大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< August 2011 >>
商品紹介
更新履歴
記録之分類
過去之記録
最近之評論
記録之輪
友達之輪
作者紹介
余他
無料ブログ作成サービス JUGEM
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |- pookmark↑PAGE TOP
江戸城(2)松の大廊下跡〜天守閣跡
JUGEMテーマ:江〜姫たちの戦国〜NHK大河ドラマ

富士見櫓から蓮池濠の石垣沿いに遊歩道を北に進むと、植込みの中に松の大廊下跡の標石があります。

松の大廊下跡

忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が殿中で吉良上野介義央への刃傷事件を起こした場所です。
廊下に沿った襖戸に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれ、江戸城で2番目に長い廊下でした。







石室

抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際の、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の坂が使われています。







芝生の庭園の中ほどに「午砲台跡」の標石があります。

本丸跡は気象台発祥の地でもあり明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。
明治4年(1871)正確な時間を知らせるために、ここに午砲台(ドン)が設置され、昭和4年(1929)に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。 



 


本丸跡



江戸城本丸は表、中奥、大奥の三つに大別されました。
政務を執る公の場が表で、将軍への謁見や公式の儀式が執り行われました。
中奥は、将軍の私的な居住空間で、小姓など男性だけが将軍に奉仕しました。
大奥は将軍の正室である御台所が住み、多くの女官が住み働く場で、中奥と大奥は御鈴廊下で結ばれていました。
最盛期には、数百人の女中が住んでいたと言われています。
そしてこの大奥を創設したのが「江」です。 

 

江戸城の天守閣は、二代将軍秀忠の代の慶長11年(1606年)と翌年の2年にわたって建設され完成しました。その後、元和8年(1622年)、承応2年(1635年)とたびたび修築され、寛永14年(1637年)三代将軍家光の代に国内で最も大きな天守閣が完成しました。
天守閣は、地上からの高さは58mあり、天守閣の基礎石積みは、44メートル四方、高さ18メートルで、その上に金色のシヤチを頂く外観五層、内部6階の天守がそびえていました。
しかし、明暦3年(1675年)の大火(振り袖火事)で焼失した後は、再建されず、基礎石である石垣だけが残っています。

 

 

 

 

 

天守台から見た本丸方面



by shizuka

FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 東京 | 01:02 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
江戸城(1)大手門〜富士見櫓

  今年の4月、皇居を散策してきました。

特別史跡江戸城跡

江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(1590)北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二十四年に西の丸下及び皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四十四年から北の丸の地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心として史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和三十八年五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。





東京駅からぶらぶらと歩き、大手門から中に入ります。



この門は、大名や役人が本丸に登下城する際の正門でした。
1620年に伊達政宗、蒲生忠郷、相馬利胤の御手伝普請によって築造されましたが、1657年の明暦の大火で類焼し、以後何度も修理を重ねてきました。   


   


1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていたシャチです。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます。今の大手門渡櫓は、1968年(昭和43年)に再建されたものです。







中之門の内側に設けられ他の番所より格上で,位の高い与力,同心が詰めて警護にあたっていたところです。前の坂を上がったところが本丸の入り口で、中雀門がありました。



 江戸城本丸図のある標石
 


本丸は、江戸城の中枢であり、将軍が日常起居し、幕府の政務が行われたところでしたが、現在は洋風の庭園になっています。本丸御殿は、1606年に造られ、1640年に完成。以後消失と再建を繰り返しました。しかし、1863年の焼失後は再建されることなく現在に至っています。 

この標石から庭園と反対側の南へ向かうと、富士見櫓があります。





 この櫓は、1606年の本丸造営工事「の際、加藤清正によって櫓台地域の石垣が造られ、櫓もこの時、創建されたものとされています。明暦の大火で焼失後、1659年に三重櫓として再建されました。  

この日は、お天気も良く、桜も見ごろを迎えていたのですが、朝早かったせいか、人が少なく、のんびりとまわることができました。 次は天守台へ向かいます。

by shizuka

FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 東京 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
佐和山城

佐和山城
 

琵琶湖の東・彦根市に佐和山城があります。

佐和山城といえば石田三成ゆかりの城として有名ですが、実は歴史が古く、鎌倉時代初期に佐々木氏が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと云われているそうです。
その後近江の要衝を守る城として重視され、秀吉の時代に石田三成が入城しました。

佐和山城大手口です。ここから本丸をめざして登ります。



 


佐和山城本丸跡です。
城は五層の天守であったと云われていますが、実のところはどうであったのか分からないそうです。


本丸の東南の方に井戸跡が残っています。

千貫目のお金にも値する、貴重な飲み水であったので、千貫井戸と呼ばれたそうです。
千貫井戸跡



関ヶ原合戦の2日後、小早川秀秋らに包囲され、留守居を守る三成の父・兄らが孤軍奮闘しました。
しかし煙硝櫓に火がかけられ、本丸もろとも炎上。
籠城していた多くの女中たちが亡くなったと云われています。
女郎谷





このあたりは火の海だったのでしょうね。


関ヶ原合戦の後、井伊直政が藩主となってこの佐和山城に入りましたが、その3年後、城は移転して彦根城へと移ります。
そして佐和山城は、徹底的に破壊されました。

本丸の石垣は、これしか残ってないそうです。


善政をしいて、領民に慕われたという三成。
ゆえに、跡形もなく破壊されたそうです。

山を越えて龍潭寺側に降りると、三成の像があります。



また麓には三成の屋敷がありました。


龍潭寺側からみる佐和山城


             by merry



FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 滋賀 | 21:46 | comments(10) | - |- pookmark↑PAGE TOP
彦根の宗安寺
彦根城跡から夢京橋キャッスルロードに出ると、通りの真ん中に浄土宗の宗安寺があります。
 
 

 

井伊直政の正室・東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪に建立された安国寺を前身とします。井伊直政が高崎城主となると安国寺は移転。1601年佐和山入城に伴い、佐和山城下へ移され、宗安寺と改名。1603年、彦根城築城の際、現在の地へ移転されました。 元禄の大火で、「赤門」と呼ばれる朱塗りの佐和山城の大手門を移築した表門が唯一焼け残り、現在の本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。 









また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏とされる仏像を持ち帰ったもので、胎内納経の奥書から文永7年(1270年)の作といわれています。

 

石田三成念持仏   







また、当寺は、朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であったことでも知られています。総本山を京都の知恩院、直接の本山を京都百萬遍知恩寺とする浄土宗の寺院で、徳川家が浄土宗であったことから、江戸時代は彦根藩における徳川家康公位牌奉安所とされました。 墓所には大坂夏の陣で、井伊直孝勢に討ち取られた豊臣家の家臣・木村重成の首塚があります。

  



木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。一説には木村重茲(しげこれ)の子とも言われている。母、宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。重成は秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買っている。慶長20年(1615年)1月7日、大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎える。同年5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し、昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。また、婚姻して5ヶ月の青柳と別れの盃を交わした。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴し、戦闘に入った。重成は家臣達の諌めも聞かず、敵陣へと突撃を開始。しかし井伊軍と激戦の末、戦死する。享年23[要出典]。徳川家家臣の安藤重勝が井伊家家臣より首を譲り受け、家康の首実検に供している。その首級が家康に届けられると頭髪に香が焚きこめてあったのでその覚悟を感嘆させたという逸話がのこっている。(Wikipediaより抜粋)





白砂を敷き詰めた庭園   







街中にあるお寺ですので、食事や買い物がてらに拝観できます。
 
by shizuka


FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 滋賀 | 20:31 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
伏見城の遺構・・大通寺
 

伏見城の遺構・・大通寺

 

「江・浅井三姉妹博覧会」で賑わう長浜市。

大通寺は、その観光の中心地・黒壁スクエアの一角にあります。

このお寺の本堂や大広間も、伏見城の遺構と伝わります。

 

寺伝では、伏見城の殿舎が本願寺の御影堂として移築され、その後、承応年間(16521654)にこの地へ再移築されたと伝えられるそうです。

 

数年前に馬酔木展を見るためお寺の中に入ったのですが、かなり歴史のある建物だなと思いましたが・・・想像以上に歴史がありました()

 

少し余談になりますが、この大通寺には、秀吉時代の長浜城・大手門を移築したと伝わる台所門があります。


よく見ると、矢や銃弾の痕があります。


 

これは本能寺の変のあと、明智光秀方についた京極高次の軍が、秀吉の居城・長浜城を攻めたときのものと云われています。

普通なら秀吉から断罪に処されるはずの高次が、姉(妹?)松の丸殿のお陰で助けられ、さらに三姉妹の二女・お初と結婚して、大大名とへ出世したと陰口をたたかれる所以です。

 

しかし高次はこの時選択を誤ったものの、関ヶ原の戦いでは東軍と西軍の間に挟まれながらも精一杯に頑張り、出世の糸口を掴みます。

彼のその必死さには共感を持ちますね。

 

それについては、また後日「大津城」の記事に書きます。

          by merry


FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 滋賀 | 22:01 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
伏見城の遺構・・・御香宮神社表門
 

伏見城の遺構・・御香宮神社表門

 

京都市伏見区にある御香宮神社の表門は、家康の11男・徳川頼房によって伏見城の大手門が移築されたと伝わります。

大手門らしく、どっしりとした貫禄がありますね。


 

この門には、中国の故事にちなんだ彫刻がなされているようですが、残念ながら見過ごしました。

後で写真を拡大して見たのですが、暗くてよく分かりませんでした()

 

御香宮神社の歴史は古く、貞観4年(862)に社殿を修造した記録があるそうです。
つまり、それ以前からあるという事なので、かなりの歴史がある神社という事が分かります。

秀吉の時代には、御香宮を伏見城内に移して鬼門除けとしたそうで、現在でも城跡に古御香宮が残っているそうです。

 

また神社の中には、伏見城の残石が300個近く保存されているそうですが、これも残念ながら見過ごしました()

 

京都から少し離れた長浜市にも、伏見城の遺構と伝わるお寺があります。

次回は長浜市の大通寺の記事です。

              by merry


FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 京都 | 09:33 | comments(11) | - |- pookmark↑PAGE TOP
伏見城の遺構・・西本願寺唐門
 

伏見城の遺構・・西本願寺唐門

 

西本願寺には何度も来ているし、またその前の堀川通りも数えきれないくらい通っています。

しかし、隣の興正寺との間にある北小路門をくぐるとこんな道があったとは・・この時初めて知りました。

 

 

この路地を少し歩くと、西本願寺の唐門が見えてきます。



これが伏見城の遺構と云われ、国宝に指定されている唐門です。

 

これは豪華ですね。

桧皮葺、唐破風の四脚門で、装飾彫刻の色彩も鮮やかです。

こんな国宝の唐門が、誰でも通れる道沿いにあるのだから、驚きですね。

  

彫刻の見事さに、日の暮れるのを忘れることから「日暮らし門」とも呼ばれるそうです。






 

そういえばドラマセットの伏見城内にも、こんな彫刻の両開き戸がありましたね。

 

 次は伏見城の大手門が移築されたと伝わる御香宮神社の記事です。

           by merry



FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 京都 | 11:47 | comments(9) | - |- pookmark↑PAGE TOP
伏見城遺構
 

伏見城遺構

 

秀吉によって建てられた伏見城は、現在のJR桃山駅の南側あたりにあったと云われています。

宇治川を望む高台で、観月の名所だったことから、一帯は「指月」と呼ばれていました。

城は金箔瓦で覆われ、たいへん豪華なつくりであったと云われています。

 

現在ある桃山城模造天守



 

 

しかし翌年M7.5の直下型地震に襲われ、城は倒壊。

秀吉は、再び指月の北側・木幡山に伏見城を再建しました。

現在明治天皇稜となっているあたりが城の中心地であったと云われています。

 

明治天皇稜

 

 

しかし秀吉がその城に住んだのはわずか2年。

慶長3(1598)秀吉は伏見城で死去しました。

 

秀吉の死後、徳川家康が伏見城に入って政務をとりましたが、慶長5年の関ヶ原前哨戦で西軍に攻められ、城の大半は焼け落ちたと云われています。

その後、徳川家康によって城は再建されましたが、1624年廃城となり、城の建物や部材は福山城、淀城、二条城などに移築されました。

 

特に福山城には、幕府の西国鎮衛の目的もあり、多くのものが移築されました。

 

福山城の記事は→こちらです。

  

また淀城にも伏見城からの殿舎の一部が移築されたとされていますが、現在は石垣しか残っていません。

 

淀城の記事は→こちらです。

  

二条城へは、伏見城天守が移築されましたが、寛延3(1750)落雷により焼失し、その後再建されることはありませんでした。

現在は天守台のみが残っています。

残念ながら、天守台の写真を撮り忘れました・・・

 

二条城唐門も伏見城の遺構と云われ、重要文化財に指定されています。

 

 

また西本願寺にも伏見城遺構の唐門があります。

それは次回の記事で。

           by merry


FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 京都 | 11:31 | comments(9) | - |- pookmark↑PAGE TOP
神田明神
 御茶ノ水駅から湯島聖堂の方向に向かい、湯島坂を進むと、神田明神(神田神社)の大鳥居が見えてきます。 

 

大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。 

 

神田神社の創建は、730年(天平2年)とされ、大国主命を祭神とし、創建当時は現・大手町にありました。その後、天慶の乱に敗れた平将門の首が神社近くに葬られると、鎮魂のために将門の霊を祀るようになりました。 

 

1603年には、江戸城の拡張に伴い、駿河台へ1616年には江戸城の鬼門にあたる現在地へ移転。
2代将軍・徳川秀忠の命で社殿が築かれ、江戸の総鎮守となりました。 

 

以後、幕府はもちろん江戸庶民に至るまで多くの人々の崇敬を受けました。

神田明神の境内を紹介します。


だいこく様尊像 

 

石造では日本一の大きさを誇るそうです。


えびす様尊像 

 

波間より、いるかや亀など海の仲間たちに守られていらっしゃるお姿をしています。

鉄製天水桶 

 

御社殿前にある天水桶は弘化4年(1847)に「摂州灘大石」と「筋違外」の酒屋中によって奉献されたものです。

銭形平次碑 

 

銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公。明神男坂の石段を降りた辺りは、明神下とよばれ、その台所町に平次が住んでいたことになっています。



 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。
 元和年間(1615〜)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治24年(1891)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。
 当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災(1923)により烏有に帰した。
 その後、昭和30年(1955)江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久2年(1862)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田際には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。




 

by shizuka

FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 東京 | 00:05 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高野山の豊臣家墓所
 

高野山の豊臣家墓所

 

高野山奥の院には、一の橋から御廟まで、2kmにわたって全国名将の供養塔がずらりと並んでいます。


一の橋、中の橋を越えて、御廟橋近くまで進むと豊臣家墓所があります。
 

その中央にある大五輪塔が秀吉の供養塔です。

昭和14年に京都の豊国廟から霊土を移して建立されたそうです。

 

 

他の小さな五輪塔は天正15年から20年にかけて建立されたもので、碑名によると、秀吉の母、姉、弟夫婦、鶴松が確認でき、さらに淀殿と推定されるものもあるそうです。

 

・・と、ここで疑問文?

なぜ、北政所の五輪塔がないの?

そういえば、秀吉の大五輪塔も昭和になって建立されているので、もともと二人の五輪塔はなかったということですね。

 

秀吉は神として祀られたので、お寺とは相いれないものがあったのかな?と単純に考えたりしますが、それにしても北政所の五輪塔はなぜないのでしょう?

 

やっぱり淀殿と一緒では厭なのかな?なんて、勘ぐってしまいますね()

 

 

HP「悠誘高野山へようこそ」より一部引用

                by merry


FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
| 和歌山 | 13:29 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP