大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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江の葬儀
 
寛永3年(1626)年9月15日、江は波乱に満ちた54年間の生涯を終え、荼毘に付されました。 江(崇源院)は、徳川歴代将軍家の中で、唯一火葬された人です。

ここで、「火葬」というのが気になりますね。

当時、身分の高い人は火葬せず、土葬の習慣。流行り病などの場合は、火葬をしましたが、大量の薪を使い、時間も費用もかかる火葬のやり方だったそうです。
江の火葬の理由には、毒殺説と本人の希望であったという説があります。
毒殺だとしたら、体に証拠が残ってしまうから、火葬したということなのでしょうね。そして、毒殺説には、夫と息子たちの上洛中に、急に江が具合いが悪くなり、亡くなったということから、春日局を疑う見方もあるようですが、真偽のほどはわかりませんね。
 
江の遺体は、増上寺から麻布台を経て荼毘所に移されたといいます。
一説によると、 江の荼毘所は、麻布野と呼ばれた広野に営まれました。増上寺から1000間(約2kmほど)の間にむしろが敷かれ、その上に白い布が置かれ、江の遺体は、この布の上を増上寺から麻荼毘所まで運ばれました。 1間ごとに警備の武士が置かれ、蝋燭が掲げられました。
斎場は役200m四方の広さがあり、四方に門がつけられていました。
荼毘に付される前に香が焚かれていたため、江の遺体に積み重ねられた沈香に火が放たれると、周囲1km余りに香りと煙が広がったそうです。

火葬を取り仕切った浄土宗の寺・深広寺・教善寺・光専寺・崇巌寺・正信寺(のちに小石川に移転)の5寺に火葬地一帯の寺領が与えられました。
 
六本木墓苑は、これらの寺が、戦後の道路拡張で崇巌寺の跡地に集約した共同墓地です。


 IMG_2698 B

この墓地には、家康の養女である高運院(会津領主・加藤明成の正室、保科正直の四女、会津藩主・保科正之の叔母にあたる)が眠っています。

by shizuka


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| 東京 | 00:29 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鎌倉の建長寺
鎌倉の建長寺は、鎌倉幕府5代執権・北条時頼によって創建された禅宗寺院です。



以前は49もの塔頭がありましたが、火災で多くが焼失し、現在のものは大半が江戸時代の再建です。

総門



天明3年(1783年)の建立。1943年に後土御門天皇によって建立された皇室ゆかりの京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものです。
 
山門



安永4年(1775年)の建立で、2005年に重要文化財に指定されています。初層には仁王像などを置かず、上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置しています。

仏殿



重要文化財の仏殿は、増上寺にあった江(崇源院)の霊屋を建て替えに際に譲り受け仏殿としたものです。 正保4年(1647年)に建長寺に移築され、本尊・地蔵菩薩を安置しています。
屋根は寄棟造、天井は和様の格天井(ごうてんじょう)。
 
唐門



重要文化財で方丈入口の門。
仏殿と同じく、江の霊屋から移築したものです。
寛永5年(1628年)に江の霊屋の門として増上寺に建立の後、1647年に仏殿とともに建長寺に移築されました。

傷みが進んだため、一年半近くの修理が行われ、今年5月30日に落慶法要が営まれました。

上の画像は、修復前のものです。
今回の修理で、ほぼ建立時の唐門を再現したそうですよ。 私が建長寺を最後に訪ねたのは一昨年のこと。
見違えるように美しくなった唐門をまた訪ねてみたいものです。


by shizuka


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| 神奈川 | 00:58 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
徳川家ゆかりの知恩院 千姫の墓

京都東山の知恩院 浄土宗総本山。

法然上人が、1175年(承安5)吉水に設けた草庵に始まり、その後、二代源智上人が法然上人の廟所を復興して基礎が築かれました。火災や兵乱に遭いながらも、徳川家康、秀忠、家光により現在の壮大な伽藍が造られました。

まずは国宝の三門をくぐります。
二代将軍・秀忠によって建てられ、現存する二階建ての山門としては最大のものだそう。 20100319_709393.jpg

長い長い階段をのぼります。


 20100319_709396.jpg

その後かなりの筋肉痛(笑)
 
しかし、階段を登り切るとこんな景色が!

 20100319_709398.jpg

阿弥陀堂
 

20100319_709399.jpg 

御影堂



 法然上人の御影を安置しています。徳川3代将軍・家光により、寛永16年に再建されました。

知恩院の方丈庭園に進みます。

方丈庭園は、江戸時代に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたとされています。




池泉回遊式の庭園なので、池に沿ってぐるっとまわっていきます。












二十五菩薩の庭

















ここまで来ると、結構高いところまで上って来たのがわかります。

権現堂 


20100319_709420.jpg


小方丈の奥に建つ小規模な仏堂で、内部に徳川三代家康・秀忠・家光の位牌と肖像画を安置して
います。

 

残念ながらこの時は拝観できませんでしたが、いつか機会があればまた訪ねてみたいと思います。

知恩院には千姫のお墓があります。

千姫の墓

20100319_709431.jpg 

千姫は、 徳川秀忠の長女で、幼くして、豊臣秀頼の元へ嫁ぎますが、大阪の陣により徳川家の元へ保護されました。その後、姫路城主 本田忠政の嫡男 忠刻のもとへ再嫁しますが、忠刻らの病死により、弟の三代将軍 徳川家光の元へ戻ります。千姫は出家して天樹院と号し、江戸の竹田御殿で余生を過ごしたといわれています。

濡髪大明神


知恩院を火災から守る、濡髪童子をお祀りしています。
また、「濡髪」という名のため、昔から祇園町のきれいどころの信仰を集めています。








法然上人の御廟









帰りはこの急な坂を降りていくだけですので楽ですよ 

 

 

by shizuka


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| 京都 | 00:47 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
千姫のその後
JUGEMテーマ:江〜姫たちの戦国〜NHK大河ドラマ



第42回「大阪冬の陣」で、豊臣方を代表し、和平交渉に臨むこととなったのは、三姉妹の次女:初(常高院)でした。1614(慶長19)年1218日、19日の2日間にわたっての交渉で和睦にいたります。しかし、老獪な家康は、淀と秀頼を追い詰めていきます。



今回は、豊臣秀頼に嫁いだ千姫の話です。



千姫は、1597(慶長2)年4月、秀忠と江の長女として産まれる。
1603(慶長8)年、7歳で秀頼と結婚する。秀頼(母は江の姉:淀)とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。1615(慶長20)年、19歳時、大坂夏の陣で、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
一説
には坂崎出羽守が猛火をかいくぐり助け出したとゆう説もあります。

江戸城へ帰る道中、警護にあたっていた桑名藩本多忠政の
息子・忠刻(ただとき)
出会い、さっそうとした若武者
ぶりにほのかな恋心を抱きました。
1616(元和2)年、本多忠刻と結婚。千姫20歳、
忠刻21歳の時でした。結婚の翌年、父・忠政が姫路に国替え
となり、夫・忠刻とともに姫路城に入城します。
この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を
強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは
家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。

姫路城














 


父・忠政は、二人のために三の丸に屋敷が建てました。
西の丸には、侍女(じじょ)が住む長局(ながつぼね)が
建てられ、千姫が忠刻とくつろぐ
化粧櫓がありました。
夫婦の仲もよく、人々は「夫婦雛(みょうとびな)のよう」
と噂し、勝姫(かつひめ)と幸千代(ゆきちよ)の一男一女
にも恵まれ、「千姫は、夫・忠刻と暮らした姫路城での生活
(10年間)が生涯で一番幸せだった」と語っています。

化粧部屋















化粧櫓
しかし、その平穏な生活も忠刻が、1626(寛永3)年に
結核のため死去しました。享年31。千姫は出家して天樹院と
号し、江戸の竹田御殿で余生を過ごし、1666(寛文6)年、
0歳で波乱の人生を閉じました。
 ダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤ
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| 兵庫 | 00:44 | comments(10) | - |- pookmark↑PAGE TOP
増上寺の徳川将軍家霊廟

 今年の春に、徳川墓所の公開に行って来ました。


 
徳川墓所は、法要など年7回の無料公開などに限り、一般には非公開としていましたが大河ドラマの放映にあたり人々の関心に考慮したものだそうです。 通年で一般公開するのは初めてのことなのだそう。



今年の大河の主役・江のお墓があるということで、この日も朝から大勢の人が詰めかけていました。

徳川墓所(徳川家霊廟)

戦災で焼失した旧徳川家霊廟は、壮麗なものであったそうです。 昭和33年に発掘された土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬されました。
戦後荒廃した墓地は、六代家宣の宝塔前にあった中門が現在の墓所の門として安国殿の背後に改装されています。
焼け残った建築のうち以下のものが重要文化財に指定されています。

●台徳院霊廟 惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)
●台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門(埼玉県所沢市の不動寺(西武ドーム前)に移築されている) ●有章院霊廟 二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)
 
増上寺に埋葬されているのは、2代秀忠、5代将軍兄弟の綱重、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として2代秀忠夫人・江(崇源院)、6代家宣夫人(天英院)、11代家斉夫人(広大院)、13代家定夫人(天親院)、14代家茂夫人・和宮(静寛院)の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人です。
 
鋳抜門





この門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものです。左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている青銅製の門。

いよいよ中に入ります。



鋳抜門の裏側





左右に立ち並ぶ宝塔



霊廟の被葬者
 
■2代将軍秀忠(台徳院・崇源院):正面右側に2代秀忠公の宝塔があり、焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでしたが、戦災で焼失し、現在は江(崇源院)と共に合祀されています。


 
■6代家宣夫妻(文昭院・天英院):青銅製、入口より向かって左最奥部
■7代家継(有章院):石塔、入口より向かって右・秀忠夫妻墓の手前
■9代家重(惇徳院):石塔、家継墓の手前
■12代家慶(慎徳院):石塔、入口より向かって右最前部
■14代家茂(昭徳院):石塔、入口より向かって左・家宣夫妻墓の手前
■家茂夫人和宮(静寛院):青銅製、家茂墓の手前
■合祀塔 入口より向かって左最前部 家宣の父・綱重(清揚院)、5代綱吉の生母・桂昌院、11代家斉の正室・広大院、13代家定の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院・殊妙院。
その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されています。合祀以前はそれぞれ宝塔・墓が独立していました。




墓所の中からも東京タワーが見えます。


 
この景色を江と秀忠はどのような思いで眺めているのでしょうか。
 
戦乱の世を生きた江と秀忠・・・今では仲良く静かな時を過ごしているのでしょう。
 
※徳川家霊廟特別公開は好評につき平成24年1月末日まで期間延長されたそうです。 詳しくはこちらをチェックしてください。↓

増上寺HP http://www.zojoji.or.jp/event/ev_tokugawa.html




by shizuka


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| 東京 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
長善寺(笹寺)

東京メトロ丸ノ内線の四谷三丁目より新宿通りを250mほど西に進むと、長善寺(笹寺)があります。


 

当寺は、天正3年(1575)甲斐国武田氏の臣高坂弾正昌信の居所に結ばれた草庵を起源とします。
 

長善寺の縁起によると 曹洞宗・最善寺は、天正3年(1575)、「甲陽軍艦」の著者として知られる甲斐国(山梨県)武田氏の臣高坂弾正昌信の居所にむすばれた草庵から起こった。開山は文叟憐学和尚で、本尊の釈迦如来石像は元禄3年(1690)7月につくられたものである。

 
 

当寺は笹寺とも呼ばれていますが、この名は、秀忠が鷹狩の途中ここに立ち寄り、境内に笹が繁っているのを見てつけたものだという説(「江戸名所図会」など)、家光が江戸巡覧をした時のことだという説(寺伝)があるそうです。 



当寺の宝物となっている赤めのうで彫られた観世音菩薩像「めのう観音」が秀忠の念持仏で、秀忠の死後に江(崇源院)が寄贈したといわれています。
 
 

長善寺(笹寺)のめのう観音像 赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像である。像高4.9cmの小像であるが、容貌は豊麗で精密な作品である。黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根をもち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮彫りがある台座に安置されている。本像は、二代将軍徳川秀忠の念持仏を、夫人の祟源院から賜ったものと伝えられている。(新宿区教育委員会)

by shizuka


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| 東京 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西巣鴨の大日堂
 西巣鴨にある大日堂

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都電荒川線「庚申塚」より約250m、西巣鴨小学校の北東、明治女学校跡地から歩いて数分のところに秀忠に仕えた僧が建立したお堂があります。

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大日堂は、徳川幕府二代将軍秀忠とその夫人徳子(法名崇源院殿)に仕えた春海和尚により、承応2年(1653年)に建立されたものであり、堂内には像高約1メートルの石造大日如来坐像が安置されている。
春海和尚は湯島天神下にあった平等山真如寺宝性院の開山であり、もとは俗名久目助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えた。秀忠とその夫人の没後「新葬」の際に、宝性院は納経を行ったが、その時に与えられた布施で豊島郡巣鴨村内のこの地に土地を求め、石造大日如来坐像を安置するために大日堂を建立したという。(案内板より抜粋)

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明暦2(1656)年の庚申塔があります。

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by shizuka


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| 東京 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
狭山山不動寺 増上寺から移築された門

今年の春、埼玉県所沢市にある狭山不動尊に行って来ました。
正式名は狭山山不動寺という天台宗のお寺です。
西武グループ創業者の堤康次郎は、空襲で焼けた増上寺の一部を買い取り、ホテル建設の用地整備のため、昭和33年(1958)に将軍家墳墓を発掘改葬しました。 その際、遺構や遺物を保存するために狭山不動寺を建立し、増上寺にあった勅額門、御成門、丁子門を移築しました。

西武球場前駅の改札を出ると、西武ドームが左手に、狭山不動寺とゆり園が右手に見えてきます。











台徳院霊廟勅額門







寛永9年(1632)家光により増上寺の南霊屋に建てられたもので、四脚門形式切妻造りです。 台徳院は、秀忠の院号。後水尾天皇直筆の勅額を掲げることからこの名がついています。 後水尾天皇は、紫衣事件では、禁中並公家法度に違反し、幕府の許可なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた為、家光が勅許状の無効を宣言し、後水尾天皇と将家光が対立する形となりました。その後、朝廷が幕府の勅許状無効宣言に異議を唱え、大徳寺の住職・沢庵宗彭、妙心寺の東源慧等らの高僧も、幕府に抗議しましたが、幕府は、反抗した高僧達を奥羽への流罪に処しました。 紫衣事件に加え、家光の乳母・春日局が無官のまま参内したという事件(異説あり)により、後水尾天皇は、幕府に対する抗議から、33歳の若さで退位し、江と秀忠の娘・和子の産んだ興子内親王を明正天皇として即位させました。 この勅額門を抜けて階段を上がると御成門があります。

台徳院御成門





寛永9年(1632)年、家光により建立された切妻造りの門で、将軍参詣のために使用されました。 飛天の彫刻や絵画が多く描かれているので天人門ともいわれています。 格天井の中央に丸い鏡天井が設けられた珍しい造りで、色鮮やかな豪華な門です。










緑豊かな静かなお寺です。

by shizuka


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| 埼玉 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
台徳院霊廟惣門

台徳院霊廟惣門は、芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内にあります。



寛永9年(1632)に造営された徳川秀忠(台徳院)の霊廟にあった惣門で、3代将軍・家光が建立させたもの。

金剛力士像を左右に配置した芝の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きな立派なものでしたが、昭和20年(1945)の戦災で、罹災を免れたのは、惣門、勅額門、御成門、丁字門のみでした。
戦災を免れて現在も残る、貴重な遺構で、国重要文化財に指定されています。なお、台徳院霊廟の勅額門、丁字門、御成門はホテル建設に際し、埼玉県所沢市の不動寺(西武ドーム前)に移築されています。






木造仁王像 二躯 重要文化財

「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置されている寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。
平成十六年から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川ロ市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(一七八九)、弘化三年(一八四七)のニ度にわたり修理が行われていることがわかりました。
さらに安政二年(一八五五)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和二十三年(一九四八)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。
本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。
(港区教育委員会)

増上寺の三解脱門より歩いてすぐのところにありますので、お見逃しないように!

 by shizuka


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| 東京 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
増上寺 三解脱門
 
先日、東京に行った際、11月末まで特別公開中の増上寺・三解脱門(三門)の見学に行ってきました。

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地下鉄の大門で降りると、三解脱門の手前にある増上寺の表門・大門が見えてきます。 

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三解脱門の公開は、戦後初で約60年ぶりなのだそうです。そのせいか平日でも行列ができていました。
 
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徳川家の菩提寺である増上寺は慶長16年(1611)徳川幕府により建造されました。

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江戸初期に大造営された三解脱門は、間口約20メートル、奥行き約9メートル、高さ約21メートルで入り母屋造り、本瓦ぶきの二重門。戦災をまぬがれた建物の1つで、国の重要文化財に指定されています。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされています。


 
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二階階段はかなり急で、上り下りがかなりきつかったです。 

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三門の内部は撮影禁止なので、外からの写真のみです。 二階の内部に入ると、釈迦三尊像、その両脇に8体ずつで計16体の十六羅漢像、それらを囲むようにして増上寺の歴代上人の像が並んでいます。幕末の羅漢像の絵師・狩野一信は、この三門楼上をアトリエに使い、中に籠って羅漢像をスケッチしていたという伝承があるそうです。

狩野一信に羅漢図について

ずらりと並んだ羅漢像はかなりの迫力がありますが、像のあちこちの色が落ちていて、歴史の年月を感じました。

増上寺 三解脱門

【公開期間】2011年9月17日(土)〜11月30日(水)

【時間】10:00〜16:00(入場受付15:30まで)

【拝観料】500円(記念品付)


by shizuka


今日から横浜&京都へ出かけて来ますので、コメント返しは帰り次第させていただきます。
留守中もの応援よろしくお願いいしますm(__)m


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