賤ヶ岳の合戦
長浜城包囲戦、岐阜城包囲戦を経て、秀吉の次なる相手は「本命」柴田勝家でした。
天正11年3月、両陣営は雌雄を決するため、賤ヶ岳付近に布陣しました。
勝家方は前田利家、佐久間盛政ら率いる3万の軍勢。
一方秀吉は5万の大軍であったと云われています。
賤ヶ岳はびわ湖の北にあります。標高は422m。
若いころは歩いて登ったものですが、さすがに前回行った時には(5年前)ロープウェイに乗りました。
賤ヶ岳合戦々没者霊地
合戦図
余呉湖を挟んで、手前に秀吉が布陣し、向こう側に勝家が布陣しました。
両軍はすぐに攻撃に出ないで睨み合いの状態となり、その間に城や砦を築いたと云われています。
そんな膠着状態を破ったのが前回の記事にも書いた信孝の挙兵です。
4月16日、秀吉は馬回り1万余を率いて即座に岐阜に向かいました。
4月19日、秀吉のいない隙を突いて、佐久間盛政が大岩山に攻撃をかけると、秀吉軍最前線の中川清秀が討死、岩崎山の高山右近も退却しました。
好機到来とばかり佐久間盛政は敵陣に深く入り込み、それを心配した勝家の撤退命令を無視して大岩山・岩崎山を占領し続けました。
武将の像
秀吉が大垣で中川清秀討死の知らせを受けたのは翌20日の正午過ぎ。
早くもその日の午後4時頃に大垣を出立し、木之本の本陣に到着したのはわずか5時間後でした。
そして兵を休めることなく、そのまま佐久間盛政隊の追撃戦を始めたのです。
これは秀吉の得意技ですね。
備中高松から引き返した「中国大返し」の経験もあり、今回の「美濃大返し」は、あらかじめ予想される手筈はすべて整えられていたと云います。
佐久間盛政は、この予想外の秀吉の動きに仰天
・・秀吉の得意技を知らなかったのですね。
占領した敵陣を捨て、慌てて退却し始めました。
それに対して、秀吉軍には弟の秀長も援軍に加わり、勢いを増して追撃してきます。
しかし意外にも佐久間盛政隊がうまく退却したため、今度は柴田勝政(佐久間盛政の弟で勝家の養子)の隊が標的にされます。
賤ヶ岳の戦いの中で、最も激烈な戦闘が繰り広げられたのがこの時でした。
「賤ヶ岳七本槍」がここで活躍しました。
それでも柴田勝政の隊は、追ってくる秀吉軍と戦いながら佐久間盛政隊と合流。
ここで隊を立て直して、逆襲しようとしました。
しかしこの時、前田利家父子の部隊が突然動き、なんと戦場を去ってしまったのです。
これが両軍の勝敗を決定づけました。
佐久間盛政隊は崩れ去り、それを見たほとんどの兵が逃亡してしまったのです。
柴田勝家は残った3千ほどの兵で最後の決戦を試みましたが、多勢に無勢。わずかな共を連れ、北ノ庄に向かって敗走します。
さてこの先「賤岳合戦記」によりますと、
北ノ庄に向かって敗走の途中、前田利家の府中城下にさしかかりました。
利家の招きに応じて城に入った勝家は、利家の裏切りを一切責めず、これまでの骨折りに対して礼を言い、「貴殿は秀吉と予て懇ろであるから、今後は秀吉に従い、幼君守立ての為に力を致される様に」と云ったという。
利家は食事も十分にとっていない勝家に湯漬けを出し、酒を勧め、夕方には新馬を準備して勝家を送り出したと云う。
前田利家と秀吉の間に密約があったとか、いや中立を守ったとか、いろんな説がありますが、この利家の戦線離脱が両軍の勝敗を決定づけたことや、戦後の大加増をみれば、やっぱりねぇ・・と思ってしまいますが。
そして勝家は北ノ庄に戻ります。
それは次回に。
by merry
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