長久手古戦場
「小牧駅」から名鉄に乗り、「平安通」で名古屋地下鉄・名城線に乗り換え、さらに東山線に乗り換え、「藤が岡」からリニモ(東部丘陵線)に乗り換え・・
なんと!合計23の駅を通過しました。
小牧・長久手の戦いと、ひとまとめに言うけれど、結構距離があります。
昔の人はこんな長い距離を、いともたやすく走り抜けたのですね〜
それとも、近道でもあるのかな?
駅を降りると、まずモニュメントが目につきます。
これは、長久手合戦屏風から代表的な場面をスクリーン化して、歴史ドラマを再現しているそうです。
家康、秀吉など長久手の戦いゆかりの7人の武将の紋が並んでいます。
長久手古戦場です。駅から歩いてすぐです。
現在は公園になっていて、大勢の子どもたちが遊んでいます。
両軍の陣地や交戦場が土を盛った地形で表されているそうです。
羽柴秀次を総大将にした別動隊が「家康の留守の岡崎城を突く」作戦で密かに動いたはずだったのですが・・家康には筒抜けでした。
家康は榊原康政らを先発させ、また自らも密かに小牧山を出て、秀次率いる別動隊を挟み打ちしたのです。
秀次軍は予想外の展開に総崩れ。
池田恒興・元助父子、森長可が戦死しました。
秀吉がその情報を知って軍を動かそうと思った頃には、家康はすでに小牧山に戻っていたというから、家康の情報収集力と行動力は見事ですね。
勝入塚
池田恒興が戦死した場所と云われています。
庄九郎塚
池田元助(恒興の長男)が戦死した場所と云われています。
武蔵塚
森長可(森蘭丸の長兄)の戦死した場所と云われています。
勝入塚と庄九郎塚は長久手古戦場公園内にありますが、武蔵塚だけは団地を西方向に通り抜けた所にありました。
さて両軍は、再び睨み合いの膠着状態に戻ったのですが、結局その年の11月、秀吉は伊勢桑名の矢田川において信雄と会見し、講和を結んでしまったのです。
秀吉と信雄が和睦してしまったら、家康には戦いを続ける名分がありません。
仕方なく、三河へ兵を引き揚げました。
この時の事です。大野川を渡ろうとする家康を助けて、佐治一成が船をだしたのは・・
これが秀吉の逆鱗にふれ、お江は離婚させられることになります。
そして一成は大野城を追放され、伊勢の伯父・織田信包のもとに身を寄せることになりました。
この織田信包といえば、小谷落城の後のお市の方と三姉妹の面倒をみた人物ですね。
名前の通り、「包み込む」暖かさがある人だったのでしょう。
こうしてお江は、小牧・長久手の戦いと微妙に絡み合って結婚し、そして破たんし、わずか12歳でバツイチとなってしまったのです。
なんとも理不尽な話ですね。
さて大阪城に戻ったお江。
大阪城の記事は、ラメールさんとしずかさんにお願いします。
by merry
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