて、それだけ義朝の邸が広かったということです()

                     by merry


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| 京都 | 11:22 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
信西邸あたり
 

私が持っている資料に、平安京の邸宅位置が描かれた地図があります。

それによると、信西の邸宅は姉小路西洞院にあり、ちょうど高松殿の西隣に並んで建っていたようです。

 

高松殿といえば、後白河天皇が即位し、また保元の乱の舞台ともなった場所です。

後白河天皇の乳母の夫として、お隣さんに住んでいたのですね()

高松殿

 

地図によると、信西邸は姉小路西洞院の西側のようです。

 

でも、もしかしたら東側かも知れませんね(笑)

 

今は見る影もありませんが、当時は政治の中枢を握った信西の豪華な邸宅があったのでしょうね。




 

信西は学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られた人物ですが、家柄が低いために官職に恵まれず、39歳で出家しました。

しかしその出家は、世捨て人になるのではなく、出家によって身分制度の壁を取り払おうとする狙いがあったようです。

 

狙いどおり鳥羽上皇に接近して要職につき、上皇が「天皇の器ではない」とみなしていた雅仁親王を強引に後白河天皇として即位させ、やがて絶大な権力を振るうようになりました。

 

しかしそれが院近臣や貴族の反感をかい、平治の乱へとつながっていくのです。

まさに「出る杭は打たれる」ですね。

       by merry


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| 京都 | 10:38 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
平家琵琶
 

「平清盛展」の開催に合わせて、平家琵琶演奏会に無料招待という情報を得たので、往復はがきで申し込みました。

先着200名という事だったのですが、ラッキーなことに189190番の参加券が届きました。

ぎりぎりセーフだったようです。


 

場所は「清盛展」が開催されている京都文化博物館の隣、別館ホール


 

別館は、旧日本銀行京都支店の建物です。

東京駅と同じ設計者により建築された赤レンガ造りで、重要文化財になっています。


 

渡り廊下でつながっている建物は「金庫棟」

当時は、どっさりとお金が入っていたのでしょうね。


 

さて、ホール内の席は自由なので、開場時間の30分前から並びました。


そして受付を済ませると、一番前の真ん中・・つまり演奏者の前の席をゲットしました()

 

演奏は、平曲弾き語り奏者 荒尾 努さん。

僧侶のような衣装で登場です。

 

祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理を表す

 

これが聞きたかったんです〜

昔、古典で習った平家物語の最初の部分ですが、文章で読むのと、琵琶を奏でた歌を聴くのとは全然違いますね。

 

そして

「大塔建立」

「敦盛最期」

「那須与一」

「先帝御入水」

90分余りの間、平家物語の有名な場面を、トークを交えながら次々と弾き語りをして下さいました。

じっと聞き入っていると、だんだんと平家物語の世界に引き込まれ、「先帝御入水」の段になると涙が溢れてきました。

 

考えてみれば「清盛展」を見たのは無料の招待券。

平家琵琶の演奏会も無料の招待券。

 

W無料招待券で、1日楽しく、そして見聞を広める事ができたのです。
・・嬉しくて、また涙が出そうです(笑)

 

     by  無料大好きmerry



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| イベント | 16:51 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
平清盛展
  

清盛の時代と生涯をたどる「NHK大河ドラマ50年特別展 平清盛展」が2012616日から京都文化博物館で始まりました。

早速、昨日(17)行って来ました。

 

京都文化博物館

 



4階と3階の特別展示室で清盛に関する資料がたくさん展示されていましたが、私が一番興味を持ったのは、厳島神社に奉納された清盛と頼盛合筆の納経です。

 

一枚の紺地の紙に金字で、最初は清盛が書き、その続きを頼盛が書いているのですが、清盛の字はゆったりと大らかで、頼盛の字は大変貴重面でした。

それにしても昔の人は、皆さん達筆ですね()

 

そして後白河法皇像や鳥羽法皇像、そして待賢門院像もありました。

待賢門院璋子さま・・とてもお綺麗ですね。

 

 

他にも六波羅合戦図屏風や保元・平治物語絵巻、平重盛が奉納したと伝わる紺糸縅鎧などなど、たいへん見応えがありました。

 

10時の開館と同時に入ったのですが、すべて見終わったら12時前・・

 

疲れました()

 

その後、急いで食事をして、午後は
じゃ〜〜ん

平家琵琶を聞くのです。

 

その記事は次回に。

       by merry 


     

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| イベント | 21:19 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
源氏六条館跡
 

 

平安時代、六条の地には広大な源氏の邸宅があったと云われています。

その範囲は詳しく限定されていないようですが、当時を偲ぶゆかりの地がいくつかあります。

 

ひとつは、若宮町にある若宮八幡宮です。


源為義の祖父(曽祖父という説もあり)・頼義が左女牛西洞院に邸宅を構え,天喜元年(1053)、邸内に若宮八幡宮を勧請しました。


 

この八幡宮は、鎌倉幕府や室町幕府によって手厚く保護されましたが、応仁の乱などにより荒廃し、のち天正11年に東山へ移され、さらに慶長10年に五条坂下に移されました。

しかし江戸時代に、若宮町内の住人によって再び元の地に若宮八幡宮が祀られて現在に至っているそうです。

 

もうひとつは堀川五条を下がった西側にある左女牛井(さめがい)跡の碑です。


この井戸は源氏の六条堀川館に引きこまれていたもので、京の名水として江戸時代まで引き継がれたそうです。

 

 平家が都落ちした後に入京した義経の館も、六条堀川にありました。


六条界隈は、源頼義、義家、為朝、義朝、そして義経と、歴代にわたる源氏の本拠地でした。



             by merry


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| 京都 | 13:48 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
権現寺〜源為義の墓
 

京都市営バス「七条七本松」で降り、商店街の間にある細い路地を南に向かって入って行くと、権現寺があります。

 

源為義のお墓はお寺の前にあります。

 

 

フェンスに囲まれていて、中には入れません。

 

 源為義公は保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男義朝の手で処刑された。

保元物語では、義朝の部下鎌田正清と波多野義通によって七条朱雀で切られ、圓覚寺に埋葬されたとある。

寺伝によれば当山中興(1596)のはるか昔より、丹波街道(七条通り)を挟んだ北側に源為義公の墓があった。五輪塔は貞享3年(1686)の為義公の年忌法要に際し、再整備したものである。

明治45(1912)京都駅操作場の拡張工事に伴って、現在の中央卸売市場から現在地に移設した。その際に、五輪塔の下から水輪などの石塔の一部が見つかり水輪を積み重ねるなど現在のような姿にしたとのことである。
<案内板より引用>

 

明治45年の移設碑


 

1596年と言えば、関ヶ原の戦いの4年前。

それより、はるか昔から七条通りに源為義のお墓があったというから、もしかしたら処刑されてすぐにお墓が建立されたのかも知れませんね。

 

・・とすると、建立した人物は義朝?

 

為義と義朝は父と子でありながらも河内源氏の内紛から対立することが多かったようです。

しかし、そこはやっぱり血の通った親子。

戦いに敗れ斬首された父の無念を想い、このお墓を建立したのではないでしょうか?

これはmerry説です()

                               by merry


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| 京都 | 12:36 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
源氏ボタル
 

 

今朝、我が家の庭で源氏ボタルを発見!

 

大きいホタルを「源氏ボタル」小さいホタルを「平家ボタル」と呼びますが、なぜなんでしょう?

 Wikipediaで調べてみました。

平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた源頼政の思いが夜空に高く飛び舞う蛍に喩えられた。 平家に破れた源頼政が亡霊になり蛍となって戦うと言う伝説があり、「源氏蛍」の名前もここに由来している。


違う種類のホタルが、清和源氏と対比する意味で「ヘイケボタル」と名づけられたという説もある


 

昨夜放送の大河ドラマ「平清盛」で、保元の乱に敗れた源為義が六条河原で斬首されましたね。

今朝タイミングよく現れたこのホタル・・
もしかして為義様?

        by merry


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| - | 10:56 | comments(11) | - |- pookmark↑PAGE TOP
船岡山
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」

 保元の乱で、藤原頼長、崇徳上皇方についた平忠正は、後白河天皇方に敗れ、伊勢に逃亡、しばらく潜伏した後、甥の清盛を頼って子の長盛、忠綱、正綱、通正を伴い投降しました。

しかし武士に対する処罰は厳しく、死罪という罪名宣旨が下り、清盛の手によって、六波羅で処刑されました。薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑の復活には疑問の声を上がりましたが、法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかったそうです。

平忠正に二日遅れて、源為義の処刑が行われました。 為義は頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、敗戦後、東国へ落ち延びようとしましたが、義朝のもとに降伏し、出家します。

義朝は自らの戦功に代えて、為義と弟たちの助命を願うが許されず、7月30日に息子の義朝によって斬首されました。
 
場所は、『保元物語』では七条朱雀で一人斬られたことに、『兵範記』では船岡山で、息子5人とともに処刑されたとされています。

船岡山は、京都市北区紫野北舟岡町にある標高111.7m、面積2万5千坪の小山であるで、船岡山城の遺構が建勲神社、船岡山公園として整備され、京都市街が一望できます。





船岡山という名は、山の形が舟の形に似ていることから付けられたそうで、山頂には三等三角点があり、五山送り火の1つ「大」の字が見えます。





船岡山は標高四十五米、周囲千三百米、面積ニ万五千坪の優美な小山であり、その南東側は建勲神社境内で特にうっそうとした森に被われている。豊臣秀吉の頃より信長公の霊地として自然がそのまま残され、京都盆地特有の樹相が良く保たれている。樹種が極めて多く、帰化植物がほとんど入りこんでいない京都市内で数少ない森とされている。
船岡山は聖徳太子の文献にもその名が出ており、又、京都に都が定められた時、北の基点となり、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となった。平安朝の昔には清少納言が枕草子で「丘は船岡・・」と賛え、又、大宮人の清遊の地として多くの和歌が残されている。
 
船岡の若菜つみつつ君がため 子の日の松の千代をおくらむ(清原元輔)

戦国時代の応仁の大乱の際、この船岡山が西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれている。
(案内板より)

私はこの建勲神社の入り口から上がって行きました。



船岡山は、京都の心霊スポットのひとつにも挙げられているそうですが、歴史を遡れば、このような処刑が行われたり、応仁の乱の舞台にもなったところですから、歴史的な背景も忘れないでおきたいですね。

by shizuka


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| 京都 | 20:44 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP