大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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安芸城 五藤家
今回から、五藤氏の領地安芸の史跡を紹介していきます。
安芸市は、高知市の東に位置し太平洋に面した所です。
五藤氏が本拠にした安芸城は、静かな田園地帯の中にありました。

五藤吉兵衛が有名です。弟の五藤為重は山内家の家老となり、山内一豊が土佐入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。その後も五藤氏は幕末まで代々山内氏の家老を勤めている。

※土居 城郭や屋敷の周囲に防禦のためにめぐらした土塁、転じて士豪の屋敷。

吉兵衛吉兵衛
敦賀城攻めで一豊が矢を受けその矢を引き抜いた。亀山攻めで死亡(31歳)、家督は弟:為重が継ぐ
 


安芸城安芸城
江戸時代には、城の建物はなかった

安芸城堀

1569(永禄12)年、ここは安芸氏の居城であったが、長宗我部元親に攻められ落城し長宗我部氏に支配されていた。
1601(慶長6)年、一豊が土佐に入国し、安芸城には五藤氏が配置された。



五藤氏五藤氏顕彰の碑
左:安芸城内には現在も五藤氏が住んでいます。
右:五藤家に伝わる文書、工芸品などを民族資料館に寄付した顕彰の碑
(安芸城内)


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| 高知 | 00:34 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
山内家に縁ある寺 墓所
筆山



















筆山
(高知城、鏡川を南に越えたところにあります)
昔から山全体が墓所として使われていた。
土佐藩主山内家ゆかりの寺や墓所がこの山の周辺にあります。
15代豊信(容堂)以外の藩主の墓がこの山の中にあります。



真如寺門柱真如寺
真如寺 (筆山の前にあります)

山内家の菩提寺








要法寺



















要法寺(
筆山の東側にあります。)
一豊が長浜城主となった時に、愛知から住職が呼ばれ、以来、掛川、高知と移転していく。一豊だけでなく、弟:康豊の信仰もあつかった。
山内家の三葉柏の紋がお寺の瓦などに刻まれている。



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| 高知 | 00:03 | comments(5) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
山内神社(高知) 土佐稲荷神社(大阪)
山内神社















山内神社
1806(文化3年)年、土佐藩10代藩主豊策(とよかず)により、初代藩主の一豊とその夫人の見性院(千代)、2代藩主忠義(ただよし)を祀るために高知城内に造営された藤並神社に始まる。
1935(昭和9)年4月、15代豊信(とよしげ)・16代豊範(とよのり)を祀る「別格官幣社山内神社」が創建された。
1945(昭和20)年、戦火により両神社とも焼失し、以降、仮宮で祭祀が行われていた。
1970(昭和45)年、社殿を再建して藤並神社を合祀し、土佐藩歴代の全ての藩主を祀る神社となった。




容堂像山内家資料館
左:山内容堂像  右:山内家資料館 (山内神社内)
資料館は、山内神社内にあって、土佐藩主山内家の資料、美術工芸品を保存公開しています。
これらの資料は、2004(平成16)年に全て(6万7千点)が高知県に移管されました。




土佐円満看板土佐円満神社
土佐円満神社
高知城内にあります。
謂れなどは不明のようです。何でも円満にいく様にとお参りされるのがいいようです。
  








土佐稲荷看板土佐稲荷
土佐稲荷神社(大阪)
六代藩主:豊隆(とよたか)の創建で、土佐藩の大阪蔵屋敷の中に鎮守社として祀られていた。
明治になって、土佐士族:岩崎弥太郎の所有となり、岩崎の事業:三菱の守り神となりました。
大阪城から西へ2kの所にあり、一豊時代の大阪屋敷がこのあたりにあったと言われています。現在も土佐堀通りと言う地名が残っています。



土佐稲荷灯篭土佐稲荷馬
左:八代豊敷(とよのぶ)寄進の灯篭
(名前が刻まれている)

右:馬の銅像がありますが、いわれは何も書かれていません。千代の買った馬か。


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信号 信号 信号
※コメントの送信が上手くいかない不具合が発生しています。
個人のPCの問題なのかシステムの問題なのか不明です。
コメント返しができていませんが、上記事情ですので、ご了解お願いします。

担当:lameru

| 高知 | 00:56 | comments(7) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
功名が辻11月26日「種崎浜の悲劇」
家康に「早く一領具足を平定しろ」と指図された一豊はあせった。
そして、六平太の進言で、一領具足を鎮圧するために種崎浜で相撲大会を開き、相撲に自信のある一領具足を集め、一網打尽に鉄砲で撃ち殺すことにした。
20万石の大大名になった一豊には、実直に積み上げてきたやり方を忘れ、早く土佐を平定し、せっかく手に入れた土佐20万石を守るためには、手段を選ばない卑劣なやり方をするようになってしまっていた。

1601(慶長6)年3月1日、その企ては実行され、一領具足と庄屋
73人が捕らえられ種崎浜で処刑された。


六平太 「これで土佐20万石も千代も安泰だ」
千代  「私を守ると言ったことが、これですか」
六平太 「陰で生きた者は、陰で死んでいく。千代がすきだったラブラブラブラブラブラブ
      と言って千代に抱かれて六平太は死んでいった。 抱擁 抱擁 抱擁
千代  「六平太ーーー」

     この残忍なやり方に千代は、一豊に怒りをぶっつけた。 怒り怒り怒り
千代  「これが山内家のまつりごとですか。・・・・・
     おひまをいただきとうございます」 失恋失恋失恋失恋失恋

功名が辻も12月3日「功名の果てに」、10日「永遠の夫婦」のあと2回です。
最後までよろしくお付き合いお願いします。


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皆様のお陰で27日00:30、歴史部門第1位です。
ご声援ありがとうございます。 

  
| ドラマ | 00:27 | comments(13) | trackbacks(4) |- pookmark↑PAGE TOP
山内容堂公邸跡 山内家下屋敷 容堂誕生地
一豊写真 
一豊が初代の土佐藩主ですが、あんがい一豊と千代の史跡は少ないです。今年は、大河で「功名が辻」が放映されているので急に脚光をあびているようです。

左:山内一豊(下屋敷資料館)

高知では、やはり「はりまや橋」と「坂本竜馬」が中心ですが、幕末に活躍した志士たちの史跡も多くあり、藩主では、15代山内容堂の史跡が多いです。
 




下屋敷と容堂公邸跡道路の左:
山内家下屋敷長屋

道路の右:
山内容堂公邸跡





下屋敷容堂が藩主であった、1864(元治元)年に、この地に山内家下屋敷を建てたときに警護の武士が宿泊する場所として、この長屋が建てられた。


下屋敷表下屋敷部屋
長屋1階は、7区画に分けられ4部屋は畳敷き、その他は板敷きと土間です。2階は3部屋に分けられています。現在、2階には資料館として和船や土佐出身の偉人の写真が展示されています。

容堂写真容堂誕生地
左:容堂(下屋敷資料館にて)

右:容堂誕生地の碑(追手門の東)









1827(文政10年)年11月27日生まれ、名は豊信(とよしげ)、容堂は隠居してからの号
福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。
龍馬がたてた政権を朝廷に返す案「船中八策」を理解しており、容堂はこれを妙案と思い、15代将軍・慶喜に建白。1867(慶応3年1)年11月9日に、大政奉還が成立した。
東京で妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。明治5年、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、1872(明治5)年7月26日、46歳で生涯を閉じた。


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| 高知 | 00:16 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
五藤家 大川筋手嶋家屋敷
高知五藤家















五藤家屋敷
五藤吉兵衛の死後、弟:為重が家督を継いで家老として、高知城のすぐ南に広大な屋敷を構えていました。

吉兵衛:ドラマでは、武田鉄也が演じており、一豊より歳上で一番の家臣として多くの戦いに従軍しました。史実は、一豊より8歳年下で、朝倉攻めで一豊が朝倉の武将:三段崎勘右衛門の矢を顔に受けたとき一豊の顔を踏みつけ矢を抜いた。その時の、矢とぞうりが家宝として伝わっています。1583(天正11)年、亀山城攻撃で一番乗りを果たすが討ち死。享年31歳




大川筋武家屋敷















手嶋家屋敷
城の北側の江の口川沿いに位置し、幕末の土佐藩中級武士の長屋門と母屋が資料館として残っています。
手嶋家は、掛川から一豊に従って土佐入りし、家禄250石の御馬廻り役で、上士と呼ばれ、長宗我部の家臣:郷士より身分が高かった。


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| 高知 | 01:44 | comments(3) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
一豊の一領具足鎮圧法
新国主:山内一豊を認めない一領具足たちを説得するために、1600(慶長5)年
11月に井伊直政の家臣が桂浜から浦戸城に入ろうとしたが一領具足たちの怒りはおさまらなず、やむなく直政の家臣は「鎮圧しないと元親の命はないぞ」と元親の家臣を脅し彼らを討ち取らせた。その首273で、塩漬けにして大阪に送られた。
これが一豊が入国する前に起こった「浦戸一揆」である
今までの上司が部下を殺した悲しい事件でした。


一豊は、1601年1月に土佐入りしたが、一領具足たちの反抗は続き、一豊はその鎮圧を考えた。3月1日、一豊新国主入城の祝賀行事として桂浜で相撲大会を行った。土佐全土から相撲自慢が多数集まり、多くの見物客も来た。一豊の家臣たちは、隠し持っていた鉄砲で彼らを撃ち殺し、
浦戸一揆に参加した一領具足と庄屋73人を見つけ出し
捕まえ、そして「種崎浜で処刑」したのであった。

今までの一豊のイメージからかけ離れた力づくの手段で鎮めたのであった


一領具足
一領具足(いちりょうぐそく)
平時は田畑を耕して農民としての生活をしているが戦となると一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を持って召集に応じる半農半兵の兵士のことを言う。
石丸神社
石丸神社
浦戸一揆で殺された者の胴体を埋葬し祀られた神社

一領具足地蔵
六体地蔵
一領具足の浦戸一揆で死んだ霊を慰めるために建てた地蔵尊。 
1935(昭和10)年4月7日に開眼式が行われた。


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| 高知 | 01:10 | comments(7) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
城 一豊と千代の像 はりまや橋
天守閣2
















城は、掛川城をモデルにしてそれよりも大きく四層六階建て。
内郭は、東西480m・南北490m、外郭は、東西1000m・南北650m。
城の近くには土佐入国前からの譜代の家臣を配置した。彼らが後に「上士(じょうし)」
と呼ばれる。城の西は上町と呼ばれ下級武士、東は下町で商人たちが住んだ。


千代像















城内にある千代像
結婚時に持参した10両の金で一豊に名馬を買わせ、それが信長の目にとまり出世の糸口となった話は有名である。(1965(昭和40)年に設置)

一豊像















城の近くの文学館にある一豊像

築城絵捕鯨絵
左:築城の様子を書いたパネル
人夫の数は一日1300人くらい、日当は米七合と味噌代くらいだったようです。
右:当時、土佐では捕鯨が行われていました。



はりまや橋旧はりまや橋現









高知と言えば、よさこい節で知られる「はりまや橋」です。
左:古いはりまや橋   右:現在のはりまや橋  (2本並んでいます)
城下町の堀川に架けられた橋で御用商人の北岸の播磨屋宗徳の屋敷と南岸の櫃屋道清(ひつやどうせい)の屋敷の通路として架けられた私橋です。
朱塗りの欄干になったのは、1958(昭和33)年に映画撮影用に塗られた。
堀川は、1966(昭和41)年に埋め立てられました。

(参考資料:楠木誠一郎著「山内一豊とその妻111の謎」)

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| 高知 | 16:40 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
高知城
1601(慶長6)年1月に土佐入りした一豊は、6月には
大高坂山(おおだかさ)の地に城を築くことを決めた。

浦戸城は、東・南・北を海に囲まれているため、掛川五万石より大きな城下町を造ろうとした一豊には不満であった。そして、1603(慶長8)年8月に竣工した。




高知城天守閣















 城の南北に鏡川と江の口川が流れていることから
「河中城(こうち)」と名づけた。一豊の死後「高智(こうち)」と変わり
三度変わって「高知」となった。

一豊の建てた城は、1727(享保12)年2月の大火で追手門他2〜3の建物以外は焼失し、現在の高知城は、1753(享保14)年から順次再建されたものである。




高知城裏天守閣から
入り口から見た天守閣   本丸から見た東多聞、廊下門、詰門



天守閣展望
天守閣から見た城下

















詰間天守閣内
左:詰門 本丸と二の丸の間に建てられた橋廊下 右:天守閣内
詰門:1階は塩蔵、2階は窓も少なく物置、3階は身分に応じた詰め所があり、防衛上の役割も担っていた。




天守閣居間家老居間
左:城主謁見の間   右:家老の居間(廊下門)



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| 高知 | 14:45 | comments(3) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
浦戸城
1601年1月8日、山内一豊は浦戸城に入った。
ここは、長宗我部元親の居城であった。



長宗我部盛親
 長宗我部氏は、土佐の豪族であった。
1575年、長宗我部氏が土佐を統一する。
1584年、元親が四国を統一する。しかし、
秀吉の四国征伐で破れ土佐一国となる。
1586年、盛親、21代目の後継者となる。
1591年、浦戸城を本拠とする。
1599年、父:元親の死去により家督を相続
1600年、関ヶ原で西軍に参加するが戦わずして帰国する。
11月、伏見城に家康を訪ね西軍参加の件を詫びるが許されず、京都で閉居する。
26歳の若さであった。



浦戸城と桂浜















桂浜から見た浦戸城(現在は坂本竜馬記念館と国民宿舎が建っています)
一豊入国の先陣として弟:康豊が桂浜に着くとこの浜に一領具足が陣を敷き、
入国を阻止した。


浦戸城石碑天守閣跡









浦戸城石碑と天守閣跡


浦戸城史跡井戸跡









浦戸城址碑と浦戸城井戸跡



坂本竜馬像土佐と言えば坂本竜馬 
桂浜で太平洋に向かって立っている竜馬像


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| 高知 | 11:28 | comments(5) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP