大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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有備館
  

萩の市街地に明倫小学校があります。

その一角に、当時「西日本一」の教育施設と称されていた藩校・明倫館の槍剣道場「有備館」があります。
有備館1

有備館3

北半分は板間39畳の剣術場、南半分は土間54畳の槍術場、
その西側に藩主の上覧場や控え室などがあるそうですが、
普段は非公開となっています。

有備館2

ここは、藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修行者との試合場「他国修行者引請剣槍術場」でもあり、龍馬もここで剣を振るったと云われています。

北辰一刀流の腕を鍛えた龍馬、

果たして、その試合に勝ったのか、負けたのか・・

 

残念ながら、龍馬は少年に負けた・・と伝わっているそうです。

でも、お客さんの立場だから、少し手加減したのかも知れませんね(笑)

 

いづれにしても、龍馬は萩で9日間滞在し、吉田松陰の意思を継ぐ志士達と交流し、剣術の他流試合などをして、萩を後にしたようです。

最後に、海辺から指月山の写真を撮りました。

この山の麓に萩城がありました。

龍馬もこの景色を見たのでしょうか・・

指月山 

萩を旅行するにあたって、萩市観光協会様よりパンフレットを送ってもらいました。

幕末の観光ポイントがとてもわかりやすいマップで、重宝しました。

ありがとうございました。

萩市観光協会 http://www.hagishi.com

 

              By merry

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| 山口 | 09:22 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
松陰二十一回猛士
  

密航失敗の直後から、松陰は二十一回猛士と名乗り始めます。

生涯に21回激しい行動をする士という意味で、今後も激しい行動を繰り返し、生涯ひとすじ貫いてみせるという松陰の決意を表わしています。

 

安政2年(1855年)松陰は出獄を許され、実家である杉家での幽閉処分となります。

この頃杉家は、現在の松陰神社がある場所に居を移しています。

これは親族・瀬能家から借りた家で、山手にある生誕の家と比べるとかなり広いものです。

杉家1

杉家2

その敷地に開いたのが松下村塾です。
4月13日の記事にも載せた写真ですが・・
松下村塾1

松下村塾での松陰は、武士や足軽・町人と身分を問わず、弟子のそばに歩みよって、優しく教えていたと云います。

皆で対等な立場で学ぼう、そんな松陰の想いが伺えます。

松陰の人柄に惹かれ集まった弟子達はおよそ90

この松下村塾はわずか1年という短期間に終わりましたが、高杉晋作や長州の若きリーダー久坂玄瑞、後の初代総理大臣伊藤博文など大勢の偉人が育ちました。

 

そしてその一方で、松陰は強烈な幕府批判を始めます。

「将軍は天下の賊である」

「将軍を討ち、幕府を倒せ」

「幕府の老中を暗殺します」

 

藩は慌てて松陰を牢獄へ入れますが、松陰は屈せず、さらに弟子達に決起を促す手紙を書きます。

 

松陰は江戸へ送られ、幕府批判に関わる人物として、幕府から直々に取調べを受けます。

しかし松陰が尋問されたのは幕府を批判する学者と密会したという疑い。

老中暗殺を企てた話は一切でなかったのです。

調べはすぐに終わり、松陰は軽い罰で済みそうだったのですが、とつぜん松陰は自白を始めます。

松陰にとって尋問の場は、幕府役人に直接意見が言える千載一遇の機会だったのです。

自分が声をあげれば少しでも世の中が変わるかも知れない。

行動こそを大事にしてきた松陰の命をかけた訴えでした。

しかし松陰の声は、幕府重役の殺害計画という大きな罪の前にかき消されます。

松陰に命ぜられたのは死罪

安政6年(1859年)1027日吉田松陰死去享年30

 

100日後、松下村塾の弟子達が、松陰生誕の地に遺髪を埋めて墓を建てました。

松蔭の墓
 

墓に刻まれた名は二十一回猛士

二十一回猛士 

 

松陰の遺書「留魂録」に書かれています。

「もし同志の中でわたしの心を受け継いでくれる人があれば、それはまた種子が絶えずに穀物が年ごとに実っていくのと変わらないこととなろう」

 

松陰のまいた種を受け継いだ弟子や友人たちは、江戸幕府への反抗を始めます。

そして松陰の死の8年後幕府は倒れ、明治の世へとつながっていきました。

人と異なる道を恐れず、自分の限界に挑戦し続ける、

吉田松陰の生き方は、次の世代へと受け継がれる事で、新たな時代を切り開いていったのです。

 

歴史秘話ヒストリアを見て、吉田松陰を知っているつもりで、実は全く知らなかった事に気がつきました。

この番組を見てから萩に行けば、もっと深く見れたのではないかと、今更ながら悔やんでおります(涙)

今回の記事も、歴史秘話ヒストリアから抜粋しました。

 

さて、龍馬から久坂玄瑞、そしてその師・吉田松陰と順番にさかのぼってきましたが、次回は龍馬の記事に戻ります。

                   By merry

 

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| 山口 | 14:53 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
萩に残る 野山獄・岩倉獄
 

アメリカ密航を企てた吉田松陰と金子重之助は逮捕され、長州藩に送り返されます。

大河ドラマの中にも、そのシーンがありましたね。

 

萩には、当時の牢屋跡が今も残っています。

こちらが、松陰が入れられた野山獄跡

野山獄
 

一方の金子はその向かい側、岩倉獄に入れられます。

岩倉獄 

わずか道を1本挟んだだけの二つの牢獄には、目に見えない大きな隔たりがありました。

 案内板

松陰の野山獄は上の略図に(上牢)と書かれているように、武士用の牢屋です。

ひとり一部屋が割り当てられ、食事や寒さを凌ぐ夜具も十分に与えられます。

 

しかし金子の岩倉獄は足軽や農民用の(下牢)、つまり雑居房です。

環境は悪く、食事は不十分、手紙や面会は一切許されません。

一緒にはるかアメリカを目指そうと、ひとつの志で結びついた二人を故郷長州藩の身分制度が引き裂いていきます。

 

季節は冬。

牢に入る直前から病を患っていた金子は体調を崩していきますが、岩倉獄では、医者さえ呼んでもらえません。

 

松陰は食事を絶ち、たったひとりの弟子の回復を願います。

それでも聞こえてくるのは、金子が衰弱する様子だけ。

松陰はせめて金子を家族に会わせてやって欲しいと訴えますが、それも聞き入れてもらえません。

 

牢に入って3月余り、金子重之助は息をひきとります。

まだ25歳の若さでした。

 

その夜松陰は夜通しむせび泣きます。

同じ志の二人なのに、身分の違い、それだけで自分が生き残り、金子は無残な死を迎えてしまった。

身分の低い者が志を果たせない国の現状に松陰は疑問を膨れあがらせていくのです。

 

正直言って、この野山獄・岩倉獄の写真を撮った時、あまり詳しい事は知らなかったのですが、414日の歴史秘話ヒストリアを見て、こんな深い話があった事を初めて知りました。

せめてもう少し丁寧に写真を撮ればよかったのにと、反省しきりです。

 

今回の記事も歴史秘話ヒストリアを参考に書きました。

 

 

この後、松陰は二十一回猛士と名乗り始めます。

それについては次回の記事で。

 

               By  merry

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| 山口 | 10:47 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
吉田松陰のアメリカ密航計画
 

吉田松陰が、黒船に乗り込んでアメリカ密航を企てた事件について、414の歴史秘話ヒストリアで詳しく説明されていました。

大変興味深く、面白かったので、以下それを参考に記事をまとめました。

吉田松陰と金子重之助
 

嘉永6年(1853年)6月松陰24歳の時、ペリーのアメリカ艦隊が浦賀に現れます。

そして翌年の安政元年(1854年)1月、再びペリーが来航しました。

 

黒船を見てアメリカの高度な文明に圧倒された松陰は、「西洋に対抗するには、自分がアメリカに渡り進んだ技術を学ぶしかない」と考えました。

 

そこへ、ともにアメリカへ渡りたいと願い出たのが金子重之助です。

長州藩足軽で、松陰よりひとつ年下でした。

松陰は金子の固い決意にうたれて、初めての弟子と認めます。

そして二人は、危険な密航にともに命をかける事を誓います。

 

安政元年(1854年)3月、松陰と金子は黒船が停泊している伊豆・下田に向かいました。

そして無謀な挑戦が始まります。

 

まず一回目の挑戦

37日深夜、二人は地元の船頭がこぐ舟で海に乗り出しました。

黒船まであとわずか・・・ところが船頭がこれ以上近づきたくないと拒否したため、失敗に終わります。

 

二回目の挑戦

二人は別の船頭に頼み込み、やっと黒船まで送ってもらう了解を得ますが・・
結局その夜、すっぽかされてしまいました。

また失敗です。

 

三回目の挑戦

松陰は、上陸していた黒船の船員にこっそり手紙を渡し、海岸まで迎えに来て欲しいと頼みました。

しかし、わざわざ迎えに来てくれる訳はありません。

これまた失敗です。

 

四回目の挑戦

打つ手が尽きた松陰と金子は、ついに自分達だけで行こうと覚悟を決めます。

 

327日深夜、二人は小舟を盗み出すと黒船へと漕ぎ出しました。

200m.沖の黒船に向かって、慣れない舟を操りながら近づいていきます。

 

なんとか黒船にこぎ寄せると、アメリカに行きたいと書いた紙を見せてアピールしました。

しかし命がけの申し出は断られます。

密航者を受け入れると幕府との交渉に支障が出る恐れがあったためです。

アメリカ密航計画は、こうして失敗に終わりました。

吉田松陰っていう人は、失敗を恐れずに、体当たりでぶつかっていく人なのですね〜
あの肖像画からは、全く想像できないことです。

 

しかし、危険を顧みない松陰と金子の行動についてペリーは後にこう記しているそうです。

「この事件は二人の日本人の激しい知識欲を示すものとして実に興味深かった。

この二人の性格を見れば、日本の前途はなんと可能性を秘めていることか、なんと有望であることか」

                 ペリー提督日本遠征記

  

しかしこの後、二人を待っていたのは、悲劇的な運命でした。

これについては、次回の記事に。

 

                 By  merry


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| 山口 | 20:54 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
吉田松陰
 

吉田松陰松陰神社に貼ってあったポスターをデジカメで撮ってきました。

ガラスの反射で少々光ってますが・・

今まで何度か目にした事がある吉田松陰の肖像画ですが、私はずっと松陰は高齢の教育者だと思ってました。

ところが今回初めて気がつきました。

享年30歳だったんだと。



現代の若者と比べて内面はもちろんの事、外面も全然違いますよね(笑)・・

 

吉田松陰を祭神とした松陰神社です。

松蔭神社
 

さて、松陰神社をあとにして、松陰誕生の地に向かいました。

ホテルで借りた自転車に乗っているので、数分で行けそうと思っていました。

 

ところが山手にあるので、結構坂道がきつい・・

ちょっと休憩。

松蔭誕生の地1
 

やっとの思いで到着。あー疲れた。

松蔭誕生の地2 

振り返って見ると、なるほど素晴らしい眺望です。

 松蔭誕生の地3

吉田松陰は、天保元年(1890年)8月4日下級武士の次男として産まれました。

小さな部屋が4つと台所という、大変狭くて質素な家だったようです。

松蔭の生家跡 

 

産湯の井戸跡もありました。

松蔭産湯の井


その後、5歳で兵学者の叔父の養子となり、叔父から英才教育を受けます。

そしてわずか9歳で古典をそらんじ、11歳で藩主の前で学問を講義するなど、長州藩きっての天才といわれ、まわりの期待を集めました。

22歳で兵学修行のため江戸へ行き、その後藩から自由な旅を許されて、九州から東北まで各地を旅し、見聞を広めました。


生家跡の横に、吉田松陰と弟子の金子重之助の銅像がありました。
逆光で真っ黒になりましたが。

吉田松陰の像

大河ドラマでは、この二人が伊豆下田から黒船に乗り込んで密航しようとするところに桂小五郎と龍馬が駆けつけるというストーリーになってましたが・・

 

これについては次回の記事にします。

 

            By merry

 

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| 山口 | 19:56 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
龍馬と勝海舟の出会い


吉田松陰の記事を載せる予定でしたが、昨夜(418日)の大河ドラマの紀行で勝海舟がとりあげられていたので、急きょ変更することにします。

 

勝海舟は文政6年(1823年)旗本・勝小吉の長男として江戸本所(東京都墨田区)に生まれました。

旗本とはいうものの下級武士であるため、貧しい少年時代を過します。

しかし剣術修行に明け暮れ、蘭学に力を注ぎ、努力を積み重ねていきます。

 

両国公園の一角にある「勝海舟生誕の地の碑」

 勝海舟生誕の地の碑

神社の境内で夜通し剣術の稽古をしたと伝わる「牛嶋神社の跡地」

 牛嶋神社跡

剣の師匠の勧めで、禅修業にも励んだという「弘福寺」

弘福寺2 

 

そんな時に黒舟の来航があり、幕府に提出した海防意見書が認められて海舟は頭角を現します。

万延元年(1860年)通商条約批准のため、ジョン万次郎、福沢諭吉らとともに咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航、帰国後は軍事奉行となります。

 

隅田区役所にある勝海舟の銅像

勝海舟の像
 

隅田川

隅田川
 

その2年後の文久2(1862)、脱藩した龍馬は松平春嶽の紹介で海舟に出会い、広い視野を持つ開明的な思想に心酔して門弟となります。

ここから、龍馬の新しい世界が広がっていきます。

 

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| 東京 | 16:03 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
吉田松陰と久坂玄瑞
  

松陰神社の境内に入ると、質素な建物が見えてきます。

これが、吉田松陰が主宰し、明治維新の原動力となる多くの門下生を輩出した松下村塾です。

松下村塾1

松下村塾2 

中には、明治新政府樹立に大きく貢献した人や、その後要職についた人たちの写真が飾られています。

松下村塾の写真

 

左上にあるのが、この松下村塾で一番の秀才といわれた久坂玄瑞の写真です。

吉田松陰が自分の妹を久坂玄瑞と結婚させたことからみても、その優秀ぶりが伺えます。

久坂玄瑞の写真
 

安政の大獄で刑死した吉田松陰の意思を継ぎ、久坂玄瑞は尊攘運動のリーダーとなっていました。
そんな時に、龍馬は武市半平太の手紙を持って萩を訪れたのです。

大河ドラマの中では、松陰先生を偲んでオイオイ泣いていた久坂玄瑞(笑)ですが、はたして二人は時局について、どんなことを語りあったのでしょうか。

9日間の滞在の後、龍馬は、久坂玄瑞から武市半平太にあてた手紙を持ってかえっています。それには、

 

「ついに諸侯(諸大名)恃むに足らず。公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、義挙の外はとても策これ無し・・失敬ながら尊藩(土佐)も幣藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」


これを現代語にすると
「諸侯も公卿も頼みにならない。草莽の志士が決起すべきだ。大義のためには、土佐藩・長州藩が滅亡しても構わない」  

と書かれていました。

今朝の新聞によると、この手紙は1927年に出版された史料集に掲載された後、行方が分からなくなっていたそうですが、最近になって見つかり、昨日12日、土佐山内家宝資料館が報道陣に公開したそうです。

それによると、さらに
「坂本君とは腹蔵無く話し合ったので、詳しく聞いてください」
とも書かれていたという。
う〜ん。久坂玄瑞の熱い語りに、龍馬はかなり触発されたのではないでしょうか・・    

 

 

松陰神社より少し足を伸ばして、吉田松陰誕生の地にも行ってきたので、次回はそれをレポートします。

 

                   By merry   

     
    

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| 山口 | 15:38 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
薩長土連合密議の処

 

文久2年(1862114日、坂本龍馬は萩を訪れています。

大河ドラマでは武市半平太の許可をもらい、自分の意思で行った事になっていましたが、史実は違い、武市半平太の密書を久坂玄瑞に届けたようです。

 

龍馬は萩に9日間滞在したあと土佐に戻り、そのわずか2ヵ月後には脱藩しています。

いったい萩でどんな感化を受けたのでしょうか??

 

そこで私はその謎を解くべき、萩に行ってきました。

な〜んて、ちょっと格好つけちゃいましたが・・(笑)

 

松陰神社です。

松蔭神社

松陰神社に入ってすぐ左手に「薩長土連合密議の処」と書いた碑があります。

当時ここには旅館があり、龍馬が萩を訪れた初日に一泊しています。

薩長土連合密議の処1

薩長土連合密議の処2
 

ちょっと拡大すると、龍馬の名前が読めるでしょう。
薩長土連合密議の処3

 

たまたまその日、薩摩藩士樺山三円の書簡を届けに来た田上藤七も宿泊していて、はからずも薩長土の三藩がそろいました。

おそらく久坂玄瑞を中心として、攘夷について、そして日本の将来について、熱く語り合ったのではないでしょうか。

そしてその密議が龍馬の心をおおきく動かしたのでは・・

 

ではいったい久坂玄瑞とはどんな人物なのか、

それは次回の記事にします。

 

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| 山口 | 20:24 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP