2021.09.22 Wednesday
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2007.10.31 Wednesday
風林火山ゆかりの地・高坂弾正の墓
初代海津城主・高坂弾正のお墓が、松代城下から少し離れた明徳寺にあるという情報を得たので、さっそく足を伸ばしてみた。
明徳寺・山門・・・山門にモダンなのれんが、かかっていました。
高坂弾正は、信玄・勝頼の二代に亘って武田家に仕え、のち武田の四天王と称されるほど知勇を兼ね備えた大将であった。 海津城主として18年間北信濃の守りを固め、謙信が侵攻する隙を与えなかったと云われている。 また高坂弾正は、山本勘助から兵法や築城の教えを受けたとされ、かの有名な「甲陽軍艦」は甥の春日惣次郎と家臣の大蔵彦十郎の協力を得て作成したのが原本とされる。 (案内板より、一部引用)
高坂弾正の墓 墓碑を削り取る人がいると聞いた事があるのですが、なるほどその痕跡があります。
栗林忠道中将の墓・・風林火山とは関係ないのですが。 映画「硫黄島からの手紙」で一躍有名になった栗林中将のお墓もこの明徳寺にありました。松代出身だそうです。FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
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2007.10.29 Monday
風林火山ゆかりの地・海津城址(松代城)
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2007.10.27 Saturday
風林火山ゆかりの地・典厩寺(てんきゅうじ)
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2007.10.25 Thursday
風林火山ゆかりの地・山本勘助の墓
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2007.10.23 Tuesday
風林火山ゆかりの地・胴合橋(どあいばし)
山本勘助は、妻女山に陣取る謙信を挟打ちするため、武田の主力勢を妻女山に向かわせる「啄木鳥戦法」を考案した。 しかし謙信にその裏をかかれ、手薄になった本陣を攻められたため武田勢は大混乱に陥ってしまう。 勘助はその戦法の誤りを悟り「わが武運の尽きる時」と、自ら越後勢の中に突進して、討死したと云う。 謙信の方が、一枚うわ手でした。
敵の手にある勘助の首を家来たちが奪い返し、胴と合わせた場所がここだそうです。 赤川の碑から歩いて5分くらいの所、大きなレストランの駐車場の片隅にあります。FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします。
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2007.10.21 Sunday
風林火山ゆかりの地・首塚
この第4次川中島の合戦で、この辺り一帯だけでも実に6,000人余りもの戦死者があったと云う。 それを、武田の家臣である海津城主・高坂弾正が敵味方の隔てなく、手厚く葬ったのがこの首塚である。 八幡社の中にあります。
これを知った謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田に対し「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩であらず」とただちに塩を送り、恩に報いたと云われる。
いいお話ですね。乱世に咲いた美学です。
八幡社から南に歩いて10分くらいの所にもまた大きな塚がある。 そこには、合戦の戦死者を悼んで「赤川の碑」が建立されている。 それによると、「両軍の死者8,000余人を数え、死屍は山を築き、社前の河川は血に染まった」とある。
関ヶ原の合戦でも同じくらいの戦死者が出たと云われているが、戦った兵の総数が違う。20万人とも云われている関ヶ原と、32000人と云われている川中島と、同じような戦死者数であるという事は、いかにここが激戦だったかを物語っている。FC2ブログランキング参加中! 投票にご協力ください⇒FC2 Blog Rankingクリックお願いします
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2007.10.19 Friday
風林火山ゆかりの地・川中島2
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2007.10.17 Wednesday
風林火山ゆかりの地・川中島1
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