大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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篤姫の晩年
  

江戸城を退去した篤姫は、ひとまず一橋邸に仮住まいした後は都内を転々とする生活だったようです。

しかも本寿院をはじめ、多くの家族を連れての生活なので、大奥とは大違いの不自由な暮らしを余儀なくされました。

そんな中でも、廃藩置県で東京に戻ってきた徳川家達の養育に力を入れ、徳川のために力を尽くしました。

 

そしてようやく、千駄ヶ谷に徳川宗家の邸宅を構えることができ、篤姫はここを終の棲家としたのです。

 

現在は、敷地の一部が東京体育館になっています。

東京体育館

東京体育館 


千駄ヶ谷に移って
6年後の明治16年。

徳川家達と近衛泰子の婚礼を見届け、次の代の命が宿ったのを見届けた篤姫は、眠るようにこの世を去りました。享年49歳。


上野寛永寺の徳川家定の隣に埋葬されました。

 

篤姫のお墓は10月に公開されたのですが、私は残念ながらその時行けませんでした。

11月に行った時には非公開で、しかも高い塀に囲まれているため、全く見えません(笑)


塀の間から、徳川廟らしきものが見えたので、写真にとりましたが、どうやら徳川綱吉霊廟勅額門のようです。

 徳川綱吉霊廟勅額門



 

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| 東京 | 16:40 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
一橋徳川家屋敷跡

 

篤姫が、ついに江戸城を去る日が来ました。

ドラマの中では、奥女中たちにかいがいしく引越の指示をしながら、大奥中を歩き回っている篤姫の姿がありましたね。

でも、史実はちょっと違ったようです。

 

幕府は、江戸城無血開城と引き換えに城の明け渡しを余儀なくされたのですが、それを頑として拒否したのが篤姫だったそうです。

そこで困り果てた重臣たちが、「3日間のみ退去願いたい」とウソを言って説得したので、篤姫はしぶしぶ重い腰を上げたとか。


でも、篤姫もそんな事は百も承知で、騙されたフリをして城から退去したのでしょう。

しかも、衣装も道具も、ほとんど何も持たずに城を出たそうです。

篤姫の意地と覚悟のほどが偲ばれる、大変面白いエピソードだと思います。

 

さて、大奥を出た篤姫はひとまず「一橋邸」へ身を寄せました。

この「一橋邸」は、江戸城の平川門から出てすぐの所にあり、現在の丸紅本社から気象庁、大手町合同庁舎のあたりにわたる広大な敷地だったそうです。


丸紅本社ビルから一ツ橋へ行く途中に、「一橋徳川家屋敷跡」の碑があります。
一橋徳川家屋敷跡

一ツ橋



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| 東京 | 21:29 | comments(8) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
江戸城外周辺

 

 地下鉄永田町で降りて地上に出ると、歴史がありそうな石垣が見えてきます。
「赤坂見附跡」と書かれた説明
によると・・
赤坂見附とは、江戸城外郭門のひとつ赤坂御門の事で、敵の侵入を発見する施設であるため「見附」と呼ばれた・・・そうです。

 

赤坂見附跡

赤坂見附跡1

赤坂見附跡2 

 

見附跡から少し歩くと、和風の美しい橋が見えてきます。

これは、弁慶堀にかかる「弁慶橋」で、橋は明治時代にかけられたものですが、堀は江戸城の外堀跡だそうです。


当時はこのあたりまでが江戸城の領域であり、外堀や門で厳重な警備が敷かれていたのですね。

 

弁慶橋

弁慶橋 

 

弁慶橋を渡ると、そこはもう「城外」です。


でも、橋を渡り終えるとすぐ

「紀伊和歌山藩徳川屋敷跡」の碑があります。

紀州徳川屋敷跡
ここで、14代将軍家茂が生まれました。

 

さらに歩いてホテルニューオオタニ前まで行くと

「近江彦根藩井伊家屋敷跡」の碑があります。

井伊家屋敷跡
 

このあたりは紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家のお屋敷が並んでいたので、一字ずつとって「紀尾井町」と呼ばれているそうです。

江戸城外には、たくさんの大名屋敷が並んでいたのですね。

もちろん、そこにある坂は紀尾井坂です。

 

紀尾井坂
紀尾井坂

ところが、ここで大事件が起りました。
時代はもう少し下がって、明治11年(1878年)
 、西南戦争の翌年。
この坂を通りかかった大久保利通が、不平士族によって暗殺されました。
近くの清水谷公園に哀悼の碑があります。

「大久保利通公哀悼碑」
大久保利通公哀悼碑
西郷隆盛も大久保利通も、結局は非業の最期を遂げたのですね(涙)


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| 東京 | 15:51 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
勝海舟ゆかりの地・墨田区
  

勝海舟は文政6年(1823年)、旗本・勝小吉の長男として江戸本所(東京都墨田区)に生まれました。

旗本とはいうものの下級武士であるため、貧しい少年時代を過したそうです。

幕末には、下級武士から身を立てて、活躍した人が多いですね。

やっぱり、ハングリー精神が人間を成長させるのでしょうか。

 

両国公園の一角に、生誕の地の碑が建っています。

勝海舟生誕の地の碑

勝海舟生誕の地の碑
 

しかし貧しい少年時代でありながらも、島田虎之助に直心影流の剣術を学び、また永井青崖に弟子入りして蘭学を学んだそうです。

 

神社の境内で夜通し剣術の稽古をしたという牛嶋神社跡

牛嶋神社跡
 

剣の師匠の勧めで禅修業にも励んだという弘福寺

 弘福寺2


万延元年(
1860年)勝海舟は、福沢諭吉らとともに幕府の軍艦でアメリカへ渡航するというビッグチャンスに恵まれます。

百聞は一見にしかずといいますが、アメリカで見たすべての事は大きな驚きであったでしょうし、大きな収穫もあった事でしょう。


その後は幕府の中で、広い視野を持つ開明派として活躍し、江戸城無血開城という大きな功績を残しました。

隅田区役所にある勝海舟の銅像
勝海舟の像




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| 東京 | 20:37 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP