密航失敗の直後から、松陰は二十一回猛士と名乗り始めます。
生涯に21回激しい行動をする士という意味で、今後も激しい行動を繰り返し、生涯ひとすじ貫いてみせるという松陰の決意を表わしています。
安政2年(1855年)松陰は出獄を許され、実家である杉家での幽閉処分となります。
この頃杉家は、現在の松陰神社がある場所に居を移しています。
これは親族・瀬能家から借りた家で、山手にある生誕の家と比べるとかなり広いものです。
その敷地に開いたのが松下村塾です。
4月13日の記事にも載せた写真ですが・・
松下村塾での松陰は、武士や足軽・町人と身分を問わず、弟子のそばに歩みよって、優しく教えていたと云います。
皆で対等な立場で学ぼう、そんな松陰の想いが伺えます。
松陰の人柄に惹かれ集まった弟子達はおよそ90人
この松下村塾はわずか1年という短期間に終わりましたが、高杉晋作や長州の若きリーダー久坂玄瑞、後の初代総理大臣伊藤博文など大勢の偉人が育ちました。
そしてその一方で、松陰は強烈な幕府批判を始めます。
「将軍は天下の賊である」
「将軍を討ち、幕府を倒せ」
「幕府の老中を暗殺します」
藩は慌てて松陰を牢獄へ入れますが、松陰は屈せず、さらに弟子達に決起を促す手紙を書きます。
松陰は江戸へ送られ、幕府批判に関わる人物として、幕府から直々に取調べを受けます。
しかし松陰が尋問されたのは幕府を批判する学者と密会したという疑い。
老中暗殺を企てた話は一切でなかったのです。
調べはすぐに終わり、松陰は軽い罰で済みそうだったのですが、とつぜん松陰は自白を始めます。
松陰にとって尋問の場は、幕府役人に直接意見が言える千載一遇の機会だったのです。
自分が声をあげれば少しでも世の中が変わるかも知れない。
行動こそを大事にしてきた松陰の命をかけた訴えでした。
しかし松陰の声は、幕府重役の殺害計画という大きな罪の前にかき消されます。
松陰に命ぜられたのは死罪
安政6年(1859年)10月27日吉田松陰死去享年30歳
100日後、松下村塾の弟子達が、松陰生誕の地に遺髪を埋めて墓を建てました。
墓に刻まれた名は二十一回猛士
松陰の遺書「留魂録」に書かれています。
「もし同志の中でわたしの心を受け継いでくれる人があれば、それはまた種子が絶えずに穀物が年ごとに実っていくのと変わらないこととなろう」
松陰のまいた種を受け継いだ弟子や友人たちは、江戸幕府への反抗を始めます。
そして松陰の死の8年後幕府は倒れ、明治の世へとつながっていきました。
人と異なる道を恐れず、自分の限界に挑戦し続ける、
吉田松陰の生き方は、次の世代へと受け継がれる事で、新たな時代を切り開いていったのです。
歴史秘話ヒストリアを見て、吉田松陰を知っているつもりで、実は全く知らなかった事に気がつきました。
この番組を見てから萩に行けば、もっと深く見れたのではないかと、今更ながら悔やんでおります(涙)
今回の記事も、歴史秘話ヒストリアから抜粋しました。
さて、龍馬から久坂玄瑞、そしてその師・吉田松陰と順番にさかのぼってきましたが、次回は龍馬の記事に戻ります。
By merry
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