文久3年(1863)、長州藩は攘夷決行のため、下関の関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えます。
これにより下関戦争がぼっ発。
しかし砲台は次々に占領され、2年にわたる戦争は長州藩の惨敗で幕を閉じます。
長州藩は旧式の砲弾や木砲を駆使し、最後まで戦い抜きました。
長州人のまっすぐな気質をたたえたアーネスト・サトウは「我々は長州人を好きになった」という言葉を残しています。
大河ドラマ龍馬伝・紀行より引用
昨日(5月9日)の大河ドラマ「龍馬伝」紀行のナレーションとともに、壇ノ浦砲台跡の映像が写りました。
あ〜〜ここ行った事がある!!
大河ドラマが「義経」の年、下関の壇ノ浦古戦場址がある御裳川(みもすそがわ)公園に行って、この砲台跡を見た!見た!私は見た!
じゃ、写真があるはず・・
と思って、今日一日探したのですが・・
残念ながら、撮ったのは「御裳川碑」だけで、砲台跡の写真はありませんでした。(涙)
この向こうにあったんだけどな〜〜
そこで、ハタと思い出しました。
この下関戦争の時に、外国船の来襲に備えて積み上げられた土塁「台場跡」が、今もなお萩の海岸にあった事を。
もちろん、写真もあります。エヘン、エヘン。
これのすごいのは、この築造に武士の妻や奥女中たちが大きく貢献した事です。
だから、通称「女台場」と呼ばれているそうです。
萩市の菊ヶ浜には、高さ3m.幅12mの土塁が50mにわたって残っています。
台場には、碑がたってます。
裏側に、女台場と呼ばれる由来が書いてます。
幕末に勇ましかったのは志士だけでなく、女性たちも頑張っていたのです。
By merry
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