大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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近江ゆかりのお登勢と藤吉
 

近江ゆかりのお登勢と藤吉

 

三井寺からの帰り道、京阪電車・石坂線で龍馬ラッピング電車に遭遇しました。

 

 

あっ!これはお登勢と藤吉です。


 

あっ!龍馬〜

あれれ〜〜行ってしまいました。

 

寺田屋のお登勢さんといえば、龍馬を語る上で無くてはならない人物です。

たいへん面倒見がいい人で、龍馬に頼まれてお龍さんを預かったのは有名な話ですね。

お登勢さんは大津市菱屋町出身で、実家は旅館を営んでいたとか、米問屋であったとか云われています。

18歳で伏見の船宿、寺田屋六代目・伊助のもとに嫁ぎました。

 

龍馬の用心棒を務めた山田藤吉も、大津市の三井寺の近くの旧鹿関町出身です。

大変気の毒なことに、龍馬暗殺に巻き込まれて命を落としました。

 

龍馬を支えたこの2人は、ともに近江ゆかりの人なので、京阪電車のラッピング電車にデザインされた訳ですね。

 

では次は、下関の話題に戻ります。



                   by merry

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| 滋賀 | 14:46 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍馬を支えた藤吉と三井寺
JUGEMテーマ:龍馬伝-NHK大河ドラマ-

龍馬の世話係でもあり用心棒だった山田藤吉は、滋賀県の大津の三井寺町出身の元力士でした。力士として活動していましたが、若くして廃業。
その後、京都の料亭・武乃屋の出前持ちとなり、長岡謙吉、菊屋峯吉の知遇を得て、龍馬の世話役となりました。
慶応3年(1867年)11月15日、京都の近江屋で、龍馬を訪ねてきた刺客に応対し、案内しようとしたところを、後ろから斬られ、「ぎゃ〜!」と叫んで倒れました。その声を聞いた竜馬は、初めは相撲ごっこをしているのかと思ったそうです。「ほたえな!(騒ぐな!)」と注意した龍馬は、結局居場所が刺客に知れてしまい、中岡慎太郎と共に、暗殺されてしまいます。
藤吉は、翌日死亡しました。

その藤吉の故郷である三井寺町に行って来ました。
ここにはかの有名な三井寺(園城寺)があります。

仁王門

Img_1127_b

三井寺の名は、「天智・天武・持統」天皇の産湯に用いられたとされる泉があることから、「御井の寺」とよばれ、平安時代に円珍が密教の三部灌頂にこの水を使用し、「三井」とよばれたことに由来します。

金堂

Img_1102_b

北政所の寄進により、1599年に再建されました。

金堂の奥を上がって行くと、「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれる奈良時代の梵鐘があります。

弁慶の引き摺り鐘

Img_1107_b Img_1114_b

また近江八景のひとつ三井の晩鐘も見逃せません。

三井の晩鐘

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三重塔

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元々は、室町時代初期に建てられた吉野の比蘇寺の塔でしたが、1601年、家康により移築されました。

三重塔の南側にには、円珍の廟所の唐院があり、三井寺のもっとも神聖な場所とされています。

唐院灌頂堂

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長日護摩堂

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三井寺は、境内がとても広く、時間に余裕がないと廻りきれません。
またの機会にゆっくりと訪れてみたいお寺のひとつです。

三井寺(園城寺) 大津市園城寺町246

by shizuka


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| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
酢屋
 

酢屋

 

京都の土佐藩邸から200mほどの所に「酢屋」という材木屋があります。

材木商という仕事柄、土佐藩とつながりがあった6代目嘉兵衛は、ここを海援隊の拠点として龍馬らを匿いました。



 

龍馬は2階の表通りに面したこの部屋で寝泊りしていたと伝わります。

また、この格子窓からピストルを撃ったという話もあるそうです。

 

この「酢屋」が昨夜(1024)放映の大河ドラマの舞台になっていました。

 

龍馬は2階の部屋で、「船中八策」について中岡慎太郎に熱く語っています。

「この8つの策を成し遂げる事で、この日本を誰もが笑って暮らせる国にできると信じちゆ」

横で聞いていた藤吉も、そんな国になって欲しいと泣きます。

 

龍馬、中岡、藤吉・・3人ともそんな時代を待たずに、近江屋で命を失うのですね。

 

この建物は、改装はされているけれど当時のままで、今でも材木商を営んでおられるそうです。
また一部はギャラリーとなっています。

 

私は、ここを2度訪れたのですが、2回目の時は雨でした。
その時、前を芸妓さんが通りました。

雨コートを着た芸妓さん・・京都らしい風情ですね。

 

次は、また下関の記事に戻ります。

                 by merry

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| 京都 | 14:22 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
福山城博物館
 

福山城博物館

 

新幹線で福山駅を通る時、いつも思っていました。

綺麗なお城だな〜いつか見に行こうと・・

 

元和5(1619)徳川譜代の臣、水野勝成が備後10万石の領主となり、福山城を築きました。

その後水野氏5代、代わって松平氏1代、阿部氏10代と続いた後、明治6年に廃城となりました。

 

その後、昭和20年の戦災により、天守閣と御湯殿を焼失。

伏見櫓、筋鉄御門だけは焼失を免れ、現在、国の重要文化財となっています。

伏見櫓


筋鉄(すじがね)御門





昭和
41年に御湯殿、月見櫓、そして天守閣が復元されました。

御湯殿




月見櫓


 

天守閣は、福山城博物館となっています。

「幕末の福山藩」をテーマに展示会が開かれていました。


 

嘉永6(1853)、アメリカの黒船来航により200年余り続いた鎖国政策から日米和親条約を締結して開国へと日本の歴史を大きく動かしたのが、老中の福山藩主・阿部正弘です。

ペリー来航絵図や、阿部正弘の肖像画など多くのものが展示されていました。

 

その中で、さきほど「いろは丸展示館」で探していた「靴底」が展示されていました。

「靴底」は、潜水調査で引き揚げられたいろは丸の遺物で、龍馬が履いていたブーツの靴底ではないかと云われているものです。

長さ30cmと説明板に書いていましたが、かなり大きな靴ですね。
大きな靴という事は、当時にしては背が高かった龍馬のものの可能性が大ですね。

もっともこの時代は、足に合う靴ではなくて、靴に合わせて履いていた時代だったから、龍馬の靴かもしれないし、他の海援隊士の靴かもしれないし、運んでいた商品かもしれません。

考えると楽しいですね。

それと、大理石製のドアノブも展示されていました。

写真に撮れないのが残念です。

 

エレベーターがないので、5階の展望室まで歩きます。

結構きつい・・

でも、素晴らしい景色が待っていました。



 

 

夜はライトアップされるとか・・

 

帰りの新幹線のホームでライトアップされるのを待っていましたが、残念ながら日没になりませんでした。

でも、福山城の全景が撮れたので満足です。


 

これで、鞆の浦関連の記事は終わります。



            by merry


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| 広島 | 14:58 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
廻船問屋・枡屋清右衛門宅
 

廻船問屋・枡屋清右衛門宅

 

いろは丸事件の際に、龍馬ら海援隊が宿泊した枡屋清右衛門宅です。

江戸末期の建物で、枡屋は廻船業問屋を営んでいたそうです。

 



このあたりは東浜という地名のようで、なるほど向こう側に海が見えます。

 

龍馬は紀州藩との談判のため、ここで56日しました。


 

現在は個人宅になっているので残念ながら入れませんが、20101113日〜15日の間、特別公開されるそうです。

近くに住んでいたら来られるでしょうが、私には無理です〜

 

 さて、鞆の浦の龍馬ゆかりの史跡を一巡しましたが、時計を見ればまだ3時前。

「平成いろは丸」に乗ったのが12時半だったので、2時間半でたくさんの史跡を回ることができたわけです。

 

予定の時間より1時間早いので、福山城に寄ることにしました。

そこで、思いがけない龍馬関連のものを発見。

それは次回に。

                by merry


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| 広島 | 14:44 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
いろは丸展示館
 

いろは丸展示館

 

石造りの常夜灯と階段状の船着場・雁木

「いろは丸展示館」は、そんな江戸時代から残る古い町並みにあります。

龍馬もこの常夜灯の灯りを目指して来たかも知れないし、ここから船を降りたかも知れない。
そんなワクワクどきどきの風景です。



 

いろは丸が沈没してから120後の1987年頃から地元で引き揚げの気運が高まり、翌年の1988年から2004年まで、5回にわたって潜水調査が行われたそうです。

5回目の調査は、日本テレビでも放映されたそうですが・・・
6年前に・・そういえばそんな記憶がありますね。

ここには、その遺物が展示されています。

 

まずは、いろは丸の沈没状況のジオラマです。

潜水ダイバーが調査している様子を再現しています。

水深27m。左側が船首です。
こんな風にいろは丸は沈んでいるのですね〜


 

引き揚げられたものは、まずは大量の石炭だったそうです。

そして、瀬戸物、ガラス、硯、木製の部品・・etc

 

龍馬はミニエー銃400丁を積載していたと主張して莫大は補償を求めましたが、その部品すら見つからなかったそうです。

 

そうそう、引き揚げられた遺物の中に「靴底」があると聞いていたのですが、それはここにはありませんでした。

  

2階には、龍馬が宿泊していた廻船問屋・枡屋の屋根裏部屋が再現されていて、龍馬の等身大フィギュアがあります、

 

2階に上がった時には私ひとりだったので、正直少し怖かったですね。

 

海援隊が出版したABCの本。
龍馬もお勉強をしていたのでしょうか?

世界の海援隊を目指して、夢は広がっていったでしょうね。

後でゆっくりパンフレットを読んで気がついたのですが、「いろは丸から引き揚げられた石炭を記念品としてはいかが?100円以上のカンパをしてくださった方にさしあげます」と書いてました。
1000円で石炭・・なら少し考えますが、100円なら悩む事なくカンパできます。
その場で気付かなかったのが残念。

 

次は、龍馬が宿泊していた廻船問屋・枡屋です。


            by merry


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| 広島 | 13:14 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
御舟宿いろは
 

御舟宿いろは

 

鞆の浦に、ちょっとおしゃれな宿があります。

ステンドグラスなどもあって、ステキですね。

 

それもそのはず、スタジオジプリの宮崎監督がデザインしました。

この歴史ある古民家を残すため、監督が一役買ったそうです。


 

当時ここは、町の世話役の一人だった魚屋万蔵が営む船宿でした。

鞆の浦に上陸した龍馬たちは、紀州藩の宿舎と、龍馬たちの宿舎とのちょうど中間の位置にあるこの船宿で談判を開始しました。


 

龍馬は、紀州藩の明光丸に非があると強行に抗議しましたが、両者の主張は真っ向から対立してついに決裂。

紀州藩が、交渉の続きは長崎で行うと一方的に告げて、強引に明光丸を出航させました。

そして、談判の舞台は長崎へ移ります。

その続きの記事は715日の記事に書いています。

http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?day=20100715

 

幕府御三家の紀州藩を相手に、一歩も下がらす強弁を貫いた龍馬には、目を見張るべきものがあります。

さて、この7万両は現在の価格にして1億8200万円になるそうですが、この年の12月に土佐藩に支払われ、一部が海援隊士に分配されたそうです。

でも、龍馬はその前の1115日に京都近江屋で世を去っています。

今の時代なら、お龍さんにもその権利があるでしょうが、当時はどうだったのでしょうね?

気になるところです。

 

次はいろは丸展示館です。


                 by merry


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| 広島 | 12:57 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
圓福寺・夾明楼

圓福寺・夾明楼(きょうめいろう)

 

対潮楼から見えていた圓福寺ですが、さて近くまで行くと、どこから入るのか迷ってしまいます。

細い道を歩いていると、入口が見つかりました。

すごく急な階段です。

 



鞆の浦に上陸した紀州藩が宿舎としたのが、この圓福寺の夾明楼です。


 

圓福寺は南北朝の頃の城跡に建てられたお寺です。

だから崖の上に立つ天然の要塞のようなところなので、階段も急勾配な訳ですね。

紀州藩がここを宿舎にしたのは、万一の奇襲に備えたのではないかと云われているそうです。

 


さて夾明楼は、この時期
(201010月〜11)の毎週日曜日だけ特別公開されています。

私が行ったのは月曜日の祝日でしたが、ラッキーなことに開いていました。

 

ここも、瀬戸の島々が眺望できる景勝地です。


 

 

頼山陽の叔父である頼杏平がこの景観を賞して、「夾明楼」と命名し美麗な書を残しました。

夾明楼の扁額

 

またここは、朝鮮通信使の上官の定宿にもなっていて、花庵という人が圓福寺の山号「南林山」の書を残しました。

南林山の扁額

 

対潮楼、夾明楼と続き、瀬戸内海の景色を満喫です。

 

次は、宮崎駿監督がデザインした「御舟宿いろは」です。

                  by merry

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| 広島 | 15:05 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
福禅寺・対潮楼
 

福禅寺・対潮楼

 

さて、渡船場を出て「福禅寺」はどこかとマップで調べていたら、目の前にそびえていた大きな石垣のお寺がそれでした。


 

そもそも「いろは丸事件とは」・・

「海援隊」として新たなスタートをきった龍馬は、大州藩から15日間・500両で「いろは丸」を借り受け、慶応3(1867)419日、初仕事として船に乗り込みました。

荷物を満載した「いろは丸」は長崎を出航し、大阪めざして一路、瀬戸内海を進みます。

しかし423日午後11時頃、岡山県・六島付近で紀州藩の「明光丸」と衝突。

「いろは丸」の損傷が激しいため、龍馬をはじめ乗組員たちは「明光丸」に乗り移り、「いろは丸」を曳航しますが、午前4時頃、宇和島の近くでついに沈没します。

 

鞆の浦に上陸した龍馬は、事故の責任を巡って紀州藩に談判を行います

その舞台のひとつが福禅寺です。

 

細い路地の階段を上がって行くと入口があります。


 

大変素晴らしい景色が見られるというので、胸が高鳴ります。


 

福禅寺の客殿・対潮楼からの眺めです。

すばらしい〜〜〜〜



瀬戸内海の景色をそのまま額縁に入れた・・まさに「絵」です。

朝鮮通信史たちが賞賛するのはモットモです。

 


朝鮮通信使がこの景色を賞賛して残した書の扁額です。


これもまた、朝鮮通信使が「対潮楼」と命名して書いた書の扁額です。


あっ!平成いろは丸が行きます。

 

龍馬も見たであろうこの景色。

でも、紀州藩との交渉で頭がいっぱいだから、景色どころではなかったかもね。

 

次は、対潮楼の向こう側にそびえている「圓福寺・夾明楼」です。

               by merry

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| 広島 | 14:46 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
平成いろは丸
 

平成いろは丸

 

「いろは丸事件」を追って、広島県福山市にある鞆の浦に行ってきました。

鞆の浦といえば、瀬戸内海の風光明媚な景色と美味しい鯛、そして宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」の舞台であり、「いろは丸事件」の舞台でもあります。

 

龍馬が乗船した「いろは丸」とは・・・

1862年にイギリスで建造され、薩摩藩が長崎の貿易商グラバーから購入した船です。

その後、慶応2(1866)に竜馬のすすめで伊予の大洲藩が購入しました。

長さ54.5メートル、45馬力、160トンの鉄製スクリュー式蒸気船です。

 

今年の大河ドラマに合わせて、新しく「平成いろは丸」就航したそうなので、早速乗ってみました。

 

全長22メートル、19トン、定員は99人。

龍馬が乗った「いろは丸」の3分の1の大きさだそうです。

 

 

着岸の時には、船首が上がっていますが・・

 

岸から離れると方向を変え、加速しながら船首が降ります。
面白いでしょ?

 


船内には当時の操舵輪が再現されていました。


 

レトロな雰囲気がいいですね。

 





弁天島を見ながら進みます。


 

あっという間に、仙酔島に到着です。

 

仙酔島にある国民宿舎では「龍馬といろは丸展」が開催されていました。

無料なので(笑)ちょっと覗いてみました。

 

わっ!いきなり龍馬像です。

なかなか精悍な顔つきをしていますね。

 

これも龍馬?武田鉄矢に似ていませんか?

それなら勝海舟でしょう。

 

展示館の中には、ドラマで使われた道具が展示されていました。

 

国民宿舎前には、美しい砂浜が広がっています。

こども連れの家族旅行には、ぴったりの場所ですね。


 

島内には散策コースなどが整備されていましたが、これから龍馬ゆかりの史跡を回る予定なので、20分ほど滞在しただけで帰りの船にのりました。

 

市営渡船場から仙酔島までわずか5分の乗船、往復240円の短くて安い船旅でした(笑)

 

次は、福禅寺・対潮楼です。


                by merry


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| 広島 | 14:24 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP