大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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中村家住宅
 浜松市雄踏町の中村家住宅の庭に、結城秀康の胞衣塚が残されている。
1524年2月8日、家康の次男(幼名・於義丸、後の結城秀康)がこの中村家で生まれた。
母親は家康の側室・お万の方で、出産時の胞衣をこの胞衣塚に埋めたという。
また、胞衣塚上の梅は家康のお手植えと伝えられ、数代を経ているそうである。
1884年、越前松平一門家が塚の由来を記した胞衣塚碑を建立した。



中村家住宅


胞衣塚


家康お手植えの梅

胞衣塚がある中村家とは?

1568年、家康が遠江に入国した時、中村家18代正吉は船を出して迎えたり、徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行や代官を勤めていた。
こうした関係から家康の正室・築山御前を恐れたお万の方が、於義丸を浜松城でなく、ここ中村家の屋敷で出産したのである。

*中村家初代・中村正範は、源範頼の末裔の武士である。

中村家住宅は、1483年に建てられ、平成13年から解体修理、復元されて、現在一般公開されています。


長屋門


天井


かやぶき屋根


主屋の内部

by shizuka

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| 静岡 | 18:50 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
秀吉の隠居所 伏見城

 伏見城は、1595年(文禄3)に豊臣秀吉が隠居所として、聚楽第の建物の一部を移築するなどして築城される。関白秀次が処刑され、京都聚楽第が壊されるのとほぼ同時期であった。1598年に秀吉が病死したので、秀吉がここに住んでいたのはわずかです。
秀吉の死後、豊臣秀頼は大坂城に移り、五大老筆頭の徳川家康が代わってこの城に入った。

現在の伏見城は、「株式会社 桃山城(近畿日本鉄道株式会社のグループ会社)」が1964(昭和39)年にオープンした遊園地:キャッスルランドの中の建物として、伏見城天守閣(鉄筋コンクリート造り)をイメージして建てられました。本来の天守があった場所は、現在、明治天皇の桃山御陵となっていますので入れません。
遊園地は2003年1月に閉鎖となり、跡地は京都市の伏見桃山城運動公園となり、解体予定だった模擬天守は残されました。それが、下記写真の伏見城です。

現在の伏見城
伏見城


伏見城跡地の明治天皇桃山御陵
明治天皇桃山御陵


伏見城と桃山御陵の場所は こちらをクリック


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| 京都 | 10:52 | comments(9) | - |- pookmark↑PAGE TOP
村雲御所瑞龍寺
 

村雲御所瑞龍寺

 

豊臣秀次の実母「とも」は秀吉の姉でした。

男の子3人に恵まれ、夫・弥助とともに、それまではおそらく平凡な生活をしていたことでしょう。

ところが、弟・秀吉が天下をとると、人生が大きく変わってしまいます。

 

長男秀次、そして二男秀勝も秀吉の養子となってそれぞれ一国一城の主となり、弥助も名を三好吉房と改めて犬山城主に取り立てられます。

 

三男秀保も、秀吉の弟・秀長の養子となって、大和郡山城主となりました。

 

しかし飛ぶ鳥を落とす勢いで天下を取った秀吉ですが、晩年には暗雲が垂れこめ、不幸な事が重なってきます。
「とも」の身の上にもまた、不幸が次々と起こりました。

文禄元年
(1592)
9月、秀吉の命で朝鮮へ出兵した二男の秀勝が巨済島で病死。

24歳でした。

 

その3年後の文禄4(1595)、三男秀保が療養先の十津川で怪死します。

これは病死であるとか、崖から転落したとか云われていますが、真実は謎です。

17歳でした。

 

そして同じ年に、秀吉の跡をついで関白となっていた長男秀次が切腹。28歳でした。

さらに夫・三好吉房もこの事件に連座して犬山城を追われ、讃岐へ配流されます。

 

わずか3年の間に何もかも失った「とも」の悲しみは察して余りあります。

悲嘆に暮れた「とも」は日蓮宗に深く帰依し、名を瑞龍院日秀と改めました。
そして文禄5年
(1596)、後陽成天皇から村雲の地と瑞龍寺の寺号そして寺領千石を賜り、我が子・秀次の菩提を弔う寺を建立しました。

 

若くして亡くなった3人の息子たちの分も生きたのでしょうか、日秀は92歳の長寿を保ったそうです。

やっぱり女は強いですね()

 

日秀亡き後の瑞龍寺は、皇族、五摂家、華族の娘が代々貫首(かんじゅ・住職と同じ)を務め、日蓮宗唯一の門跡寺院となりました。

ゆえに村雲御所と呼ばれます。

 

その跡地の碑が京都・西陣織会館の前にあります。

西陣織会館




 

昭和38(1963)に、寺は秀次が城主だった近江八幡の八幡山に移築されました。

その記事は→こちらです。

 

村雲御所瑞龍寺は代々尼僧のお寺だったのですが、つい最近、男僧が15世の貫首を務めるようになったと新聞記事で読みました。

時代とともに、世の中も変わっていくのですね。

            by merry


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| 京都 | 12:09 | comments(10) | - |- pookmark↑PAGE TOP
瑞泉寺
 
三条にある瑞泉寺



1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺です。





豊臣秀吉から関白の位を譲られ聚楽第に住した秀次が、謀反の疑いをかけられて1595年(文禄4)に高野山で自刃させられた後、その子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原の南西詰めで処刑されました。
一族の遺骸を埋葬した処刑場の地には大きな塚が築かれ、塚の頂上には秀次の首を納め「秀次悪逆塚」と刻した石塔を据えて往来人への見せしめにしたといいます。

秀次の墓



晩年の秀吉のやることは、狂気じみたことが多いですね。


by shizuka


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| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高野山・金剛峯寺
 

高野山・金剛峯寺

 

 

文禄4年(1595)7月8日、豊臣秀次は秀吉の命で関白の官職を剥奪され、高野山に追放されました。

そして一週間後の15日に切腹の命を受け、高野山・青巌寺で切腹しました。

享年28歳。

 

青巌寺は文禄2年(1593) 豊臣秀吉によって、亡母の菩提のために建立された寺です
文久3年(1863)再建され、
明治2年に青巌寺から金剛峯寺と改称されました。

金剛峯寺

 

襖に柳鷺図が描かれている「柳の間」と呼ばれる部屋があります。

秀次はその部屋で切腹しました。

残念ながら写真撮影禁止です。

 

代わりに差し支えがない所を撮りました()

 
 

高野山に籠って出家した秀次に、さらに追い打ちをかけるように切腹を命じた秀吉。

世継ぎに恵まれない秀吉が、晩年になって授かった我が子可愛さのあまりに起こった事件でした。


 

殺生関白と呼ばれるほどの乱行があったとか、また謀反の疑いもあったと云われていますが、どれも後世の脚色で確証がないものです。

ただ秀吉の甥という甘えもあって、脇が甘かった事は確かなようです。

 

それにしても、秀次もなぜ関白の座に固執したのでしょう。

政治より文学が好きだったようなので、さっさと関白職を返上してお気楽な身分になればよいのにね。

いちど頂点に立つと、なかなか降りられないのが政治の世界でしょうか。

いつの時代も同じですかね。

 

ただ、その事件に連座して大勢の妻子が殺害されたのは大変痛ましいことです。

それについては、明日しずかさんに書いてもらいますね。

           by merry


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| 和歌山 | 15:01 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高麗陣敵味方戦死者供養塔
 

高麗陣敵味方戦死者供養塔

 

ちょうど1年前の7月。

高野山の奥の院を歩いていたら、こんなものを見つけました。

 



朝鮮侵略で亡くなったすべての人を供養したいという、この島津義弘父子の思いは立派ですね。

 

島津氏といえば、朝鮮侵略の際、大勢の朝鮮人捕虜を連れて帰ってきました。

その中に焼き物の技術をもつ陶工がいたため、これを保護し、焼き物産業を推進しました。

これが薩摩焼として大成し、白薩摩・黒薩摩とよばれる名品を育てました。

 

また島津氏に限らず、西国大名たちは大勢の陶工を領内へ連行し、焼き物をさかんにしました。
それが有名な毛利氏の萩焼、鍋島氏の有田焼・伊万里焼などです。

先日名護屋城から足を伸ばして、鍋島藩秘窯の里・大川内山に行き、伊万里焼を買ってきました。


すいません、大きなことを言って。
予算の都合で、買えたのは風鈴だけでした(爆)

          by merry



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| 和歌山 | 09:17 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
唐津城
 

唐津城

 

朝鮮侵略という無益な戦いは、慶長3年の秀吉の死によって終結しました。

出兵の基地であった名護屋城は廃城となり、大手門は伊達政宗の仙台城へ、また天守は唐津へ運ばれて寺沢広高の唐津城になりました。


 

現在の唐津城は昭和41年に復元されたものです。
舞鶴橋から見る唐津城






 

大きな藤棚がありました。

咲いたら見事でしょうね。


 

櫓門

 

 

発掘調査によると、唐津城から名護屋城と同じ秀吉ゆかりの桐紋様の瓦が多く出土しているそうです。

名護屋城の天守は金箔瓦であったといわれているので、もしかしたら当初の唐津城も金箔瓦で燦然と輝いていたのでは??との期待もあるようです。

これは出土品を基に、復元された金箔瓦です。


 
城の中にはたくさんの展示物があったのですが、写真はNG

展望台からは、虹の松原が見えます。

これは初代藩主・寺沢広高が植林したもので、日本三大松原のひとつです。

 

この虹の松原に「秀吉のにらみ松」があるという情報があるので行ってみたのですが、あまりに広すぎて、探すのはとうてい無理でした(笑)


次は、高野山の記事です。



            by merry


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| 佐賀 | 15:09 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
諸大名の陣跡

諸大名の陣跡

 

名護屋城の周りには、秀吉の命令に従って集まってきた全国諸大名の陣跡があります。

その数は、なんと120を下らないそうです。

特別史跡として整備されている場所や個人の私有地になっている所などがあるそうですが、とりあえず私は、徳川家康の陣跡だけ行くことに決めていました。

 

簡単な地図をたよりに車を走らせると、意外に難なく陣跡に到着しました。

家康様のお導き?()

 



名護屋保育園の園庭に隣接しているので、入口には園児が入らないように柵が設けられています。

 

家康は文禄の役に際し、15,000人の兵を駐屯させ、名護屋城の守りにあたりました。

ここは通称「竹の丸」と呼ばれた場所で、本陣が置かれていたそうです。



また名護屋湾を挟んだ対岸の「地獄の浜」にも別陣もあり、名護屋湾の要衝を固めました。

 

さて、陣跡を見るのはこれで終わりにする予定だったのですが、車を走らせているとこんな案内標識がありました。

陣屋通り

 

しかもカーナビに次々と「○○陣跡」の表示が出るのです。

 

これは無視して通過できないですね()

カーナビ様の指示に従い、いくつかの陣跡を訪ねてみることにしました。

 

九鬼嘉隆陣跡

 



加藤清正陣跡

この案内標識の矢印に従って細い道に入ったのですが、そこから先に案内板はありませんでした。

つまり、この矢印で示している森のあたりが清正の陣跡という意味だったようです。

 

カーナビは福島正則の陣跡も表示して、それらしき小山もあったのですが、案内板が見あたらないので確定できませんでした。

 

池の向こう側正面の小山が片桐且元の陣跡です。

左には津軽為信、右には木村重隆の陣跡があります。

 

堀秀治の陣跡です。

ここはよく整備されています。


 

正面の小山が豊臣秀保の陣跡です。

陣屋の中でも最大規模を誇る広さで、発掘調査もされているようです。

何か見られるかと思って、近くまで車を進めたのですが、道がだんだん細くなるので引き返しました。

 

豊臣秀保ってあまり知られていないのですが、秀吉の姉「とも」の三男です。

つまり豊臣秀次・秀勝・秀保はだんご三兄弟だったのです。

 

さてまだまだ興味は尽きないのですが、見ていたらきりがないので、この辺で引きあげる事にしました。

 

次は唐津城です。

            by merry


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| 佐賀 | 11:27 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
名護屋城跡
 

名護屋城跡

 

博物館を見学の後、いよいよ名護屋城跡に足を踏み入れました。

ネットから仕入れた「探検!名護屋城跡ガイドマップ」には「まむし・むかで・はちに用心すること」と書いてあります。

どんな草深い所かと心配していたのですが、なんとこんなに綺麗に整備されていました。

 

大手口から登城坂を登ると右手に東出丸があります。


 

左手には三の丸

 

三の丸と本丸を結ぶ道「本丸大手」

 

そして本丸です。

 


 

本丸のさらに高い場所に天守台跡があります。
この周辺から多くの金箔瓦が出土しているそうです。

 

天守台の向こうには美しい海と島々が見えます。
戦国大名たちは、この島を渡って、朝鮮半島へと進軍しました。

秀勝も壱岐から対馬に渡り、さらに巨済島に渡って城を築く任務にあたっていました。
しかし急に発病して短期間で亡くなったそうです。

秀勝の死亡の日は99日とされているので、暑い時期でもあり、やはりドラマのストーリーように、傷が原因で破傷風のようなものを患ったのでしょうね。

年が若いだけに、まったくお気の毒な話です。

 

そして弾正丸、二の丸を通って水手口より国道へ出て太閤井戸を探しました。

が、これがなかなかややこしい場所にあって、難儀しました。

台所丸にある太閤井戸


 

そして国道沿いを戻りながら歩くと広沢寺がありました。


 

ここは名護屋城の上山里丸のあたりで、秀吉の居館がありました。

秀吉は、大阪から同行した淀殿や松の丸殿、そして広沢局など側室とともに住んでいましたが、なぜかまた淀殿だけが身ごもります。

これは全く不思議ですね。

 

数年のちに秀吉が亡くなった時、広沢局は26歳の若さで尼となって、太閤や戦没者などの冥福を祈ったそうです。

そのゆかりで広沢寺という寺号になったとか。

 

またここには、加藤清正が朝鮮より持ち帰ったという蘇鉄があります。これは見事ですね。

 

そして山里丸に登る山里口です。

何度も折れ曲がって厳重な構造となっています。

ここから下里丸に入れるのかと思ったら行き止まりでした。

 

これで一周して、駐車場に戻りました。

見落とした場所が何箇所かあったのですが、もう一度もとに戻るにはあまりに広すぎるので、あきらめる事にしました。

 

この後、名護屋城のまわりに点在する大名の陣跡を訪ねました。

             by merry


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| 佐賀 | 15:44 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
名護屋城博物館
 

名護屋城博物館

 

台風6号が九州に接近しているという7月18日、私は秀吉が朝鮮侵略の拠点とした肥前名護屋城へ行ってきました。

とはいうものの、佐賀県ではほとんど影響はなく、風が少々強いくらいで、むしろ涼しくて快適なくらいでした。
帰りの新幹線も順調に進み、
今回の旅行はなんてラッキーなの・・と喜んでいたら・・

なんと自宅の3つ手前の駅で暴風雨のため電車がストップしてしまったのです(涙)

そんな訳で昨夜の深夜・・というより今朝早朝、なんとか無事帰還した次第です(笑)

 

さて今回の旅の一番の目的地「名護屋城跡」ってどんな所かと、ずっと楽しみにしていました。

城跡に着いたら、近くに無料の博物館があるそうなので、ちょっと寄ってみようかな?なんて軽く思っていました。

 

でも現地に行ってびっくり!

こんな立派な博物館だったのです。


 

観光客の車もいっぱい。

 

この博物館は、過去の史実を反省して、日本列島と朝鮮半島との友好・交流を目的としているそうです。


 

館内は両国の交流史をテーマに、原始・古代から、近現代までいくつかのコーナーに分かれて展示されています。

その中心は、名護屋城が築城された文禄・慶長の役関連の資料展示です。

 

私が一番興味を持ったのは「肥前名護屋城図屏風」です。

当時は大阪城につぐ規模を誇る城だったので、やはりスケールが大きいですね。

 

それと蔚山城攻防戦を描いた「朝鮮軍陣図屏風」

これは複製ですが、なかなか緻密に書かれていて見ごたえがありました。

 

1時間あまり時間をとって、じっくり見させていただいたのですが、これが無料とは、本当にありがたいですね。

ただ、見てもすぐ忘れてしまうのが私の欠点。

なので、本を買ってきました。

 

ついでにスタンプゲットです。

 

休憩コーナーから名護屋城の本丸と三の丸あたりが見えます。


さあ行くぞ!と気合が入りました。

 

次は、名護屋城を歩いた記事です。

              by merry


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| 佐賀 | 12:01 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP