もう一人の「秀勝」とは・・
実は、秀吉が長浜城主であった時代、「石松丸」という実子がいたという話があります。
母親は秀吉の側室「南殿」ではないかとされていますが、詳しいことは分からないそうです。
「石松丸」は「羽柴秀勝」と名乗ったのですが、不幸にも幼少で病死しました。
子どもに恵まれない秀吉にとってそれがどれだけ残念であったか、想像するに余りあります。
ゆえに、その後、養子にもらった信長の四男「於次丸」に「秀勝」を名乗らせ、「於次秀勝」亡き後、姉の二男「小吉」を養子にして再び「秀勝」と名乗らせたのは、早世した実子への愛情の表れかと想像します。
5年前、「石松丸秀勝」ゆかりの地を訪ねて長浜へ行ったときの写真です。
妙法寺にある石松丸秀勝の墓
平成14年の移転にともない学術調査が行われたところ、塚墓と天目茶碗などが発見されたそうです。
いずれも安土桃山時代の形状であることから、秀吉の長浜城主時代に長男に相当する人物が実在した事が確認されたそうです。
妙法寺に伝わる肖像画の写真
石松丸秀勝の肖像画が伝わっていたそうですが、昭和27年の火災で多くの寺宝とともに肖像画も焼けてしまったそうです。
住職さんの許可を得て、写真を撮らせて頂きました。
愛らしい男の子ですね。
この石松丸が生まれた時、秀吉はよほど嬉しかったのでしょう。長浜の町衆に砂金を与えたと伝わります。
その砂金で曳山を造営し、長浜八幡宮の祭礼で曳いたのが長浜曳山祭りの始まりだそうです。
長浜八幡宮
長浜曳山まつりの子供歌舞伎
また、びわ湖に浮かぶ竹生島の宝物殿には「南殿」と「石松丸」の名前が書かれた奉加帳が展示されています。
ガラスのショーケースに入って展示されていたので、写真には撮らなかったのですが、確かにふたりの名前があるのを確かめました。
竹生島
宝厳寺
この向い側に宝物殿があります。
他にも、長浜市の徳昌寺に石松丸秀勝の法名「本光院朝覚居士」と書かれた位牌があるとか、知善院には石丸松秀勝の仏供料として伊香郡井之口に30石の寺領が与えられたという伝えがあるとか、石丸松秀勝にまつわる話が残っているようです。
秀吉の実子「石松丸秀勝」
そして養子の「於次秀勝」と「小吉秀勝」
秀吉が「秀勝」という名前にかけた望みもむなしく、三人はいずれも若くして亡くなってしまうのです。
by merry
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