大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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福山城伏見櫓

福山城伏見櫓

 

京極龍子は、秀吉の数多ある側室のなかでも随一の美貌を誇り、しかも実家が近江源氏の摘流・京極家であるという家柄もあって、秀吉の寵愛も深かったと云われています。

大阪城が完成すると西の丸に住んだため「西の丸殿」と呼ばれ、伏見城に移ると松の丸に住んだため「松の丸殿」と呼ばれました。

 

そこでハタと思いだしました。

去年行った、福山城伏見櫓のことです。

 

この福山城の伏見櫓は、元和8年(1622)伏見城「松の丸東櫓」を移築したものです。

「松の丸東櫓」というのは、多分、松の丸殿が住む御殿の東側に位置したのでしょうね。

白壁三層の豪華な姿は、桃山時代の気風を今に伝えてくれます。


 

反対側から見ると・・



 


伏見城は、廃城に際して多くの建物が全国各地に移築されたのですが、中でも福山城には御殿、御湯殿、伏見櫓、月見櫓、筋鉄御門など、多くの施設が移築されました。

 

伏見城内にあった伏見御殿跡
後方にあるのは、復元された御湯殿

 

しかしその多くが取り壊しや、戦災により焼失するなかで、伏見櫓と筋鉄御門だけは奇跡的に残りました。

ともに重要文化財となっています。

筋鉄御門


 

在りし日の松の丸殿は、この「筋鉄御門」の下をくぐり抜けたり、優美な姿の「松の丸東櫓」を眺めたりしたのでしょうね。

次は京極龍子ゆかりの誓願寺です。

                 by merry


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| 広島 | 14:14 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
宝憧院
 

宝憧院(ほうどういん)

 

マキノ町にあるもうひとつの気になるお寺

それは武田元明自害の舞台となった「宝憧院」です。

 

JRマキノ駅で降り、前もってネットで調べておいたタウンバスに乗り、ふたつ目の停留場「海津」で降りました。

そこから歩いて5分くらいです。

 

大河ドラマに出てきた「京極龍子」は、名門・若狭守護「武田元明」の正室でした。

しかし戦国時代にありがちなことですが、名門とは言うものの守護の権威は失墜して家臣は離反。そこへ越前朝倉氏の攻撃を受け、囚われの身となってしまいました。

しかし6年後、織田信長に攻められて朝倉氏が滅亡し、明智光秀の手引きもあって、武田元明は若狭に戻りました。

しかしすでに領地はなく、若狭神宮寺での蟄居生活を余儀なくされるというありさまでした。

それから10年後の天正10年、本能寺の変が起こると、武田元明は旧領地奪還の好機と見たのか、光秀の呼びかけに応じて決起します。

しかし・・・明智光秀はあえなく滅亡。
武田元明は、丹羽長秀にこの宝憧院に呼び出され、光秀の謀反に加担したという理由で自害を強いられました。
享年31歳。

 

境内には、武田元明のお墓があります。



そばに案内板がないので、どれが元明のものか分からなかったのですが、武田菱の家紋が入っているので、多分これだと思います。
ズームアップしてみます。


 

ところで、同じように明智光秀に加担した龍子の兄・京極高次は許されたのに、なぜ夫・武田元明は自害させられたのでしょう?
そこには、美貌の龍子に横恋慕した羽柴秀吉の思惑があったのではないかと云われています。

 

龍子はその後秀吉の側室となり、寵を受けます。

武田元明との間に2人の男の子があったとされていますが、殺害されたとも、木下家の養子になったとも伝わります。

もしかして子どもの命乞いをするため、秀吉の側室となったのかも知れませんね。

そうであって欲しいと思いました。

 

さて帰り道、タウンバスは午後の便しかないので、約2kmの道を歩くことにしました。

国道は歩道がなく危険なので、里道を歩いてマキノ駅まで30分かかりました。

でも、意外なところに浅井氏ゆかりの「宋正寺」があったり、「海津天神社」の梅が満開だったりして、そぞろ歩きもなかなか楽しいものでした。

次は京極龍子ゆかりの伏見城松の丸の話題です。

                 by  merry



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| 滋賀 | 11:50 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
天鷲寺 勝家とお市の供養塔
JUGEMテーマ:江〜姫たちの戦国〜NHK大河ドラマ

 本能寺の変の後、柴田勝家は、織田信孝の仲介で、お市の方と結婚し、三姉妹を引き取り共に暮らした。しかし、信長の後継者選びを行った清洲会議において、勝家と秀吉の関係は悪化。翌年の賤ヶ岳の戦で、勝家は秀吉に敗れ、天守閣に火をかけ、お市と共に自害。三姉妹は、落城の前に城から逃れ、秀吉に引き取られることになった。

お市と勝家の辞世の句

お市 さらぬだに打ちぬるほども夏の夜の 夢路をさそう郭公かな
勝家 夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山郭公
 
「郭公」や「夢路」など、二人の間にだけ伝わる思いが言葉にこめられ、掛け合っています。この句からも、二人の仲の良さがうかがえます。 お市が自害の道を選んだのは、秀吉の側室にされることを嫌ったからとか同じことを繰り返す戦国の世に疲れ果てたからではないかといわれますが、やはり勝家を心から愛し、夫と同じ道を選びたかったと言う気持ちのが強かったからではないでしょうか。

勝家・お市の墓は、勝家の菩提寺である福井県の西光寺にありますが、大阪天王寺区六万体町の天鷲寺には、勝家の子孫が大阪に移り、この地に建てたとされる勝家・お市の供養塔があります。  





by shizuka


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| 大阪 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
幡岳寺
 

幡岳寺

 

滋賀県のマキノ町に気になるお寺が2軒あったので、先日、湖西線に乗って行ってきました。

 

当日は晴れ。

電車から見るびわ湖もこんなに綺麗です。

 

まずは「幡岳寺」

JR近江中庄駅で降りると、すぐ駅前にお寺が見えてきます。

 

このお寺は、賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家とお市の方、佐久間盛政の菩提を弔うために、佐久間安政(盛政の弟)によって建立されたものです。

寺号の「幡岳」は勝家の戒名「幡岳寺殿籌山勝公大居士」に由来するそうです。

(Wikipediaより引用)


 

柴田勝家の家紋・柴田藤を寺紋としているとか。

ちょっと光って見にくいですが・・

 

ところが、お寺にはそんな案内版はいっさいありません。

 

そこで、せっかくはるばるマキノまで来たのだから、住職さんに聞いてみることにしました。

チャイムを押すと、柔和なお顔の住職さんらしき人が出てこられ、

「はい、勝家公の位牌があります」と控えめなお答え。

 

これが京都のお寺なら、もっとPRされることでしょうね。

やっぱり滋賀は何事にも控えめな人が多いです。

・・と書いている私が控えめな滋賀県人ですが(笑)

 

幡岳寺の住所:高島市マキノ町中庄336

 

次は、もうひとつ気になるお寺「宝憧院」です。

・・・と、その前に、大阪にも勝家、お市の方の供養塔があるそうです。
しずかさんに記事をお願いします。

                 by merry


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| 滋賀 | 14:26 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
海音寺
 

海音寺(かいおんじ)

 

名鉄常滑線に乗り、大野町で下車。

海の方に向って歩くと(多分10分くらい)海音寺があります。

海のすぐ傍にあるお寺なので夜になれば波の音も聞こえてくるのでしょう。

海音寺とは、ロマンチックなお寺の名前ですね。

 

このお寺の四世建榮和尚によって、織田信孝(信長の3)の葬儀が執り行われました。

信孝公の死を悼む家臣によって、依頼されたのでしょう。

このお寺には、信孝公の位牌もあるそうです。




 

広い境内です。

 



ところで、大御堂寺
(野間大坊)で自害した織田信孝の首は、神戸城(三重県鈴鹿市)に送られたそうです。

信孝公は神戸氏の養子となり、神戸信孝を称した時期もありました。

しかし自害の前年養子縁組は解消されていたので、神戸氏は受け取りを拒否しました。

仕方なく検視大塚俄左衛門は、伊勢関町の福蔵寺に持ち帰り、首塚を作って手厚く弔ったそうです。

現在も三重県亀山市関町に織田信孝の菩提寺として福蔵寺があるそうです。
また機会があれば訪れてみたいですね。

                     by merry


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| 愛知 | 11:16 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大御堂寺
 

大御堂寺(おおみどうじ)

 

名鉄知多新線に乗り、終点ひとつ手前の野間駅で降りて歩くこと15分。

知多半島の先端に位置するこの地に、源義朝ゆかりの寺として有名な大御堂寺があります。

大御堂寺は別名「野間大坊」の名で広く知られています。



平治の乱に敗れた義朝が、家来の野間内海荘・長田忠致(ただむね)を頼ってここまで落ち延びて来ますが、恩賞めあての忠致・景致父子に入浴中に襲撃され、非業の最期を遂げました。

 

境内には源義朝公御廟があります。


 

その御廟の中に、織田信孝(信長の3)のお墓もあります。

時代は下って400年余り後、信孝もまた、父の家来であった秀吉によって非業の最期を遂げたのです。
 

信孝は賤ヶ岳の合戦に呼応して岐阜で挙兵しましたが、頼みの柴田勝家の敗戦、北ノ庄での自刀の報を受け開城。
城を包囲していた信雄
(信長の2)に降りました。

岐阜から舟に乗せられ、この大御堂寺に入った信孝は、52日、信雄の使者より切腹を命じられ自害しました。
享年
26歳。

 

辞世の句

「昔より主(あるじ)内海(討つ身)の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」

 

源義朝が家来の裏切りで非業の最期を遂げた地で、自分も同じように家来・秀吉によって死に追いやられるのか、秀吉に災いあれ・・そんな意味でしょうか。
悲壮な思いが伝わってきますね。

この辞世の句は後世の創作であるという説もありますが、やはり信孝はこのような怒りと無念のうちに自刃したのでしょう。

考えてみれば、秀吉もまた一時代の繁栄を築きますが、その子・秀頼は家康によって滅ぼされています。

歴史は繰り返されるのですね。

 

つぎは信孝の葬儀が行われた「海音寺」です。

                by merry


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| 愛知 | 09:19 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
自性院
 

自性院(じしょういん)

 

西光寺より南方面へ約500mの所に、お市の方の菩提所「自性院」があります。

一見普通のお寺なので、あやうく通り過ぎるところでした。


 

境内の隅に、お市の方のお墓があります。


お市の方の院号は「自性院微妙浄法大姉」

このお寺は400年前にこの地に移ってきて、「自性院」と改称してお市の方の菩提所となったそうです。

 

 

前回の記事に書いた西光寺は、柴田勝家の菩提寺なので一族と一緒に祀られていますが、この自性院では、お市の方の菩提所としてお市の方だけが祀られています。

 

これを見てふと思ったのですが、最近「嫁」と呼ばれる立場の人が、婚家の一族と一緒のお墓に入るのがいやで、自分だけのお墓にしてほしいと願う女性が増えているとか聞いたことがあります。

 

大勢で賑やかな西光寺のお墓or 自分だけの静かな自性院のお墓。

さて、お市の方の魂はどちらにあるのでしょう(笑)?

 

自性院の住所:福井市西木田21021

JR福井駅から乗り換え。福井鉄道「木田四ツ辻駅」下車。徒歩3分

 

つぎは「大御堂寺」です。

いきなり知多半島の先端まで飛びます。


                  by merry

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| 福井 | 11:41 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西光寺
 

西光寺

 

北ノ庄から南西方向に歩いて15分くらいの所に、柴田勝家の菩提寺「西光寺」があります。


 

案内の石碑によりますと

天正三年越後の国主として北の庄に赴任した勝家公は、岡の庄(岡保)天台宗西光寺に帰依し、自らの菩提所と定め民生安定の根本道場とするため当地に移し保護した。この墓は、豊臣家の祐筆山中山城守(名長俊)の手によって建立されたと伝えられる

 

祠の中には石塔がいくつか見えます。

ここでは、勝家、お市の方、甥の勝景、勝家の一子孫次郎の墓が合祀されているので、どれがお市の方のものかは分からないようです。


 

西光寺には「柴田勝家公資料館」があり勝家とお市の方の木造などがあるそうですが、この時閉まっていたので諦めて帰りました。

しかし他の方のブログによると、ちょっと声をかけると開けてもらえるとか。

・・残念・・

西光寺の住所:福井市左内町8−21
JR福井駅乗り換え。福井鉄道「公園口」下車。徒歩2分

 

次は自性院です。

                  by merry


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| 福井 | 10:50 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
北ノ庄城落城
 

北ノ庄城落城

 

賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄に戻ってきました。

 

一方秀吉は、直ちに北ノ庄が見わたせる足羽山(あすわやま)の山頂に本陣を敷き、城を包囲しました。

後方の山が足羽山です。

足羽山
 

423日の夜、覚悟を決めた勝家はせめて武将らしい最後を飾ろうと、天守に家臣や侍女たちを集め、最後の酒宴を催します。

ありったけの楽器を集め、奏でて歌い舞い、まるで戦勝祝いのようであったと伝わります。

 

そして明け方近く城に火がかけられ、燃えさかる炎の中で勝家とお市の方は家臣らとともに自害して果てました。

 

北ノ庄城址公園の資料館には、落城前夜に詠んだと云われる辞世の句碑があります。

 

勝家

夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山時鳥

 

お市の方

さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう 時鳥かな

 

423日は新暦でいえば6月の事。

時鳥のさえずりを聞きながら、ふたりは何を思ったのでしょう・・

辞世の句碑を見ながら、これは小説でもドラマでもなく、史実なのだと改めて思いました。

 

次はふたりの菩提寺、西光寺です。

               by merry


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| 福井 | 12:58 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
賤ヶ岳の合戦
 

賤ヶ岳の合戦

 

長浜城包囲戦、岐阜城包囲戦を経て、秀吉の次なる相手は「本命」柴田勝家でした。

天正113月、両陣営は雌雄を決するため、賤ヶ岳付近に布陣しました。

勝家方は前田利家、佐久間盛政ら率いる3万の軍勢。

一方秀吉は5万の大軍であったと云われています。

 

賤ヶ岳はびわ湖の北にあります。標高は422m

若いころは歩いて登ったものですが、さすがに前回行った時には(5年前)ロープウェイに乗りました。

 

賤ヶ岳合戦々没者霊地


 

合戦図


 

余呉湖を挟んで、手前に秀吉が布陣し、向こう側に勝家が布陣しました。


 

両軍はすぐに攻撃に出ないで睨み合いの状態となり、その間に城や砦を築いたと云われています。

そんな膠着状態を破ったのが前回の記事にも書いた信孝の挙兵です。

416日、秀吉は馬回り1万余を率いて即座に岐阜に向かいました。

 

419日、秀吉のいない隙を突いて、佐久間盛政が大岩山に攻撃をかけると、秀吉軍最前線の中川清秀が討死、岩崎山の高山右近も退却しました。

好機到来とばかり佐久間盛政は敵陣に深く入り込み、それを心配した勝家の撤退命令を無視して大岩山・岩崎山を占領し続けました。

武将の像

 

秀吉が大垣で中川清秀討死の知らせを受けたのは翌20日の正午過ぎ。

早くもその日の午後4時頃に大垣を出立し、木之本の本陣に到着したのはわずか5時間後でした。

そして兵を休めることなく、そのまま佐久間盛政隊の追撃戦を始めたのです。

これは秀吉の得意技ですね。

備中高松から引き返した「中国大返し」の経験もあり、今回の「美濃大返し」は、あらかじめ予想される手筈はすべて整えられていたと云います。

 

佐久間盛政は、この予想外の秀吉の動きに仰天
・・秀吉の得意技を知らなかったのですね。

占領した敵陣を捨て、慌てて退却し始めました。

それに対して、秀吉軍には弟の秀長も援軍に加わり、勢いを増して追撃してきます。

しかし意外にも佐久間盛政隊がうまく退却したため、今度は柴田勝政(佐久間盛政の弟で勝家の養子)の隊が標的にされます。

賤ヶ岳の戦いの中で、最も激烈な戦闘が繰り広げられたのがこの時でした。

「賤ヶ岳七本槍」がここで活躍しました。

 

それでも柴田勝政の隊は、追ってくる秀吉軍と戦いながら佐久間盛政隊と合流。

ここで隊を立て直して、逆襲しようとしました。

しかしこの時、前田利家父子の部隊が突然動き、なんと戦場を去ってしまったのです。

 

これが両軍の勝敗を決定づけました。

佐久間盛政隊は崩れ去り、それを見たほとんどの兵が逃亡してしまったのです。

柴田勝家は残った3千ほどの兵で最後の決戦を試みましたが、多勢に無勢。わずかな共を連れ、北ノ庄に向かって敗走します。

 

さてこの先「賤岳合戦記」によりますと、

北ノ庄に向かって敗走の途中、前田利家の府中城下にさしかかりました。

利家の招きに応じて城に入った勝家は、利家の裏切りを一切責めず、これまでの骨折りに対して礼を言い、「貴殿は秀吉と予て懇ろであるから、今後は秀吉に従い、幼君守立ての為に力を致される様に」と云ったという。

利家は食事も十分にとっていない勝家に湯漬けを出し、酒を勧め、夕方には新馬を準備して勝家を送り出したと云う。

 

前田利家と秀吉の間に密約があったとか、いや中立を守ったとか、いろんな説がありますが、この利家の戦線離脱が両軍の勝敗を決定づけたことや、戦後の大加増をみれば、やっぱりねぇ・・と思ってしまいますが。

 

そして勝家は北ノ庄に戻ります。

それは次回に。

                 by merry


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| 滋賀 | 11:18 | comments(9) | - |- pookmark↑PAGE TOP