久安6年(1150)9月26日。藤原忠実の命を受けた為義が源氏勢を率い、藤原摂関家当主・忠通の邸宅である東三条殿に突入しました。
目的は、藤原摂関家の氏長者(氏全体の統率者)のみに伝わる家宝である朱器台盤を持ち出すこと。
そして源氏によって持ち出された朱器台盤を、忠実は二男の頼長に与え、藤原摂関家の氏長者としました。
この3人がややこしいですね。
藤原忠実が父で、忠通が長男、そして頼長が二男です。
簡単に言えば、父が長男の氏長者の地位を剥奪して、二男に与えたのです。
というのも、忠通には長く男子が誕生しなかったため、忠実の命令を受けて23歳年下の異母弟・頼長を養子としていました。
摂関家嫡流の相続は、養子である弟の頼長にいくはずでしたが、そこに男子が誕生したのです。
よくある話ですね、当然モメます。
兄弟は他人の始まりといいますが、やっぱり実子に相続したいのが人情ですからねぇ。
この忠実・頼長対忠通のバトルは近衛帝の妃問題でも対立していました。元服してまだ間がないというのに、頼長の養女・多子(まさるこ)と忠通の養女・呈子(しめこ)が競うように相次いで入内するというありさまです。
この藤原摂関家の兄弟争いは、とうてい修復不可能な状態に陥り、それが保元の乱の一因となりました。
東三条殿址
東三条院の址はこの辺りを中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130m、南北約280mに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。<中略>邸内は尊美を極め、邸内池には竜頭船を浮かべて天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴がさかんに行われた。邸は安元3年(1177)に火災で焼失した。
東三条殿址の石碑は、釜座通りと押小路通りの交差点にあります。
by merry
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