大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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功名が辻10月29日「決戦へ」
徳川方に味方すると決めた一豊の働きで、秀吉恩顧の武将が寝返らないかとの家康の不安も徐々に薄らいできました。一豊、大活躍の内容でしたが、文は千代の発案で、発言は茂助(堀尾吉晴)の考えでした。 OK NG OK NG OK NG OK NG OK NG

一豊 「なにとぞこの文をお読みください」と千代から送られてきた文を封を切らずに家康に提出した。

一豊 「掛川の城を今、徳川殿に差出します」と小山軍議の席で発言し、この発言が家康へ加勢する流れとなりました。

他にも三成を見限って家康に味方する人がいました。
高台院 「うちの人と私で造り上げた豊臣家を存続させるには、徳川様に味方するしか道はありません。」

清洲城に集結した徳川方の軍は、家康の来るのを待ったが、ここでも家康は、大名の想いを試していました。
家康を評した歌「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」のごとく慎重に慎重に行動して、目の前にした天下を確実なものにしていきました。

そして、大垣城に集結した三成をおびき出すために、家康は大坂に出向くと見せかけて、決戦の場を関ヶ原と決めました。一豊56歳 千代43歳の時のことでした。 

いざ関ヶ原へジョギングジョギングジョギングジョギングジョギング

決戦の日は16ゼロゼロ915

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| ドラマ | 11:48 | comments(6) | trackbacks(2) |- pookmark↑PAGE TOP
徳川秀忠公誕生の井戸
家康の側室の一人である西郷の局。
彼女は、浜松城に奉公に出て家康の目に止まり、
二代将軍の秀忠を生んだ。
その秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸跡がある。
しかし、これには二説あり、一ヶ所は浜松城の二の丸、
もう一ヶ所は浜松市常盤町の一角。
常盤町には誕生井の石碑が建てられ、
井戸があった位置を示すように石で井の字が
組まれている。
常盤町地内の新川には、かつて誕生橋と呼ばれた橋
があり、その橋の西側一帯が誕生屋敷と呼ばれていたという。
(家康の散歩道の資料より)






| 静岡 | 11:21 | comments(0) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
山内一豊の忠臣・田中孫作・・・(近江を歩く)
田中孫作は千代の命をうけ、石田三成挙兵の第一報を一豊および家康に伝えた人物である。
孫作は千代の生家「飯(い)」から近い「高溝」の出身で、たいへん健脚であったといわれる。
また近江弁を話すので、三成方の検問も難なく通る事ができた。
・・・と、ここまでは大河ドラマにあったが、じつはその後、美濃路で大勢の盗賊に囲まれ、衣類・刀・脇差をはぎ取られるという苦難に遭遇したのである。
しかし幸いな事に、文箱と笠は無事であったので、とりあえず近くの村のすし屋の床下に逃げ込み、鮨を盗んで飢えをしのぎながら二昼夜を過ごしたという。
そこを抜け出すと、その近くでたまたま出合った浪人の衣類と大小(刀)を奪って身につけ、苦労してようやく小山(宇都宮)の一豊のもとへたどり着いたのである。
この話は孫作の孫が祖父より聞いた話として藩に提出した文書「南路志」に書いてあり、また「一豊公記」にもほとんど同じ事が書いてあるそうで、史実である。
この時奪った大小は田中家に代々伝えられたという。

また孫作は、一豊の命で柏原村(米原市)の陣にいた西軍の小早川秀秋を説得して東軍に寝返らせ、関ヶ原の合戦に大勝利をもたらせたと云われている。
孫作は、一豊が大名として出世する陰の功労者だったのである。
参考文献:NHK歴史・文化ガイド
田中
田中孫作屋敷跡
米原市にあ る田中孫作屋敷跡

田中孫作の墓

田中孫作の墓は、一豊・千代が祀られている妙心寺の大通院にある。
まるで二人を見守るかのように、霊屋の真横に建てられている。
大河ドラマでは田舎侍を演じていたが、千代と同郷である孫作は、千代が最も信頼できる忠臣だったのではないかと思わせる。


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| 滋賀 | 08:58 | comments(10) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
家康公鎧掛松
浜松市役所の前に「家康公鎧掛松」があります。

1572年、三方ヶ原の合戦から帰った家康は、大きな松に
鎧を掛けて木陰で休んだ。このことから鎧掛松と呼ばれている。
現在の松は、昭和56年に植樹された三代目。
また、鎧掛松近くの清水で、合戦に疲れた馬のからだを
冷やしたところは、馬冷(うまひやし)といってその地名が
今も残っている。
(家康の散歩道の資料参照)



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| 静岡 | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
広島城
広島城は、1589年、毛利元就の孫の毛利輝元によって築かれました。
輝元は、秀吉の京都聚楽第を見物し、城下町と一体化して政治や経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感し、瀬戸内海に面する大田川河口の三角州に城地を定め、築城を開始、1591年に入城しました。
1600年の関ヶ原の合戦後、輝元に代わり、福島正則が入城し、外張りや外郭の整備をし、広島城を完成させました。
次に浅野長晟(ながあきら)が入城し、以後、明治の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が広島城主を勤めました。
昭和20年に、原爆により全壊してしまいますが、昭和33年に外観が復元されました。5層の天守閣内部は、展望室と資料館があり、武家文化を伝える品々が展示されています。












毛利氏と豊後の戦国大名・大友氏の戦争の際、篭城する家来に毛利氏が宛てた手紙




展望台からは広島の街が一望できます。

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| 広島 | 00:00 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
宮島豊国神社(千畳閣)
宮島・厳島神社東側の小高い丘に建つ入母屋造りの大経堂。
1587年、秀吉が九州遠征の際、宮島に立ち寄り、千部経の転読供養を
するために発願し、安国寺恵瓊を奉行として大経堂の建築を命じました。
しかし、1598年の秀吉の死により、天井の板張りや正面入り口などは
未完成のまま今日に及んでいます。
畳を敷けば857畳になるという規模の大きさから通称「千畳閣」と
呼ばれています。










閣内には、豊国大明神(秀吉)が祀られています。

明治初年の神仏分離により、仏像を大願寺に移し、
秀吉を祀るようになりました。
中には数々の絵馬が掲げられています。





大願寺

長浜豊国神社は10/20、大阪豊国神社は10/21の記事をご覧ください。

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| 広島 | 00:00 | comments(6) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
秀吉が奉公した屋敷
浜松市頭陀寺町に、少年時代の秀吉が奉公したという松下屋跡があります。




その頃、秀吉は14歳。遠州頭陀寺城城主である松下源左衛門、嘉兵衛之綱のもとで奉公し、出世しましたが、流れ者がゆえに他の家臣から疎まれ、やむなく屋敷を後にすることになります。

平成13年、松下屋敷の一部を発掘したところ、約450年前の館跡が見つかり、その中に当時の硯が発見されました。
写真でもわかると思いますが、墨の真ん中がずいぶんへこんでいます。




写真は「広報はままつ」のHPからダウンロードさせていただきました

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過去の記事に「秀吉と浜松の関わり」があります。
こちらもご覧ください。
http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?eid=67

| 静岡 | 00:00 | comments(10) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
千利休屋敷跡
利休の屋敷の一つが晴明神社にあります。

信長、秀吉に仕えた茶人で、1587年の秀吉の北野大茶会を仕切り、一切の無駄を省いた飾りの無い状態でのわび茶を完成させた。
秀吉の怒りにふれて1591(天正19)年2月に切腹させられました。享年70歳

千利休屋敷跡













聚楽第近くににあった利休宅(現在は晴明神社)

晴明井晴明井
利休が茶を点てる時に使った洛中名水の一つで秀吉に振舞ったり、最後に自分のために点てた聖水の湧き出た井戸


一条戻橋一条戻橋
切腹の後、利休の首はこの橋のたもとに曝されました。実際に使っていたもので現在は、この神社から南へ100mのところに架かっています。


晴明神社














晴明神社は、平安時代の有名な陰陽師:安部晴明(あべのせいめい)の屋敷跡でもある

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| 京都 | 11:27 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
ガラシャの史跡
大河の最後に紹介されていたガラシャの史跡をアップします。

大阪城から南に500mほどのところに細川屋敷があり、ガラシャはそこで亡くなりました。屋敷跡には、越中井と聖マリア大聖堂カトリック玉造教会があります。

越中井



越中井2


三成が家康方についた細川越中守忠興の妻:ガラシャを人質にしようとした時、家来に自分を討たせ屋敷に火を放ち火中で果てることで、反三成であることを証するとともに夫への愛を示した。
井戸は、細川屋敷の台所にあったと言われています。道路は、この史跡を守るために取り囲むように曲がっています。

大聖堂ガラシャ夫人像


屋敷の一部に教会が建っており、ガラシャを偲んで像と記念碑と絵があります。

ガラシャ絵最後の祈りを捧げる
ガラシャ


ガラシャ記念碑ガラシャ夫人が亡くなってから350年過ぎた
1950(昭和25)年に建てられた記念碑



一豊屋敷は、大阪城から西に2500mほどの土佐堀あたりにあったと言う説がありますそして近くには土佐神社もありますが、他の多くの大名屋敷が細川屋敷のあった玉造に集中していたところから細川屋敷の近くにあったとの説もあります。

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| 大阪 | 00:26 | comments(9) | trackbacks(3) |- pookmark↑PAGE TOP
大河10月22日「ガラシャの魂」
今回のドラマでは、女の土壇場に追い詰められたときの度胸と清さを見せつけられました。
千代とガラシャ玉は、三成方に味方するために大坂城に来る様にとの使者の伝言にこう答えを出しました。

三成からの家康弾劾13条の書かれた文を前にして
千代 「読みませぬ」
   そして、千代は、その文を封を切らずに添え文を付けて一豊に届けました。マル秘マル秘マル秘マル秘マル秘
   これが有名な「笠の緒の文」で、これが一豊が徳川幕府で生き残った大きな原因の一つと    
   言われています。

夫:忠興が、三成が攻めてきたときは自害せよとの言いつけに
ガラシャ玉 「玉は、キリシタンゆえに自害はできません」 禁止禁止禁止禁止禁止
      ・・・・・・・
家臣 「ご決意を」
ガラシャ玉 「わかりました」
     そして玉は祈りの中で胸をつかれ命を落としました。享年38歳
     謀反人:明智光秀の三女と言われた辛い人生の最後も壮絶な死に様でした。
     三成に組しないことを死を持って証し夫への愛を表しました。
     〔辞世の句〕
  散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

一豊は、千代の文を見て山内家安泰のために、家康に加勢することを決意し、
千代は、三成に加勢するようにとの使者に対して、
「この屋敷に火を放ち諸共に自害します」と告げ、障子を開けると火を放とうとした
新右衛門と家臣ががいました。
おどしに対してかっこうよく決めた由紀恵:千代ちゃんでした。 グッドグッドグッドグッドグッド

明日のこのブログにガラシャの屋敷跡などドラマの最後に紹介されている史跡をアップしますので皆さん、来てくださいね。

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| ドラマ | 11:28 | comments(8) | trackbacks(8) |- pookmark↑PAGE TOP