大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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和歌山城


1585年、羽柴秀吉が藤堂高虎に命じて築城。
1619年に徳川家康の第10子、徳川頼宣が入部して、
紀州徳川55万5千石の居城となりました。
第14代将軍・徳川家茂となった慶福は紀伊徳川家の
当主でした。
二次世界大戦の戦火により、わずかな建造物を残し
消失しましたが、1958年に天守閣が再建されました。

私は、昨年の夏、和歌山を旅行しました。
その時に撮った和歌山城の写真です。






城跡は緑豊かな和歌山公園として市民の憩いの場に
なっています。
天守閣最上階から和歌山城下町の眺望を楽しむことが
できます。



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| 和歌山 | 21:56 | comments(15) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
西郷と月照


京都へ行ったことのある人は誰もが一度は訪れている
京都のシンボルともいえる清水寺
その清水寺の塔頭に「月の庭」という庭園で有名な
成就院があります。

月照(げっしょう)は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶で、
成就院の第24世住持を務めました。




月照の肖像画

月照は、1813年大阪の医師の子として生まれ、
15歳の時に叔父の蔵海上人を頼って成就院に入り、
23歳で清水寺の最高位につきます。
師である蔵海上人は学問に長け、和歌をよくしました。
月照はその影響を受け、歌を通じて勤皇運動の
中心的存在であった近衛忠煕、青蓮院宮尊融らと
関係を持ち、尊皇攘夷に傾倒していくことになります。
成就院は以前から薩摩藩の援助を受けていたこと、
薩摩藩から近衛家に輿入れがあったことなどから、
月照と近衛家、島津家が結びついたともいえます。
1853年、浦賀にペリーが来航し、反幕運動が
高まる中、月照は清水寺の住持を弟の信海に譲り、
勤皇志士と結んで朝勢を回復しようとします。
1858年、大老・井伊直弼による安政の大獄
起こり、島津斉彬一橋慶喜を時期将軍に押す
一派への弾圧が始まります。
その矢先、斉彬が急死。
死因はコレラと言われていますが、父である斉興と
弟・久光の一派に毒殺されたという説もあります。
西郷隆盛と月照は、島津斉彬との関係で親交が
あり、主君である斉彬の死を知った西郷が殉死
しようとした時に、
「斉彬公の意思をあなたが継ぐのです。」と
引きとめました。
やがて月照にも幕府の手がのび、近衛忠煕の
命を受けた月照は、西郷とともに薩摩に落ちます。
薩摩藩に逃れたものの、藩では月照の保護を
拒否し、密かに処刑せよとの命令を下しました。
西郷は月照を守りきれず、死を覚悟します。
1858年11月15日の夜、鹿児島の錦江湾で
西郷は月照を抱かかえて船から海へ飛び込みました。
月照は死に、西郷は助けられ、奇跡的に助かります。
この時、月照は46歳、西郷は32歳でした。
その後、月照の弟・信海は勤皇の行動をとったことで、
幕府の厳しい尋問を受け、獄死しました。

清水寺には舌切茶屋忠僕茶屋がありますが、
これらの茶屋も西郷と月照に関係があります。

当時、清水寺の執事であった近藤正慎は、
月照の薩摩逃避を手助けした理由で、幕府に
捕らえられ、行方を聞かれましたが自ら舌を
噛み切って黙秘を貫きました。
後に近藤正慎の子孫が出店を許され、
「舌切茶屋」と名付けました。

一方、西郷と入水した月照に最後まで付き添った
従僕・大槻重助も捕らえられましたが、のちに
釈放となり、西郷と清水寺の援助で店を出すことが
許され、「忠僕茶屋」と名付けました。

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| 京都 | 10:47 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
番組情報


7月27日 18:56〜19:58 テレビ朝日 「大胆MAP」
篤姫にまつわる人SP
スゴイ偉人の子孫全部見せます

大胆MAP番組HP

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| - | 08:17 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
「篤姫」ゆかりの地を訪ねて・・・西郷隆盛 上之園町屋敷跡
西郷隆盛は29歳の頃、鍛冶屋町から甲突川を越えた向こう側・上之園町に引越ししている。

甲突川にかかる「なんしゅう橋」を渡ると
甲突川

なんしゅう橋

鹿児島中央駅のメインストリート「ナポリ通り」にでる。
その道沿いに西郷隆盛の宅地跡の碑がある。
西郷隆盛屋敷跡

現在は駅前の超一等地であるが、当時はそうではなく、借金の返済のため鍛冶屋町の屋敷を売り、ここへ移って来たと云われている。
当時、西郷隆盛は斉彬に才能を認められて薩摩から日本へと活躍の舞台が広がったものの、斉彬が急死。僧月照をかくまう事が出来なくなり入水自殺、そして生還して大島流刑、アイカナとの出会い、復活。再び沖永良部島流刑。再び復活。線子夫人との結婚。そして明治維新の英雄と呼ばれるまでになっていく。
まさにここに居住していた時の西郷隆盛の人生は波乱万丈でした。  (案内板より引用)

という訳で、ここから新幹線の駅は目の前です。
鹿児島に滞在した時間は短かったけれど、その割にはたくさんの「ゆかりの地」を訪ねることができました。
鹿児島市は、駅前に沢山の史跡があるし、また市内をシティビューで効率よく回れるので、大変観光しやすい街です。
また機会があれば、訪れてみたいですね。

                                  鹿児島の旅 完



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| 鹿児島 | 10:19 | comments(10) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
「篤姫」ゆかりの地を訪ねて・・・西郷隆盛誕生地
「大久保利通生い立ちの地」からさらに川沿いを歩くと、5分足らずで「西郷隆盛誕生地」に着きます。
西郷隆盛と大久保利通がいかに近くに住んでいたかがよく分かります。

1827年(文政10年)西郷隆盛は、ここ加治屋町で下級武士一家の7人兄弟の長男として誕生しました。
貧しい生活の中で藩校造士館に通い、次第に下鍛冶屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を現していきます。
17歳で郡方書役助という地方役人になり、農村を回り、農政についての意見をまとめました。
これが島津斉彬の目にとまり、やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなったのです。
                             (案内板より抜粋)
西郷隆盛生誕地1

西郷隆盛生誕地2

生誕地の宅地跡の隅に、東京の目黒区から寄贈された庭石があります。
西郷隆盛の弟従道は、明治7年に兄の隠棲所として、東京の目黒に土地を買い求めましたが、西南戦争による隆盛の死のため目的が果たせませんでした。
しかし、その後明治33年までは別邸として、それ以降昭和16年までは本邸として使用されたそうです。
庭園は、大きな池と斜面の滝を中心とした広大なもので、明治時代を代表する庭園として高い評価を受けていました。
これはその西郷従道邸跡が公園に整備されるのに伴い、庭園にあった石を移設したそうです。
                              (案内板より抜粋)

西郷隆盛生誕地3

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| 鹿児島 | 21:17 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
「篤姫」ゆかりの地を訪ねて・・・大久保利通
鹿児島中央駅の近くを流れる甲突川のほとりに、大久保利通像があります。

大久保利通像

このあたりは加治屋町と呼ばれ、西郷隆盛、大久保利通をはじめ、多くの幕末・維新の偉人を生んだ地です。
川のほとりには木陰もあり、遊歩道も完備されていて、ちょっとした憩いの場となっています。
私も新幹線に乗るまでの少しの時間を歩いてみました。
甲突川

川に沿って少し歩くと、大久保利通生い立ちの地があります。
大久保は高麗町という所で生まれたそうですが、まもなくこの鍛冶屋町に移り、西郷を竹馬の友としてともに育ちます。
大久保利通生い立ちの地

後に、ふたりはその固い友情で倒幕に奔走し、ついに明治維新を達成させます。
しかし新政府樹立後は対立し、西南戦争が勃発すると、大久保は西郷隆盛を敵として、政府軍を指揮する事になります。
そして西郷隆盛が敗れた翌年、大久保もまた東京の紀尾井坂で不平士族6名に襲撃され、命を落とします。
人望の厚い西郷さんを討った恨みは、やっぱり怖いですね。



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| 鹿児島 | 09:44 | comments(8) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
「篤姫」ゆかりの地を訪ねて・・・私学校跡
鶴丸城のすぐ横に、西郷隆盛が設立した私学校跡があります。
遣韓使節をめぐる政争で敗れて帰郷した西郷のもとへ、若者たちが続々と集まり、西郷は、求められるままに私学校を設立しました。
しかし私学校は年々強大化し、やがて反政府の気運を高まらせ、ついに過激派生徒が暴走。
政府火薬庫の襲撃によって、西南戦争を引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史を閉じたのでした。(案内板より抜粋)
私学校跡2

私学校跡1

石垣には激戦のあとを物語る銃弾の跡があります。
すさまじいです。
銃弾跡1

銃弾跡3

銃弾跡2


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| 鹿児島 | 10:26 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
「篤姫」ゆかりの地を訪ねて・・・鶴丸城跡
鶴丸城は1602(慶長7)年、島津家18代家久が築いた館造りの城で、別名「鹿児島城」とも呼ばれるそうです。
1602年といえば、関ヶ原の合戦の2年後ですね。
その後29代忠義まで、薩摩藩主代々の居城となっていたのですが、徳川幕府の崩壊とともに、廃城となりました。
現在ではこのような石垣が残っているだけです。

鶴丸城1

鶴丸城2

鶴丸城3

鶴丸城4

篤姫は島津斉彬の養女となって、この城で約2ヶ月過しました。
伸びやかに育ってきた彼女にとって、さぞかし窮屈なお城住まいだったと想像します。
大河ドラマのなかでも、幾島とのバトルがありましたが、事実もそれに近かったでしょうね。
そして篤姫は、この城でひとつ成長して、江戸に向かって出立したのでした。



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| 鹿児島 | 11:12 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
「篤姫」ゆかりの地を訪ねて・・・小松帯刀銅像
西郷銅像の数十メートル向かい側に、小松帯刀の銅像があります。
お互いに向き合っているのかと思ったら、そうではなく、島津斉彬や久光・忠義の像がある照国神社を向いて建立されたそうです。
さて、今年の大河ドラマを見るまで、小松帯刀という人物は全く知らなかったのですが、28歳で薩摩藩の家老になり、西郷、大久保などの活動をささえ、薩摩藩を明治維新のリーダー押し上げる事に尽力した人だそうです。
主に京都を中心に活動し、京都屋敷もあったそうです。
この像は、徳川慶喜が京都で大政奉還をすべきかどうか問うた時、小松帯刀が他藩にさきがけて「大政を奉還すべき」と記帳したといわれ、その時の様子をイメージして造られています。
朝に写真を撮ったため、逆光で真っ黒になってしまいました。
小松帯刀像



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| 鹿児島 | 13:57 | comments(8) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
「篤姫」ゆかりの地を訪ねて・・・西郷銅像
照国神社から歩いて5分くらいの所に、これもまた城山の麓に、西郷隆盛の銅像が建っています。
まるで、桜島を見据えるかのように、遠くを見ています。
身長5m.余り、台座も含めると8m.もあるそうです。
西郷銅像

銅像サイズ

西郷隆盛は、実は写真嫌いで、一枚も写真が残ってないそうです。
従って、我々の知っている肖像画は、弟の西郷従道と従弟の大山巌を合わせてモンタージュしたものなのです。
その肖像画をもとに建設されたのがかの有名な東京上野の西郷銅像。
明治31年の除幕式には西郷隆盛の線子夫人も参列されたそうですが、像を見るなり
「あれまあ、家の人はこんな人ではなかったのに」とおっしゃったそうです。
                        海音寺潮五郎「西郷隆盛」より引用

さて、こちらの銅像は昭和12年に完成したものです。
果たして実物の西郷隆盛に似ているのかどうか・・
もう今では知る人もないでしょうが、似ていて欲しいものです。


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| 鹿児島 | 13:45 | comments(9) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP