草津宿
関ヶ原の戦いに遅れた秀忠は、夜を日に継ぐ強行軍で中仙道をひた走りました。
そして家康本隊に追いついたのは関ヶ原開戦の5日後の20日、草津宿での事でした。
秀忠は、大津城にいる家康に面会するため大津まで赴きましたが、「気分がすぐれない」と言って断られたため、悄然として草津に引き返したそうです。
傷心の秀忠が宿泊した宿は、草津のどこだったのかな?
そんな好奇心で調べてみました。
草津宿は東海道五十三次の52番目の宿場町で、現在の滋賀県草津市にありました。
東海道と中山道はここで合流し、大津宿、そして京都へと続きます。
草津宿には本陣、脇本陣などが設けられ、常善寺、立木大明神ほか多数の寺社が立ち並び、70軒を超える旅籠があったそうです。
現在も本陣が現存し、国の史跡に指定されています。
常善寺は室町時代「草津御所」と呼ばれ、幾度か将軍の宿舎となった所です。
江戸時代にも、草津宿の最も重要な寺とされていました。
9月20日、秀忠はここで宿陣しました。
常善寺本堂
かつては堂塔伽藍も整った大きなお寺でしたが、たび重なる兵火や水害で荒廃したそうです。
現在の本堂にはその面影がありませんが、広い境内がそれを偲ばせます。
面白い事に、家康もその前日19日に常善寺で泊っています。
家康が関ヶ原からの帰路にここで一泊し、翌日大津に向かって出立した後に、入れ違いのように秀忠が着いたということですね。
さて、本当に家康は秀忠と面会出来ないくらい気分がすぐれなかったのでしょうか?
それとも怒っていたのでしょうか?
私は、関ヶ原に遅参した秀忠を何の咎もなく受け入れると、家臣に示しがつかないため怒っているポーズをとったのだと思っていたのですが、ドラマのストーリーも同じでした。
そして家康の思惑通り、家臣の取りなしにより秀忠は許されたのでした。
家臣に対するポーズと言えば、もうひとつ後日談があります。
関ヶ原の戦いからまもないある日、家康は重臣6人を集めて秀康、秀忠、忠吉のうち、誰が嗣子にふさわしいか、尋ねたそうです。
まず、本多正信が武勇に優れた2男の秀康を推し、ついで井伊直政は関ヶ原で活躍した4男の忠吉を推したそうです。
これに対して、大久保忠隣は「天下を治めるためには文武兼備でなければならない」と主張して秀忠を推したそうです。
家康は、家臣に充分意見を出させてそれを聞いた上で、結局、忠隣の意見を取り入れると言いきったそうです。
家康には秀忠を廃嫡する意思はなかったのですが、あらためて家臣に相談するというポーズをとったようです。
さすが深慮遠謀の家康様です。
秀忠の嗣子の立場は、関ヶ原の遅参によって、少々危うい所にあったようですね。
つぎは和田神社です。
by merry
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