大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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番組情報!

10月29日(水)7:58〜

日本史サスペンス劇場」(日本テレビ系)

その後の篤姫 明治を生きた篤姫の新事実
番組HP

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| - | 14:30 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
増上寺

東京の芝公園にある増上寺は、徳川将軍家の
菩提寺で、二代秀忠、六代家宣、七代家継、
九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の
将軍のほか、崇源院、皇女和宮ら五人の正室、
桂昌院はじめ五人の側室ほか、歴代将軍の子女
多数が埋葬されています。


大殿

この門は「鋳抜門」と言われ、もと文昭院殿霊廟
(六代将軍・家宣)の宝塔前「中門」であったものです。
左右の扉には五個の葵の紋、両脇には昇り龍、
下り龍が鋳抜かれています。




旧徳川将軍家霊廟は御霊屋とも呼ばれ、増上寺大殿の
左右に並んでいましたが、昭和20年二度にわたる
空襲直撃でほとんどが消失してしまいました。
消失した御霊屋郡はしばらくの間、荒廃していましたが、
その後土葬であったご遺体は桐ヶ谷にて荼毘に付され、
墓所は一箇所にまとめられ現在地に改葬されました。
(増上寺HPより)




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| 東京 | 23:58 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの地(2)

京都木屋町通りに「幾松」という料理旅館があります。
京都に潜伏中の桂を支え、同志でもあった芸子「幾松」とのロマンスはあまりにも有名ですが、ここが、そのふたりの寓居址です。
この旅館には、今も抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などがあり、その当時のまま保存されているそうです。
また幾松の部屋の天井には大きな石が仕掛けられていたそうです。
私はそれらをテレビで見たことがありますが、今回は素通りで中には入りませんでした。
機会があれば、一度見てみたいものです。

幾松

寓居址

維新後、幾松は晴れて結婚して、木戸松子となりました。
京都東山の霊山歴史館の裏山には、ふたりの墓が並んで建っています。
木戸孝允の墓

木戸松子の墓


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| 京都 | 11:08 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの地(1)


京都河原町御池にある京都ホテルオークラに「長州藩邸跡」の石碑があります。
案内板には
「高瀬川一之舟入の南側から御池通りまでの、河原町通りから木屋町通りに至る一帯には長州藩邸があり、幕末維新期の重要な政治的拠点となった。
(中略)
元治元年(1864)蛤御門の変で幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃え続けたという」
と書かれています。
京都を火の海にした根源は、ここだったのですね。
長州藩邸跡

また河原町通り側には桂小五郎(後の木戸孝允)像があります。
桂小五郎は、坂本龍馬らの仲介による薩長同盟に、長州の代表として会談に臨み、その後の歴史を大きく動かして行くことになります。
桂小五郎の像


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| 京都 | 16:05 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
二本松薩摩藩邸跡

同志社大学今出川キャンパスの西門前には薩摩藩邸の
石碑と案内板が建てられています。





現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862年)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、5805坪(約1万9千平方メートル)、9棟の建物と多くの土蔵が立ち並んでいた。
 薩摩藩は、鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外(と)様(ざま)の雄藩で、石高は約77万石。幕末に藩政改革に成功してから中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開、ついで長州藩と同盟して武力討幕に転じ、幕末、維新の政局の主導権を握った。藩邸はこうした活躍の根拠地であった。

(案内板より)

現在、薩摩藩邸跡を示す石碑は西門前にありますが、
当時は御苑内の近衛邸と向かい合って建っていたそうです。

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| 京都 | 20:55 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
寺田屋騒動


江戸時代は、ここから大阪八軒屋まで、淀川を上下する
船旅の客で賑わったそうです。









文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
 当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光(ひさみつ)を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら30余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠(なおただ)、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。
(案内板より)

また、慶応二年には、ここに宿泊していた坂本龍馬が
幕吏に襲撃され、後に妻となったお龍の機転で難を
逃れました。
現在も宿屋として営業し、昼間は内部を公開しています。

最近になってこんなニュースも話題になっていました。

龍馬ファンに衝撃 事件の舞台 寺田屋に建て替え疑惑

今、京都市観光文化情報システムのHPを見たら、

「寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、
焼失した。現在の建物はその後再建されたもの
である。」


となっていました。

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| 京都 | 20:35 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
篤姫曽祖母の墓

京都御所を訪れた帰り道、篤姫の曽祖母の墓
偶然見つけました。
場所は、京都御所の東側、梨木神社を出て
すぐのところにある清浄華院の境内です。







説明の看板によると、

この宝篋印塔は、薩摩25代藩主島津重豪(しげひで)の側室で智満方(ちまのかた)の墓です。彼女は公家堤代長(としなが)の長女で、篤姫の実父忠剛の祖母にあたります。忠剛は養子となって今泉島津家の家督を継ぎ、一族の娘 幸(ゆき)と結婚して生まれた娘が篤姫です。
当山塔頭 松林院が堤家の菩提寺であるところから島津藩によって建立されたと伝えられています。





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| 京都 | 08:44 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP